アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
民族紛争
著者:月村 太郎 
 「民族紛争」について整理した新書である。第一部で具体例として、スリランカ、クロアチアとボスニア、ルワンダ、ナゴルノ・カラバフ、キプロス、そしてコソヴォの6例が取り上げられ、第二部でそれに理論的・一般的な解説を加えている。著者は、私と大学・学部同窓で6歳ほど若い、国際政治史の専門。自身によると専門は旧ユーゴ政治とのことであり、これに関する研究書もあるようである。

 言うまでもなく、旧ユーゴは、冷戦の終了と共に、内戦の嵐が吹き荒れ、特にボスニアでは、民族構成が拮抗していたために数多くの悲劇が発生し、またコソヴォでは国際社会による軍事行動まで引き起こすことになった。あるいはルアンダのように、部族間抗争が、大量虐殺を惹起し、多くの映画で取り上げられた例もある。他方で、ナゴルノ・カラバフやキプロスのように、マスメディアではあまり取り上げられなかったが、内戦の結果、ある現状が固定化しているが、依然緊張が続いている例もある。著者がここで取り上げた例は、「現時点で解決、あるいは少なくとも『凍結』されている」ものであるが、そうした幾つかの例を基に、政治学の最近の議論も参考にしながら、「民族紛争の一般理論」構築を模索した作品ということであろう。第一部については、良く知られた話も多いことから、ポイントだけ整理し、第二部の一般理論の試みを中心に見ていこう。また本書は、地域的にはユーゴ、キプロスや旧ソ連などの欧州の例が中心で、「アジア」の例としてはスリランカが取り上げているに過ぎないが、当然それ自体は東南アジアを含めた普遍的な問題であることから、取敢えず「アジア全般」の関係書籍として、ここに掲載しておくことにする。

 本書でまず取り上げられているのはスリランカの例である。これはまさについ最近の2009年、「タミル・イーラム解放の虎」が最後の拠点に追い詰められ殲滅、紛争が終了したということで、私の記憶にも新しい例である。またここは内戦が終了したことから、次の旅行先として考えている先でもある。

 これについては、紛争の根源は、多数派のシンハラ語と少数派のタミル語という言語問題であったという点が重要である。多数派であるシンハラ人の一部政治家が、政争に勝利するためシンハラ民族主義を利用し「シンハラ・オンリー政策」を採用したことから、少数派のタミル人が反発。しかし、合法的な協約が失敗したことから1983年以降、タミル人側は、連邦化から独立へと要求をエスカレート。それが受け入れられなかったことで、最後は非合法テロに訴えることになり、そしてインドやノルウェーによる介入も奏功せず、紛争は停戦とその破棄を繰り返しながら30年近くに渡り続く。しかし、劣勢のタミル人のテロは次第に国際世論からも見放され、最後は2008年1月の政府による停戦破棄を受けた最後の戦闘で殲滅させられたのである。結果的に、スリランカでは多数派のシンハラ人が少数派のタミル人を抑圧する形で決着したということであるが、もちろんこれが最終的な解決になっているかといえば疑わしい。著者は、その具体的な問題として、@戦闘時にタミル人の多数の民間人が犠牲になったが、その解明に政府が消極的であること、及びAタミル地域の復興のためには、この地域への資本投資が必要であるが、政府も外国資本もそれを進めようとしていないことを挙げている。

 クロアチア、ボスニア、そしてコソヴォについては、著者の専門領域であり詳しいが、既に多くが報道されているので、ここで記載すべきことは少ない。ポイントは、紛争発生時の民族構成で、クロアチア(人口約430万人)は90%がクロアチア人、10%がセルビア人、ボスニア(人口380万人)は、ボスニア人48%、セルビア人37%、クロアチア人14%、そしてコソヴォ(人口180万人)は、アルバニア人90%、セルビア人10%ということになる。言うまでもなく、クロアチアとコソヴォは圧倒的な多数民族がいることから、後は連邦(=セルビア)との関係だけが問題になったのに対し、ボスニアの場合は絶対的な多数派がいないことから、勢力圏の争奪がより激しくなり、紛争が泥沼化することになったといえる。そして統合の象徴であったチトーが死去(1980年5月)した後、徐々に求心力を弱めていたこの地域の脆弱性が、80年代末の経済停滞と冷戦終了による西側との関係の変により決定的となる。そうした中で、ミロシェヴィッチ、トゥジマン、イゼトベゴヴィッチという夫々の共和国指導者が、民族主義を鮮明にしたことで民族対立が決定的となる。その中でも後者2人が根っからの民族主義者であったのに対し、ミロシェヴィッチは自分の権力闘争の過程で民族主義の有効性に気がつき、それを利用した、というのが著者の見解であるが、それは全ての紛争の指導者に共通することであろう。またボスニア紛争を複雑にしたエピソードとして、ボスニアのセルビア人共和国軍司令官のムラディッチと共和国大統領カラジッチの権力闘争があったというのは、私が必ずしも認識していなかった構図である。

 いずれにしろボスニア内戦は数々の悲劇を生み出した後、取り敢えず1995年11月のデイトン合意で一旦決着するが、実際はまだ分断国家の状態で、地域の復興も進んでいない。他方で、クロアチアは、セルビア人人口が5%にまで減少し、今年(2013年)始めにEUに加盟し、最近は日本からの観光客も訪れるところまで復興している。人口構成の明暗が鮮明に出た事例である。尚、コソヴォの詳細は、別の章で後ほど取り上げられているので、そこでコメントすることにする。

 続くケースはアフリカのルアンダであり、この内戦も多くの映画で取り上げられたことから、それなりに知られるところになっている。これはフトゥ人とトゥチ人の紛争であるが、もともとは民族というよりは社会階層的な相違が、ベルギー植民地下で民族的なものに転化されたというのが著者の見方である。そして独立後少数派のフトゥ人が支配民族となったことから、トゥチ人は隣国のウガンダに逃れ、そこからフトゥ人に攻撃を仕掛けていたという。これが1994年のフトゥ人穏健派大統領機の撃墜事件をきっかけに、フトゥ人過激派によるトゥチ人の大量虐殺(当初はフトゥ人過激派による、フトゥ人穏健派の暗殺から始まった)を惹起したが、内戦の末、最後は国際世論を見方につけたトゥチ人主導の「ルアンダ愛国戦線」が勝利するということになったという。

 その後トゥチ人主導でルアンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれる復興を遂げ、先日もシンガポールの新聞で、シンガポールの都市デザイナーが、キガリを「未来都市化」するプロジェクトを任された、といった記事とその都市デザインが紹介されていた。もともと、70年代に、日銀の職員を呼び国内銀行制度を整備する等、それなりに洗練された発想をする指導者がいた国なのであるが、他方でそれにもかかわらず、こうしたジェノサイドが発生した、ということには留意する必要がある。この内戦を巡る責任については、タンザニアでの国際裁判と国内での裁判の二つが行われているという。他方で2006年には、この内戦に途中から介入したフランスが、大統領暗殺の首謀者として現大統領他を名指しし国際手配を行い、ルアンダがこれに抗議しフランスと断交する等、内戦の責任者については依然不透明であるという。ルアンダはその後2009年に英連邦54番目の加盟国になっている、というのも国際社会との複雑な関係を連想させる。

 ナゴルノ・カラバフ問題は、学生時代にソ連研究をしていた時代から耳にしていた。アゼルバイジャン域内にあるアルメニア人の飛び地。ロシアとアゼルバイジャンという民族の緊張の中に、マトルーシュカのように現われる別の民族問題。アゼルバイジャンはバクー出身のスターリンが、民族人民委員として台頭した時も、こうした民族紛争を政治的に利用することにたけていたからであるという見方をすることもできる。しかしこのナゴルノ・カラバフ問題が冷戦終了後、最近までどのように展開してきたかについては、ここで初めて詳細を知ることになった。

 それによると、この地域ではソ連崩壊時に内戦が勃発するが、それは「体制変動による民族問題の政治化」という事例として整理される。そして当初は地域の民族紛争であったが、アルメニアが介入することでそれが「国家間戦争」に転化していった「稀有な例」であるというのが著者の見方である。著者はその際の経緯を詳細に記載しているが、重要なことはソ連の崩壊により、「各地に配備されていたソ連軍やソ連内務省舞台は武器の放置や横流しを行い、紛争当事者には大量の武器が渡ることになった。ソ連の軍人が顧問として紛争に関わる事例もあった。」というように、軍事資産の拡散が発生し、それが独立したばかりの国家間の対立をより軍事力依存的な発想に向かわせたということであろう。そしてこの国家間戦争の結果、1992年5月にアルメニアによるナゴルノ・カラバフ、及び「ラチン回廊」等の周辺地域の実効支配が確立し、現在に至っているという。もちろん熱い戦争は終了したものの、領土の20%を失ったアゼルバイジャンはこの地域の領有権を放棄していない。その意味で、これは日本の韓国や中国との領有権を巡る紛争などとは比較にならないくらい、複雑な長い歴史と、新しい紛争の記憶が残る、現在進行形の地域紛争である。

 キプロスの事例も、英国植民地化での多数派ギリシャ人と少数派トルコ人の分割統治の結果、1960年6月の独立後両民族が敵対的となり、1965年に大規模な内戦が発生、結局ギリシャとトルコ双方の介入を招いた後、南北に分割され、現在まで凍結されることになったという。興味深いのは、この地域のEU加盟と並行して国連による調停工作が進められたが、結局2004年4月の国民投票で、国連調停案について南北で結果が異なり、その1か月後、南のギリシャ人地域のみがEUに加盟することになる。EUはこのキプロス共和国をキプロス全域を代表する政府であるとしているというが、トルコのEU加盟問題にこのキプロス問題がどのように影響しているかは調べる価値がありそうである。

 コソヴォについては、既にボスニアなどと共に、一連のユーゴ内戦の最終章として位置つけられるが、ここでは、既に述べたように、セルビアのミロシェヴィッチが民族主義の政治的有効性を認識したのが、1987年のコソヴォでの演説であったこと、及びその結果としての多数派アルバニア人に対する強硬策が、アルバニア人過激派の台頭を生み、その後1999年のセルビア治安部隊による民間人虐殺事件、NATOによるセルビア空爆を経て、最終的に2008年2月の一方的な独立宣言に至ったことだけを確認しておこう。但しこの独立宣言は、国連でのロシアと中国の反対により、未だ国際社会の承認を受けておらず、またコソヴォ内のセルビア人地域はセルビアの実行支配下にあるなど、まだまだ解決への道のりは遠いようである。

 さて、こうした個別ケースを見た上で、著者は「民族紛争の一般理論」を模索している。それによると、民族紛争発生の必要条件としては、複数民族の存在に加え、@構造的(民族の居住分布―特に「混住パターン」)、A政治的(民主化―「投票結果の『国勢調査化』」)、B経済的(貧困又は「経済的悪化」)、C社会・文化的(歴史と宗教―但し宗教は往々にして説明の単純化をもたらす)があるという。そしてこうした必要条件に、3つの十分条件―@当事者が感じる恐怖、A民衆の行動、Bその民衆の動きを特定の方向にまとめるリーダーシップーが加わる時、民族紛争は本格化するという。

 他方、こうした民族紛争解決の方法として、近時は「パワー・シェアリング」という考え方が実行されている。これは「各民族の利害対立を、取引や譲歩などを通じて緩和し、個々の民族の利害を超えた全体の利益を見つけるという考え方」であり、ルアンダやボスニアの和平協定などの基礎になっているという。また制度的な枠組みとしては、@連邦制、A文化的自治、B多極共存制などが提案されているが、他方でそれらが根本的な解決にならないことも著者は指摘している。こうして著者も、ここで分析された幾つかのケースでも、また再び紛争が勃発する可能性を排除することはできず、こうした地域の安定は「民族的アイデンティティを超えた多民族的な国民的アイデンティティ、そしてそれに基づく国民意識の涵養と維持が為されなくてはならない」という常識的な一般論を指摘することしかできない。そう、民族紛争とは、日本が巻き込まれている領土紛争以上に、古い神話と長い歴史に彩られた人類の終わりなき業であり、一旦収束したように見えても、いつ何時また不死鳥のように蘇る危険を内包した問題なのである。

 最後にこうした事例を踏まえて、東南アジアでの「民族問題」を簡単考えておこう。

 言うまでもなく、シンガポールやマレーシアのみならず、その他の東南アジア諸国も民族の坩堝であり、それが夫々の国の歴史と現在に様々な問題をもたらしている。シンガポールとマレーシアが、2年間の連邦国家を形成した後分離したのも、夫々の国における民族分布の結果であったというのは、良く知られている事実である。またタイでも、タクシン追放劇の背後にシャム人対華人系という対立がなかったとは言えない。更に、タイ南部やミャンマーでは、現在も仏教徒とモスレムの対立があり、そしてあまり知られていない事例としてはパプア・ミューギニアでの「部族対立」による「熱い戦争」なども発生している。

 こうした中で、少なくともシンガポールやマレーシアの「民族問題」は、民族的主張を政府が強権的に抑えることと、国全体の経済水準を上昇させることで、取り敢えずの顕在化を抑えることに成功している。しかし、まさにここで著者が指摘しているように、今後これらの地域の「民主化」が行われ、そこで「国勢調査」的投票が行われるようになると、それを契機に改めて民族間の対立構造が強まる危険が全くないとは言い切れない。その意味で、この本で取り上げられている紛争事例は、決して東南アジア諸国と関係のない事例であるとはいえないのである。第二次大戦までのドイツが、経済が停滞すると、それが直ちに政治的危機を惹起してきた、と言われるように、この地域の経済停滞もまた、こうした民族の覚醒を促す契機となりえる。現在の日本で時々話題になる「ヘイト・スピーチ」同様、政治・経済・社会的危機が言説の先鋭化・過激化をもたらし、社会の潜在的な対立構造を顕在化させるというのは、民族問題に留まらない、社会の根源的な拡散要因として常に肝に銘じておく必要があろう。

読了:2013年8月31日