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アジア読書日記
アジア全般
民族とネイション
著者:塩川 伸明 
 昨年、民族紛争に関する新書を読んだが、これも同種の議論である。前者の著者は、旧ユーゴの研究から、民族紛争の一般論に広げていたが、この本の著者は旧ソ連学者である。私がロシアーソ連史を勉強していた頃、頻繁に目にしていた名前であるが、ソ連崩壊後はあまり聞くことがなくなっていた。私もそうであったが、多くのソ連学者が、「現存する社会主義国家」としてこの国の研究に入り、主としてマルクス主義理論に基づき、その体制が正統か、あるいは本来の姿から逸脱しているのか、を論ずるのが通常の切り口であったが、体制の変更と共に、その視点は意味を失い、「普通の国家」の一つとして分析する必要に迫られる。そうした中で必要とされたのは、マルクス主義理論ではなく、一般の政治理論であり、それを「ロシア的特殊性」とどのように組み合わせていくか、という姿勢であったように思われる。しかし、それは例えばプーチンの資源戦略や、それに依存した新たな政治―実業家関係に焦点を当てるような分析であるが、そこでは取り立てて耳目をそばだてるような成果は目にすることがなくなっていった。私がこの国の分析に、最近余り関心がなくなってしまったのも、一方ではこの国の世界政治に対する影響力の低下に加え、分析それ自体の刺激が低下したことが大きかったように思える。そうした中で、この著者についても耳にすることが少なくなってしまった。

 しかし、この国を見る時には、社会主義時代からもう一つ重要な視点が存在していた。言うまでもなくそれは「民族」である。かつてソ連時代の70年代に、フランスの政治学者エミールーカレール・ダンコースが「民族と栄光」を著し、後に「ソ連の崩壊」を予測したと評価されることになるが、「民族人民委員」を経由し絶対権力者に上り詰めたスターリンを含め、この国の近代は民族問題に苦しめられてきた。そしてその問題は、絶対権力によるにしろ、経済成長によるにしろ、国家の正統性が維持されている時は抑えられているが、ひとたびそれが危機にさらされると、直ちに表面化することになる。ロシアーソ連政治を見てきた学者であれば、その問題を一般化させたくなるのは当然の衝動であろう。ユーゴ研究からこの世界に入った前者の著者と同様、このソ連学者も、同じ方向を進むことになったのである。

 ただ、この問題に足を踏み入れると、世界はより複雑になる。前者でも、「民族紛争の一般理論」とその克服のための数々の試みを紹介しているが、もちろん根本的な解決からはまだまだ距離がある。この本でも、「民族」、「エスニシティ」、「ネイション」、「ナショナリズム」といった関連概念の相互関係の検討から始め、この問題の一般認識と紛争の回避を模索しているが、それは簡単ではなく、結局国民国家の成立と分裂という、大きな枠組みで、この問題の持つ複雑性と個別性を再認識させるに留まっている。

 概念の検討で重要なのは、例えば「民族」の定義自体の複雑性である。著者は、グルジア語という同一言語を話す民族でもキリスト教徒(正教徒)の多数派と、アジャール人のようなムスリムを、あるいは逆に多数派タタール人とロシア正教に改宗したタタ−ル人であるクリャシェン人を民族として分けるべきかどうか、と議論するが、他方で、日本では、仏教徒であろうが、キリスト教徒、ムスリムであろうが、日本人であればそれを別の「民族」と見做すような感情はない。これは言わばその社会集団内での均質性とアイデンティティの一体性から判断されるべきもので、これは社会統合の歴史に大いに関連しているとしか言いようがない。あるいは、アメリカのように、そもそも多様な「エスニシティ」の集合体として成立した国家の場合は、「ネイション」と「エスニシティ」はレベルの違う概念であり、「後者は前者よりも小さく、その中に含まれる下位集団という意味になる」が、これに対し「エスニシティがネイションの基礎と捉えられている場合には、ある時期まで大きな国家の中の少数派だったエスニシティが自意識と組織性を高めるならばネイションになりうるという連続性がある」ことになる。

 また「ナショナリズム」も同様に多様な概念であるとして、まずはこの現象が其々のケースにより多様で、「リベラリズムと結合することもあれば、反リベラリズムの色彩を濃くすることもある」と指摘した上で、「政治的単位(端的には国家)とナショナルな単位とを一致させようとする考え方および運動」(ゲルナー)という定義が最も一般的であろうとする。そしてある民族分布と国家の領域の大小の組み合わせで4つの類型に整理される、としているが、詳細は省略する。

 こうした概念定義を受けて、個別ケースを、近代欧州での国民国家形成の歴史的説明から見ていくことになる。まずフランスの場合は、革命後、まず「共和主義」という理念が「国民」統一のために重視され、その後「標準フランス語」が「輝かしい啓蒙の理念」として押し広められ、それがある程度達成された時に、「フランス国民」が、「民族」的意味を持ったとされる。これに対し、ドイツは、基本的にはドイツ人の居住範囲を統一する国家を作る動きとなったが、ビスマルクによる統一後も、「ネイションと国家領土とが全面的に合致したとは言えず」、それがその後も「ドイツ問題」として残ることになる。またイタリアの場合は、「ネイションが先にできて、それに合わせて国家が作られた例」とされるが、19世紀末の統一時に、どれだけ「イタリア人」というネイションが確立していたかは疑問であるという。そしてイギリスの場合は、「『最先進国』であることに伴う特殊性」もあり、「複合的ネイション構造」が漸進的に形成され、その広大な植民地での意識を含め、「愛国主義(パトリオティズム)とナショナリズムの関係が単一ネイションの国家よりも複雑なものになった」というのも、一般的な見方である。

 続いて国民国家の成立過程を、多民族が共存していたオスマン帝国やロシア帝国、ハプスブルグ帝国の崩壊過程から説明しているが、これも復習の範囲である。またこうした「旧大陸」での国民国家成立とは異なり、南北アメリカおよびオセアニアでは、「出身地を異にする移民たちが先祖の伝統から切り離された環境の中で新しい国家を形成する」ことになったことから、ネイションとエスニシティは峻別されることになった、というのも一般的な議論である。また東アジアでは、清朝中国で、本来「個別エスニシティを越えた統合である『中華民族』論は実際には漢民族・漢文化への同化を意味するという新たなディレンマ」となったというのが、現在まで中国が引きずっている問題である。それに対し日本は、「『近代国家化』が相対的に早期に達成される一方、『国民国家』にしては大きすぎる空間を『帝国』として包摂することに伴う矛盾を抱え込むことになった」というのも通常の理解であろう。

 こうした近代の国民国家とその中に包含するエスニシティの問題が第一次大戦後の「民族自決」論により、いっきに表面化するが、もちろん「一民族一国家」は不可能な夢であり、「どの国家も多民族国家たらざるを得ない。」「そもそも『自決』の主体たるべき『民族』という単位をどのように設定するか」ということが、次の問題となり、それが第二次大戦に至る導火線の一つとなったことも言うまでもない。そして第二次大戦後、植民地から新たな独立国家が生まれる過程で、今度はアジア、アフリカ地域で同様の問題に直面することになる。

 これらの地域では、基本的には「植民地時代の諸制度が一定の変化を伴いつつも新国家に引き継がれる」ケースが主流となったが、例えばインネシアでは、「言語・社会構造・生活様式を異にする数百のエスニシティがある」中、「20世紀初頭の頃まで『インドネシア』という概念も『国民』意識もなかった」が、オランダ支配のもとで次第に地域全体を一体的な領域として捉える意識と運動が広がり、これが独立後の国民国家枠組みとなった。しかし、これは「独立運動家の観念の中に想定されたものにすぎず、現実には無数の断層に引き裂かれていた」とされる。これはB.アンダーソンの議論のようであるが、彼の「想像の共同体」は、ASEAN理解のために、一回読んでおいたほうが良さそうである。またインドのケースは、「連邦制とエスニシティ・言語区分がある種の対応関係にあり」、1956年の州再編で、「民族」(あるいは「宗教」)という概念よりも、「言語」が州形成の基本になった、というのは、今まであまり認識していなかった議論である。著者が、このインドの「民族・エスニシティと関わる原理で連邦制を構成するという型は、かつてのソ連やユーゴスラビアと似たところがある」と指摘しているのはやや気になるところである。

 著者は続けて、アラブ諸国での「広域ナショナリズムと個別国家ナショナリズム」の関係、その中でのイスラエル問題、「内発的な」社会主義国でのナショナリズムといった個別例を説明しているが、東南アジアのケースではヴェトナムの例だけ確認しておこう。

 フランスの植民地下で、この地域はラオス、カンボジアを含めた「インドシナ」単位での一元的な官僚機構形成、フランス式教育制度などにより地域統合の基礎が作られていたが、独立闘争の過程で、当時のインドシナ共産党が、ヴェトナム、カンボジア、ラオスの三民族を「多数民族」、それ以外は「少数民族」とする方針としたことから、その後の3国家への分離が進められたという。そこでは「ヴェトナム人のインドネシア体験が深く広かったのに対し、カンボジア人やラオス人のインドシナ体験はより限定されていたというギャップは解消されなかった」というのは、フランスが植民地化でヴェトナム人をカボジア、ラオス支配の中間管理職に使ったという、別の本での指摘とも関係していると思われる。また、ヴェトナムは、約九割を占めるキン族が支配民族であったが、それ以外に1973年の認定では54の民族がいることから、独立闘争の過程で「多民族国家としての統合」を目指さざるを得ず、また一部の民族の自治領を認めたり、取り消したりという過程を繰り返したというのは、今回知ったこの国の新たな歴史である。そして華僑についても、中国との関係で、北ヴェトナム時代は中国籍のままでヴェトナム公民と同じ権利を認めていたが、その後この特権を剥奪したことが、解放後の南ヴェトナムでの「資本家改造」とも相まって華僑・華人の「ボートピープル」としての大量流出をもたらしたというのも、新たな認識であった。言うまでもなく、これによる経済停滞が、その後のドイモイという政策転換を促すことになる。

 次は冷戦終了以降の民族問題の展開であるが、まず説明されているEU拡大に伴う、エスニック・マイナリティの再覚醒とそれに対抗する排外的なナショナリズムについては、既に多くが語られている。面白い視点は、ソ連崩壊による旧共産圏の再編過程で、むしろ実現しなかった広域国家の例が取り上げられている、ルーマニアとモルドヴァ、そして「統一トルケスタン」のケースである。前者は文化・民族的に同系統であるが、経済力の低いモルドヴァが「独立国」という既得権に固執したという。また後者は、もともとはソ連の「人為的分断」政策で、中央アジアの5−6民族が形成されたといわれるが、「数十年に渡る疑似国家の経験およびそれを担う民族エリートの形成」により「統一」の動きは弱いままに留まったという。

 「歴史問題」を巡る論争の再燃も、冷戦後世界の特徴であり、日本と中・韓のみならず多くの「歴史問題」が存在するが、ここでは最近の混乱との関係からウクライナにおける1932−33年の大飢饉を巡る論争だけ記載しておく。これは親EU派のユスチェンコ大統領時代に国会決議で「ウクライナ民族に対するジェノサイド」との決議がなされたが、これにはあのソルジェニツィンさえも「ボルシェヴィキ顔負けのデマ宣伝」と批判したという。親ロシア派が、それ以上に反発しているのは言うまでもないが、政権の正統性が弱まるときには、常にこうした古傷が蘇るということは確認しておく必要があろう。

 最後に著者は、改めて大きな概念装置の議論に戻り、「よいナショナリズム」と「悪いナシナリズム」、「リベラルなナショナリズム」と「非リベラルなナショナリズム」あるいは「シヴィック・ナショナリズム」と「エスニック・ナショナリズム」といった区分で、ナショナリズムの性格を規定する議論を紹介している。しかし、著者は結局のところは、「図式的な一般論では意味がない」として、むしろ民族・エスニシティを要因とする紛争が、政治エリートの「軍事的リアリズム」に基づく「打算的」判断で始まり、いったんそれが始まると泥沼化する(「魔法使いの弟子」化)ことが多いことから、「ナショナリスティックな感情そのものを一般的に否定するには及ばない」ものの、紛争初期の段階でその悪循環をいかに防ぐかという「初期対応」が何よりも重要、という結論になる。ただ残念ながら、この結論は、多くの歴史を復習してきた後での結論としては、あまりに期待外れである。おそらく、ここで再確認しておくとすれば、上記の通り、エスニシティの問題は、政治、経済、社会が不安定化する際に、ある集団の自己保存本能として惹起され、それが政治的道具として使われる、ということである。主として経済成長による生活水準の向上で、現在相対的に押さえられているアジアでのエスニシティ問題は、その安定がひとたび危機に曝されれば、いつ何時であろうと復活してくる潜在力を持っている。そうした政治、経済、社会的危機を如何に回避し、エスニシティの復権を押さえることができるか。私の新たな東南アジア滞在は、こうした問題も抱えながら始まることになるのだろう。

読了:2014年5月20日