イギリス帝国の歴史―アジアから考える
著者:秋田 茂
6年振りに参加するロンドン時代の仲間による集まりが予定されていた、ということでもないのであるが、久し振りに英国史関係の新書を手に取った。しかも副題は「アジアから考える」。著者が序文で断っているとおり、「アジア諸地域とイギリス帝国との関係を重視」し、グローバル・ヒストリーの観点から、イギリス帝国がアジアを中心とする「諸地域といかに相互に依存しあいながら一つの世界システム(世界経済)を形成してきたか」、そして「その過程での経済的諸利害の相互補完性」があったことを示そうという試みである。そのために著者が導入として使うのは、最近のインド経済の成長である。タタ財閥など、インド系資本による伝統的英国企業の買収の動きがある。それは英国製造業の衰退を連想させるが、しかし実は英国側の企業も、ロールス・ロイス社のように飛行機エンジンのメインテナンス・サービス充実等により復活している。それが物語るのは、製造業の再建をインド企業に任せながらも、サッチャー政権による「ビッグ・バン」以来力をつけたシティがしっかりと支えながら、サービス力を武器に巧みに生き残っている英国企業の姿があるとする。
こうした動きは、いわば経済のグローバル化及び世界経済の相互依存性の深化を物語っているが、実はこうした流れは英国による植民地支配が進んだ17世紀末にまで遡ることができるという。一つの学説であるが、「近代イギリスの政治経済的勃興は、産業革命以来の製造業の台頭・発展よりも、むしろシティの世界的な影響力の拡大に依存していた」という議論もあるくらいである。そしてこの本ではこうした視線で、英国とその植民地の相互作用を、歴史的に見ていくことになるのである。時代としては、@長期の18世紀(1688年の名誉革命から1815年のナポレオン戦争終結まで)、A19世紀、そしてB20世紀の3つに区分している。英国の海外進出は、まずアイルランドから始まり、米州大陸、そしてアジアと進んでいくことから、冒頭は非アジア圏の記載が多いが、ここでは著者も重視している英国とアジアとの関係を中心に見ていくことにする。
英国のアジア進出は、1600年の東インド会社の結成に始まり、そこでの主要取引商品は胡椒、香辛料、綿織物の輸入が中心であったが、交易を媒介したのは、実は日本産の銀であった(「銀の世紀」としての16世紀)、というのは歴史的に面白い現象である。英国は当初、新大陸からもたらされる銀塊を使っていたが、その流出を抑えるために「アジア域内貿易」への参入を余儀なくされる。しかし、「マカオと長崎を結ぶ交易で、日本の銀と中国の生糸の取引を掌握したポルトガルが膨大な富を得ることができた」のに対し、英国は、当初、特にオランダ東インド会社との競争で劣勢に立たされることになる。また英国のみならず、ヨーロッパでは東インド産の綿織物を含め、「豊かなアジア」の商品への需要が高まったことから「アジア側が明らかに優位に立っていた」という。
18世紀に入るとイギリス本国で「商業革命」と言われる変化がおこるが、これは@貿易額の急増、A貿易相手の、ヨーロッパ大陸から南北アメリカ及びアジアへのシフト、そしてB輸出商品の、新毛織物から雑多な工業製品(消費財)へのシフトと輸入商品としての砂糖、タバコ、コーヒー(新大陸)、綿織物、絹織物(アジア)の急増といった現象である。そしてこれを支えたのが軍事面での優位を受けた環大西洋と「東インド」地域を核とするイギリス植民地帝国(第一次帝国)の成立であったという。環大西洋の奴隷取引を核とする「三角貿易」、その中心になった西インド諸島の奴隷制プランテーションと、本国における不在地主化したジェントリーの話などは、かつて休暇で訪れたバルバドス島等を思い出させることになったが、ここではこれ以上言及しない。北米、タバコ・プランターやそこでの白人年季奉公人の話、そして「クレオール革命」としてのアメリカ独立への流れも興味深いが、ここでは省略する。そしてアジアに関して注目すべき点は、こうした「環大西洋経済圏を中心に形成されたイギリス重商主義帝国の発展は、イギリス東インド会社を中心とするアジア物産の輸入を通じた、対アジア(東インド)貿易の拡大と緊密に結びついていた」という著者の見方である。一般に欧州列強のアジア進出は香料の確保から始まったと言われているが、この時代、インド産の綿織物(キャラコ・モスリン)や中国産の茶、絹織物、陶磁器も、近世ヨーロッパ人にとって「あこがれの的」であったという。そして香料諸島を巡るオランダとの抗争に敗れた英国は、この中でも特に需要の強いインド産綿織物確保のため、インド支配を巡るフランスやオランダとの戦いに全力を注ぎ、勝利することになる。
こうしてインドを起点とする英国のアジア貿易が発展していく。東インド会社の利権に乗る形でイギリス系自由商人が、アジア沿海諸港間の沿岸交易(カントリー・トレード)に参入し、東インド会社と共に膨大な利益を稼いでいくが、重要なことは、このアジア貿易が「東インド会社本体のヨーロッパーインド貿易と相互補完関係にあり、(中略)しだいに中国・広州での茶・アヘン貿易と結びついていった」ということで、著者はこの東インド会社を「資本主義的な企業体で、のちの多国籍企業の原型であった」と見ることもできるとしている。
18世紀末になると、今度は中国広州からの茶の輸入が急増し、対中貿易が大きな赤字となる。「この赤字を相殺し本国からの銀の流出を阻止するために」カントリー・トレーダーを介在させたインド産アヘンの対中国向け密輸が開始されるが、この動きは「イギリス東インド会社の貿易独占権に対する批判」を通じて「自由貿易」に対する要求を強めると共に、後の「アヘン戦争」に至る中国の植民地化を促すことになるのである。またインド産キャラコを始めとするアジアからの輸入品は、イギリス本国のみならず、対西アフリカ貿易でも首位を占め、「大西洋三角貿易、特に奴隷貿易において、アフリカ人奴隷を獲得・購入するうえで決定的に重要な再輸出商品(モノ)となった」という。これはアジア貿易と環大西洋貿易が結ばれた「グローバル交易ネットワーク」が、既に18世紀初めから成立していたという、たいへん刺激的な事実を物語っている。
18世紀末以降、アメリカ独立、ナポレオン戦争などを経て、環大西洋地域での英国覇権が弱体化していくが、アジア貿易での大きな変化は東インド会社の貿易独占権の廃止という「自由貿易」の拡大であった。これは著者によると「マンチェスターの綿工業者たちが行使した政治的な圧力よりも、むしろ、ロンドン・シティに本拠を置いた通商・サービス利害と、インド在住のアジア間貿易に従事したカントリー・トレーダーに代表されるイギリス商業資本」の利害関心の結果であったという。そしてこの「自由貿易」のための拠点作りの動きの一つがラッフルズによるシンガポール自由港の建設であり、シンガポールはその後「東南アジアにおけるイギリスの通商・軍事拠点」としてのみならず、「英系カントリー・トレーダーだけでなく、広東省出身の中国系商人(華商・華僑)にとっても、東アジアと東南アジアを結ぶ中継貿易の基地として」発展していくことになるのである。これは、シンガポールを主要基地とするアジア域内貿易の発展が、グローバル・ベースでの英国の「自由貿易」を促した、という議論であり、一般的に考えられているように、本国の産業革命を受けた「反穀物法」運動が「自由貿易」を発展させた、という見解と異なることが注目される。
19世紀後半に至ると、イギリスの覇権が絶頂期を迎えるが、この時期の評価につき、近年「自由貿易帝国主義論」という見解を巡る論争が起きているという。この議論の一つの主張は、「公式の植民地以外の、経済的にイギリスの影響下に置かれた国々(「非公式帝国」)が、この帝国を支えた」というもので、著者は「公式帝国」としてインドとカナダ、「非公式帝国」として中国と日本を例として説明している。
インドについては、「自由貿易帝国主義論に見合うような積極的な国家の干渉と自由放任(レッセ・フェール)政策が同時に行われた」が、後者の典型としてインドでの鉄道建設が詳しく紹介されている。1940年代の本国での鉄道建設からわずか10年余り遅れで、1853年に、ボンベイとデカン高原を結ぶ「アジア最初の鉄道」が開業したが、これは「本国への食糧・原料(第一次産品)の供給地として、インドを商業的に開発すること」と「インド国内の治安維持および英領インドの防衛戦略という政治的・軍事的要請」が目的であった。これにより「英領インドは、イギリスを中心とする世界経済システムに全面的に組み込まれる」(そして「インド統治政策そのものが、本国政党政治と密接に結びつく」ことになる)と共に、他方ではこの建設資金の調達が、その後の植民地支配の大きなコストとなることになる。その他の「公式帝国」としてのカナダやオーストラリアの支配方法についても言及されているが、これはここでは省略する。
こうした「公式帝国」に加え、興味深いのはアジアの「非公式帝国」としての中国と日本が、イギリスの覇権を支えた、という著者の議論である。
中国については、中国貿易で増大する赤字を削減するために、中国市場の開放圧力が強まることになる。そしてその主要輸出品となったのがインド産アヘンであり、英国はこれを取扱うカントリー・トレーダーの圧力を受け、「砲艦外交」による中国との不平等条約締結からアヘン戦争による香港の割譲や上海の開港を実現していく。そしてこの「砲艦外交」では、インド軍が「帝国拡張の先兵」として動員されたという。そして日本も幕末の不平等条約と横浜等の開港を余儀なくされるが、ここでもまず横浜に駐屯した英国軍の主力部隊はインド軍であった。但し、中国や日本のような「非公式帝国」の場合、「イギリスを中心とする世界経済体制」に組み入れられたものの、条約の「片務的な最恵国待遇の条項」により、「結果的に、欧米列強間で利害の調整と政策の協調・牽制が行われ」「一国だけが排他的に突出した独占権、特権を確保することは慎重に回避された」ということは特記される。
このように20世紀初頭までに成立したイギリス中心のグローバルな自由貿易体制の要となったのが、実は「スターリング(ポンド)手形」を通じた「多角的決済機構」であり、著者は、特に19世紀末の「大不況期」に、イギリス資本主義の構造が「世界の工場」から「世界の銀行家・手形交換所(金融・サービスの中心地)」へと変化していった、という最近の議論を紹介している。そして基軸通貨としてのポンドを支えたのが「金本位制」で、そのポンド価値を保証する「安全弁」となったのがインド(「イギリス王冠の輝ける宝石」)であったというコメントが、英国にとってのインドの重要性を物語っている。
アイルランドの自治権問題やボーア戦争などによるアフリカ分割といった、19世紀末のアジア以外での植民地政策が語られるが、これは省略し、再びアジアに目を移すと、この時期、大西洋横断ケーブルやインド海底ケーブルが開通し、国際電信網が飛躍的に発展するが、この海底ケーブルの約4分の3がイギリスの会社に所有されていたという。こうした「国際公共財」を利用して、香港上海銀行などの植民地銀行が、シンガポールや香港を中心に、貿易決済や労働者の送金で業務を飛躍的に拡大した、というのは注目される。またこの時期のインド産綿花の輸出の6割近くが大阪向けであり、またその帰り荷としてマッチや石鹸といった日用雑貨が日本から輸出されており、そのため神戸とボンベイを結ぶ、日本の郵船会社としては初めての国際定期航路まで設定された、というのも、日本がイギリスの植民地交易の主要相手であり、且つ受益者であったことを物語っている。著者は日清、日露戦争に至る日本の富国強兵・殖産興業政策が、イギリスが提供する国際公共財を巧みに活用した結果成功し、それにより日英関係も、日英同盟の締結により「非公式帝国」から「ジュニア・パートナー」としてのそれに代わっていったとしている。また日本は、日清戦争の賠償金をイングランド銀行に預託し、それを元に銀本位制から金本位制への変更を行うが、これは英国にとっても貴重な金準備となり、他方日本にとっては日露戦争に向けた軍費調達のための外債の成功にも連なっていく。その意味で、この時代は日英の「蜜月時代」で、「イギリスの経済構造にとって、本国の金融・サービス利害、資本財産業と日本の消費財産業の発展は相互補完的であり、公式帝国インドにとっても、原綿の日本向け輸出が増大すれば、外貨(ポンド)を稼いで対英債務の返済を円滑に行うことが可能になった」という好循環に入っていたのである。そして、こうした関係が両大戦間の中国でも見られるようになったことから、著者は「東アジアの工業化と、ロンドンのシティを中心とする金融・サービス利害の優位(ジェントルマン資本主義)は、共存しながらともに発展した」と結論している。
大英帝国の覇権を支えたソフト・パワーとして、「帝国の一体性」の中でヒトの自由な移動が保障されたことが指摘される。その例として、インド商人やインド年季契約移民労働者の広域での拡大が説明されるが、こうした移民の拡散はインド人のみならず中国人を含めたその後の東南アジア諸国の複雑な人種構成を形成することになる。もちろんガンジーの南アフリカでの活動のように、インド人がアフリカにも多数移動したということもよく知られているとおりである。
20世紀に入ると、今度は「脱植民地化」と「コモンウェルス」への再編という動きが始まるが、特に第一次大戦で英国が植民地の協力を得て参戦したことから「非ヨーロッパ世界のナショナリズムを刺激」することになる。なかんずく最大の戦時動員と海外派兵に応じ、また多くの犠牲を出したのがインド軍であったことが、戦後のインド・ナショナリストの力を強める。軍事費負担問題もあり、イギリス帝国は大きく変貌していくが、面白いのは、この時期の日本との貿易交渉でも引続き「開かれた」自由貿易原理が主張されたが、ルピー為替については切り下げを阻止し、「ルピー価値の安定」を優先させた。これは著者によると、「モノの輸出入では柔軟な対応を取ったイギリスも、シティ金融利害(カネ)」は死守した、ということになる。また1935年の中国国民政府の幣制改革への影響力行使により、中国法幣を実質的にポンドにリンクさせることに成功し、中国がスターリング圏に「加入」することになった。こうした政策は、英国の主要関心が当時から既に製造業から金融・サービスに移っていたという論拠である。
しかし英国植民地帝国は、第二次大戦を経て解体されることになるが、象徴的なのは、この大戦でインド軍が再び動員され「東方の海上に浮かぶイギリスの兵舎」としての役割を示すが、他方で戦費負担により、インドを英国に対する債権国に変えることになったことである。戦後、英国はインド軍に対する統制力を喪失し、また英国にとってのインドの経済的重要性も低下したことで、インドの独立は不可避となっていくのである。しかし独立後のインドは「コモンウェルス」への残留を選択する。これはネルーが「コモンウェルス諸国との現行の実務関係を維持し、コモンウェルスの枠組みを通じて、英米両国の政策に間接的に影響力を行使する」という判断を行ったこと、そして英国にとっては引続き「国際的な影響力を温存し行使する機構」としての価値を持つと判断されたことによる。そして欧州でアイルランドがコモンウェルスから脱退したのと対照的なこのインドの残留により、「これ以降政治的独立を望むアジア・アフリカ諸国は、選択する政体にかかわらず、独立後もコモンウェルスに残ることが容易になった」という。またインドなどの独立後も、恒常的な「ドル不足」と国際収支赤字に直面するイギリスにとって、天然ゴムや錫を算出する英領マラヤが、「米ドルを使用せずに資材や食料・原料を調達できる(スターリング)経済圏として機能」する。そして「戦後に為替管理の統制は解除されることはなく、逆に強化される。」これが「ドル箱」英領マラヤが1957年まで植民地として維持された理由である。言わば、戦後、英国にとっては、アジアの経済価値が、インドからマラヤにシフトしたということである。また日本との関係では、「アジア版マーシャル・プラン」である「コロンボ・プラン」で、インドがロンドンに保管していた在外スターリング残高が活用されたが、この支援の下で、日本はビルマやパキスタン、マラヤの原材料を輸入、他方アジア諸国は日本から安価な生活必需品を「米ドル以外」の決済で調達できたことが指摘されている。その意味で「アジアのスターリング圏諸国と戦後日本の経済復興は、モノの取引、貿易レベルで相互補完的であった」としている。
最後は大英帝国の衰退であるが、これは1956年のスエズ危機が決定的な転換点となったことは一般的な認識であろう。経済的利益の減少と植民地コストの増加、植民地のナショナリズム昂揚といった要因により、1968年には、香港を除く「スエズ以東」(シンガポールとマレーシア)からのイギリス軍撤退が発表されるが、これはリー・クアン・ユーの自伝の中でも、重大な事件であったことが語られている。ただこの決定の背景には、英国の経済・金融危機の深刻化に加え、スカルノ失脚による、インドネシアの敵対政策終焉もあったという。またそれでも英国撤退後のアジアの成長過程で香港とシンガポールが恩恵を受けたのは「自由主義の伝統、英語教育を通じた人材(エリート)の養成、華僑・印僑を引き寄せた多角的貿易ネットワーク」といった「イギリスが残した公共財」によるところが大きかったとされている。
1997年7月の香港返還で、最終的に「帝国」が終焉する。ただ依然ジブラルタルやインド洋のディエゴガルシア島、その他カリブ及び大西洋の島々など14か所が「イギリス海外領土」として存続して、「未解決の植民地問題」となっているという。
一時は陽の沈まない領土はないほどの栄華を誇った大英帝国であるが、これがアジアで地域交易の活発化を促し、その後のアジアの成長に繋がった、というのは、如何にもイギリス人が喜びそうな議論である。実際、昔ロンドンで生活していた時に、あるイギリス人が「現在インドで残っている重要な経済インフラー例えば鉄道―は全て英国が植民地時代に作ったものだ」と豪語しているのを聞いた時は、なるほど、これが「衰退した帝国の矜持か」という感想を抱いたものだった。しかし他方で、著者が指摘しているように、例えば英国による植民地インドの経営手法が、マルクスが言うような単純な搾取だけではなかったことも確かであろう。言わば、英国は、アジアのみならず、その植民地を、グローバル経済の成長を見据えながら「巧みに」統治していったことは、誰もが認めるところであろう。それが、日本の自己中心的な東南アジア支配や、あえて言えばアメリカによる「世界の警察官」的な力だけによる覇権との違いとなっているのではないかと思われる。これから数ヵ月後に再び赴任するシンガポールで、こうした英国が主導したアジア域内貿易の痕跡を探しながら、また新しい視線で、大英帝国の遺産を目にすることになるのであろう。
読了:2014年4月17日