アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
アジア全般
アジア 反日と親日の正体
著者:酒井 亨 
 1966年生まれ。共同通信の記者を経てフリーになった後、大学での修士課程参加を含め台湾に11年滞在したジャーナリストによるアジア論である。現在は金沢大学でアジア地域研究を担当としている。台湾をベースに、アジアの主要地域を時折訪れながら、定点観測を行う中で形成されてきた著者の見方を、前回読んだ中国人政治学者の分析とは対照的に、情緒的価値観丸出しで表現している。それが情緒的なものであることから、ある部分は非常に説得力を有しているものの、他方思い込みが過ぎているところも多く、その意味では週刊誌の記事を読むような感覚で読んだほうが良い作品である。

 現在、日本と中国及び韓国との間で外交面での緊張が続いていることは言うまでもない。そこでは歴史問題という大義名分のもとに「反日」カードが執拗に主張され、それに対抗し日本側からはネットを中心に極端な反中韓の「ヘイト・トーク」が溢れかえる。そうした表面的な日本と中韓の対立認識に対し、著者の基本的な見解は、警戒すべきは中国のみであり、韓国はむしろ日本とは十分連携できる国であると考える。さらに東アジア、東南アジアの国々は、日本との制度や宗教の相違や戦中の歴史にもかかわらず、日本に対しては親近感を持っており、日本はそうした国々と連携し中国を牽制していくべきであるとする。もちろん、こうしたアジア戦略自体は、現在の安倍政権も共有している戦略であると思われるが、他方でアジア諸国の対日感情も単純ではなく、また日本側でもこれらのアジア諸国に対する認識は非常に浅薄である。そうした懸念から、著者は、自身が生身で感じたアジアの実態を伝えようとしている。

 著者のそうした実感は、著者が11年生活した台湾での経験が基礎にあり、またおそらくはそこで慣れ親しんだ台湾語をベースにしたコミュニケーションの中から形成されたものであると思われる。まず語られるのは、「政治、経済、社会発展レベルだけに限定して語るとすれば、日本がアジアの中で群を抜いた存在である」という基本認識である。そしてそうした社会の成熟度から見て、日本に次ぐのが台湾と韓国であり、他方最も低いのが中国と北朝鮮であるとして、個別の議論を進めていくのである。

 この認識は、ある意味常識的である。また香港やシンガポールとの一人当たりGDP比較では、「世田谷区だけを取り出せば(中略)はるかに高い」と書かれると、思わず失笑が出てしまうが、確かにその通りある。しかし尖閣問題で、石原都知事(当時)の尖閣買収提案に対し、対中穏健派の政治家や官僚批判をするところなどは、その後の安倍首相の靖国参拝などの強硬策と更なる日韓関係の悪化についてはどう考えるのか、と突っ込みたくなる。著者の基本スタンスから考えると、中国に対しては強硬策を、韓国に対しては穏健策を取るべきで、双方を同時に刺激するというのは愚行の極みになるのだろうか?

 経済面では、いきなり「アジアの成長を取り込む」政策など「戯言」である、というコメントが出てくる。理由は、アジアの成長率が高いのは発射台が低いからであり、絶対額ではたいしたことはないから、ということである。しかし、これは国内市場の成長が止まっている日本の現状を考えると、少なくとも市場の規模が拡大しているアジアを取りこむというのは常識であり、著者の議論の方が全くの「虚言」である。更に「モラルが崩壊している中国のあり方を取り込む」ことで、日本のブラック企業が増えている、というのも暴言である。このあたりは、その後も続くことになる、著者の中国に対する批判的視点から、主として中国との経済関係を念頭に置きながら出てきたコメントのように思われる。「アジアでビジネスを行ううえでは、『経済』よりも、政治やインフラ面でのリスクと、文化的な価値を感じることができるかどうかが重要」という指摘が出てくるが、これも中国との経済関係についての批判的見解が理由である。インドネシアでは、ガムラン音楽や、マレーシア、インドネシア、フィリピン、シンガポールの多民族社会を、日本人が学ぶべきアジアであり、日本人が「狭い観点や思考から自由になる必要がある」と言うのは、それ自体は正しいが、それは中国や韓国の単一民族社会と付き合うことを否定するものではない。このあたりは、著者の情緒的発言の最たるものである。但し、韓国については、最終的には著者は重要なパートナーとして考えており、「すべての日中韓の枠組みは根本的に間違っており」「日台韓の民主主義国家どうしの枠組みこそが建設的で好ましい」と言う。要は、著者は中国を嫌悪しており、中国に反対する者は全て抱き込むべきであるというスタンスなのである。以降個別国の紹介をしていくが、その議論は全てこの姿勢から説明できる。

 まず中国論。ここでは、国境紛争を始めとしてアジア諸国はどこでも中国と問題を抱えており、アジア全域での嫌中感情が広がっていること、あるいは一党独裁の中国政府が如何に無能であるか、あるいは中国の民衆はひたすら自分の利益しか考えていない、といった現代中国のネガティブ面がひたすら説明されている。ここでの議論はあまりレビューする価値はないが、唯一面白かったのは中国における言語分布に関する分析で、それぞれの言葉につき言語学的な説明を行っている。ただ著者はその言語的多様性から、標準語である北京語を「普通話」ならぬ「不通話」と言っているのであるが、日本の方言と同様に、地方では引続き日常生活では方言が使われているが、テレビやネットの普及により地方でも標準語が理解される状況は拡がっていると言われている。私自身は確認していないが、著者の一方的な決めつけを、そのまま受けることはできない。更に言えば、そうした言語的多様性こそ日本人が学ぶべき「文化的多様性」の世界である。
 
 韓国についての著者の見解は、既に記載した通り、一貫性を欠いているが、もちろん中国よりは肯定的である。李明博元大統領の竹島上陸から天皇謝罪要求、対中接近、あるいは朴槿恵現大統領の慰安婦発言などの韓国指導者の動きは行きすぎであり、著者が言っているとおり、日本側の対韓意識が悪化するのもやむを得ないだろう。それにも関わらず、著者は「韓国には一定の敬意を払い、互いに民主主義と市民社会という視点で対話を続けるべき」とする。しかし他方で「ナショナリズムが異様に強く(中略)準先進国にありながら、これほど自己を客観化できない(中略)のは韓国くらいだろう」とする。また著者がつき合っている範囲の個人で見ると「昼(政治)は反日、夜(文化)は親日」という側面もあるという。

 言うまでもなく、こうした複雑な対日感情は、ある種の劣等感の代償である。そしてそれなりの経済成長を実現し、経済的には家電や自動車産業において、特に東南アジアでは日本と並ぶあるいは凌駕するまでになったという自信も、韓国のナショナリズムが日本に向かう理由になっているように思える。また李明博や朴槿恵が、あれだけ反日の旗を担ぐ姿を見ていると、それは単に「昼は反日、夜は親日」などという簡単な言葉では説明しきれない歪んだ感情が民衆の中にあると考えざるを得ない。そうであるとすると、韓国との関係においては、著者が言うように「対話を続ける」にしても、そうした社会全体としての両義的な感情を考慮に入れた一層戦略的な対応を行う必要があることは間違いない。しかし著者は、その戦略については、「対話を続ける」という以上の提言はできていない。

 北朝鮮については、「日本の右派の一部には、なぜか中国に甘く、韓国や北朝鮮を極度に敵視する傾向がみられる」が、「北朝鮮は実はそれほど反日ではないのではないかという感触を持っている」という。これはやや言い過ぎであろうが、ただ北朝鮮と一定の外交関係を持つ台湾、モンゴル、インドネシアが、同時に親日感情が強いことを考えると、これらの国々を利用した問題解決もあり得るというのは、拉致問題でインドネシアやモンゴルが時折登場していることからも頷ける話である。

 台湾については、さすがに11年住んだだけあり、著者の蘊蓄は深い。16世紀以前の原住民はマレー系だけであり、文化的にもフィリピンに近いマレー・ポリネシア的要素が基底にあり、それに福建を中心とする漢民族文化が被さったものが、日本占領期までの風土であったという。台北や高雄などの地名も、もともと現地語の発音に漢字を当てたものだというのも、今回初めて知った事実である。人種的にも戦後に形成された外省人と本省人の差がある以前に、もともと多民族・多言語社会であったというのも、台湾の「東南アジア的特性」を示していて面白い。他方経済面では、著者は1944年頃に日本の6−7割程度であった国民所得が、1980年代初期には日本の3分の1になっていたことから、国民党政権は経済的には無能であったとしているが、これはむしろその時期の日本の成長についていけなかったということで、その後のキャッチアップを考えると、著者の見解は多分に情緒的である。

 台湾は、韓国などと比較して親日的であると言われている。著者によれば、「国民党独裁政権時代の1980年代までは、国民党が米国に従属していたこともあって、米国一辺倒で反日政策が行われており、(中略)日本の存在感が増したのは民主化以降である」ということであるが、これもやや疑問である。例えば、現在の国民党政権の馬英九大統領は若い頃から「反日・大中国思想」を持っていたということであるが、これは「米国の傀儡」としての思想ではなく、むしろ中国本土奪還を念頭に置いた「反日」であり、民衆レベルでは1980年代以前からそれなりの親日感があったというのは、80年代末にこの地を訪れた私自身の実感であった。もちろん1990年代以降の日本の大衆文化の浸透による「哈日(ハーリー)族」の増加などが、若い世代の親日意識の再生に繋がったことも事実であろうが。他方、「台湾独立」というのが、当初は「(いまだかつて支配されたことがない)中華人民共和国からの独立」ではなく、あくまで「戦後台湾を支配してきた『中華民国と言う支配から独立し、自前の国家を作る』」ということだったが、現在は「民主化の中で整備された『台湾の独自色・独立色』を守り、中国に抵抗していく、という意味に変化しつつある」と指摘している。これは、現在馬政権が進めている中台経済協定に対する民衆からの疑念と学生らによる激しい反対運動等を見ていると納得できるものである。

 こうして主要3カ国を詳細に見た後、東南アジアを中心とするその他アジア諸国の簡単な説明に入る。これはほとんどが概説なので、著者の特異な見方についてだけ簡単に触れることにする。

 まず「『華人』は中国人ではない」という主張が目を引く。定義上、「華人」を「それぞれの居住国の国籍を持つ漢民族系住民」とすれば、それぞれの環境に応じた変化を遂げているという点で、彼らが「中国人」とは異なり、また「十把一絡げに論じられるものではない」ことは当然である。しかし、「『華人ネットワーク』なるものが存在するなどというのは、一種のフィクションである」、という指摘は言い過ぎである。少なくとも、祖先の出身地を同じくする華人の紐帯は強力で(それは東南アジア各地に残されている出身地ごとの「会館」の存在からも明らかである。)、更に(多少の方言も含め)中国語を共通の母語とするという自信はマンダリン(普通話)の拡がりと共に、彼らの一体感を強めている。あるいは少なくとも、何がしかの華語を話すことを、商売上の利点として使っていることは間違いない。確かに著者が慣れ親しんだ台湾や、伝統的に反中感情が強いヴェトナムの華人は、中国との関係においては距離を置いているかもしれない。しかし、著者が言うように「そもそもビジネスや金儲けというのは冷徹なものである。」感情的には距離を置きながらも、商売上重要と考えれば、これらの国の支配層も商人も中国との取引を増やすことに躊躇はない。著者は、「華人」について説明する際に、余りに「中華人民共和国の中国人」を意識しすぎるために、中国以外の地域での華人のネットワーク力につき誤った認識を持つようになっていると言えるのではないだろうか?実際ヴェトナム戦争の際に、旧ホーチミン市等に在住していた華人が、シンガポールを始めとする東南アジア華僑の経済的支援を受けたというのは有名な話である。あるいは、あの反共的独裁者のリー・クアン・ユーが、中国の経済成長を見て、直ちに国家間の関係を強めたことなども、経済面では華人が共通の華人文化を中国との関係において利用しようとしていることは明らかである。反中意識の強いフィリピンでさえ、主要産品であるバナナの最大の輸出国は中国であり、これもある意味「華人ネットワーク」の結果である。もっとも近年の政治的緊張により、このバナナ輸出が中国から禁輸措置の恰好なターゲットとなったことは、こうした「華人ネットワーク」ももちろん政治リスクを抱えていることを示すことになった。

 その他、著者は東南アジア各国の華人社会の特徴を、出身地や言語、土着人種との関係などを比較しながら説明しているが、余り新鮮味はない。また彼らの間で、「クール・ジャパン」を中心に、反日から親日に転換する傾向が出ている、というが、これもやや「台湾バイアス」からの誤解で、サブカルチャー面から東南アジアの若者の傾向を見ると、むしろ韓国文化が日本文化を凌駕しているくらいである。もちろん著者の嫌っている「共産中国の文化」に対する関心が低いのは確かであるが。

 最終章で、著者は東南アジア諸国を中心に、各国の簡単な紹介を行っているが、こちらもあまり新しい発見はない。まあ、面白かったのは、インドネシアと北朝鮮の友好関係から、ジャカルタ北部に北朝鮮直営レストランがあり、客は韓国人と日本人が中心であるといったことや、モンゴルでは、ソ連の衛星国時代はタブーであったチンギス・ハーンの英雄伝説が復活している(ウランバートル郊外の巨大なチンギス・ハーン像)といった話くらいだろうか。そして最後に、「親日感情」を基礎に今後の日本外交を考えると、まず強化すべきが台湾とインドネシア、そして続いてマレーシア、フィリピン、ヴェトナム、韓国、モンゴルであり、それらとの連携を基礎に「問題児」中国をうまく牽制していくことが必要であると主張するのである。
 
 おそらく著者がこの本で意図したのは、現在の日本で一般的な反中韓論に対し、「韓国は別物だ」という議論で差別化を図ろうとしたものと思われる。そしてそのため、中韓の相違を明らかにするために、中国は一層落とす必要があったのだろう。しかしながらそうした意図が見えるだけに、個々の議論が一層情緒的になってしまい、冒頭で述べたように、「週刊誌」的な記事の集合になってしまった感がある。少なくともこの前に読んだ中国人による中国政治分析のような冷静かつ客観的な、しかし底流では真摯な感情が流れているような作品とは異なる作品である

読了:2014年3月29日