戦争責任論
著者:荒井 信一
シンガポールへの出発前に、日本の本棚を整理していたら未読本として出てきたため、何となく読み始めた。第二次世界大戦終了50周年の1995年に初版が出版され、2005年に文庫化。従って、どうも前回のシンガポールへの出発前に購入していたようであるが、何で本棚の奥に眠っていたかは分からない。今回読み始めたタイミングでは、今度は第一次大戦の勃発から100年、ということで、サラエボでのオーストリア皇太子殺害事件から、塹壕戦主体の戦争の様子や、総力戦で新たに使われた戦車や毒ガス兵器などを紹介したテレビ番組が頻繁に放映されていた。これはまさに「世界戦争の世紀」となった20世紀の始まりを象徴する事件である。そしてその世紀を締めくくるという意味で著者が満身の力を込めて著したのが、この世紀を通じて次第に形成されていった「戦争責任」の概念である。まさに戦争が総力戦となり、民間人を含めた死傷者数や物的被害の異常なまでの拡大、そしてその後の第二次大戦ではジェノサイドのような大量の民族浄化が行われたことから、終戦後その戦争責任を如何に問うかが、この世紀の「平和の課題」として人類に突き付けられる。当然それは、政治的な責任から始まるが、それに留まらない倫理的な責任を問うような議論の数々も生み出すことになる。こうした議論の展開を、この本が出版された時期にまさに勃発していた湾岸戦争の例も含め、緻密に追いかけたのが本書である。明らかに著者は、最近の政治家の靖国訪問や韓国慰安婦問題などに対し、政府方針に批判的な立場から議論を展開していることから、直ちに議論のすべてを受け入れられる訳ではないが、少なくとも彼の立場からの論拠は徹底的に示していることは確かである。またその議論は、それぞれの大戦後の戦争責任論を追いかけているため、第一次大戦後のドイツに対する戦後処理から始まり、第二次大戦後の日本やドイツの戦争責任論のみならず、その後のヴェトナム戦争などの局地戦も含まれ、その意味で地域を限定したものではなく、グローバルな議論になっている。その意味で、この作品は、ドイツ読書日記にも掲載することもできるが、ここでは日本のアジアに対する戦争責任を主体にフォローすることから、アジア読書日記に掲載することにする。
議論の開始は、第一次大戦後の終戦処理である。塹壕戦主体であるこの大戦は、双方の兵士たちにシェル・ショック(砲音衝撃症)という、今日では「心的外傷ストレス症(PTSD)」と呼ばれるノイローゼ症状を多発させ、それが戦後のレマルクによる「西武戦線異状なし」等による反戦・厭戦論を生み出すと共に、それが今度は「背後の一突き」論のような報復主義の攻撃材料にもなったということを、まず確認しておこう。またこの大戦は、戦場は欧州大陸とその周辺に限定されていたが、英国やフランスはその植民地の人々と物資を戦争に投入し、例えばインドからは144万人あまりのインド兵が、またインドシナからは5万人に近いヴェトナム兵が欧州の前線で戦い、多くの死傷者を出した、ということにも留意しておこう。
さて、それではこの戦争の終戦処理ということであるが、まず戦争が始まる直前に、イギリスのジャーナリスト、ノーマン・エンジェルが「大いなる幻想」という著書を出版し、「将来の戦争はあまりにも破壊的で経済的に引き合わないから、戦勝国が戦費に見合う償金をとることができない」、そして「領土の『拡張』によって戦争はペイできるという考え方もなりたたない」という議論を展開し、それなりに評判になったということを確認しておこう。こうした議論にも拘わらず大戦は開始され、戦勝国、先輩国の双方に膨大な人的物的損害を出すことになる。
ここで注目されるのは、第一次大戦前には、「主権国家の行動を外から裁く裁判所がない以上、国家が外国との間にある争点を戦争という手段で解決することは合法的」であり、それを前提とすると「敗者が勝者の戦費を負担する償金という考え方にも一定の合法性」があったこと。しかし民間人とその財産を含めた甚大な被害の賠償責任という考え方は、「少なくともその被害をもたらした国家の行為の違法性を前提にしなければ成立しない」、即ち「国家の戦争責任」、あるいは「戦争そのものを違法とする考え方」を導入せざるを得なかった、という点で「戦争観自体の転換」をもたらした。そして「戦争の世紀」である20世紀は、まさにその「戦争の違法性」突き詰めていく世紀となっていくのである。そして第一次大戦後のドイツに対する賠償問題については、一見、米国ウィルソンの提唱した14カ条による「寛大な講和=和解の講和」が、クレマンソーら欧州側の主張する「過酷な講和=カルタゴ的講和」に敗れた、という図式であるが、実際にはウィルソンも「戦争責任の認定、責任者の処罰、被害者に対する賠償」を一体のものとして処理することは承認していた。それが、この「史上初めて、講和条約に戦争責任を明記した」ベルサイユ条約の過酷な賠償条項を生み出したのである。当時大蔵省の官僚として講和会議に参加していたケインズが、この「カルタゴ的講和」に反対し職を辞し、6か月後に、この講和条約の過酷さを批判する「平和の経済的帰結」を出版している、というのは面白い逸話である。また戦後オランダに亡命していた皇帝の戦争責任を追及する裁判を開催することが決まった時、オランダが「中立国の義務」として皇帝の連合国軍事法廷への引渡しを拒否した、あるいは連合国からのその他の戦犯引渡しも、ドイツ国内の反対世論の高まりの中で結局実現できなかった、ということで、「戦争責任条項は、賠償条項を除けば空文に帰した」というベルサイユ条約の限界を示すことになったという。こうした中途半端な講和が、後のナチスの勢力拡大の背景になっていったことは言うまでもない。
そして今度は第二次大戦である。対ドイツでのニュールンベルグ裁判は、「第一次大戦後は実現しなかった戦争指導者に対する侵略戦争の個人責任を明確にしたこと、『平和に対する罪』と『通例の戦争法規慣例に対する違反』以外に、『人道に対する罪』を設けて戦前、戦中を問わずすべての一般住民に対する非人道的行為を国際犯罪として裁いた点で画期的とされている。」
こうした観点から著者は、ドイツや日本の「戦争目的」をどう考えるか、という戦後の裁判やその後の議論を検討している。日本の戦争責任を考える上で重要なのは、それは侵略戦争であったのか、欧米列強に対する植民地解放戦争であったのか、という議論で、もちろん左派は前者、右派は後者と主張することになる。これは現在も時折浮上する議論であるが、少なくとも日本が東南アジア諸国を占領し、欧米に変わる、しかももっと過酷な支配者となった時点で、明らかに「侵略戦争」に転化した、というのが、私の見方である。それが、リー・クアン・ユーなどが言う、「日本が敗戦し英国が返ってきた時は、正直ほっとした」という感覚に繋がることになる。戦後裁判は、敗者を裁いた法廷である以前に、植民地支配者としての日本の稚拙な能力が裁かれたものでもあったとも言える。因みに、日本軍が、真珠湾攻撃よりも1時間早くコタバルに上陸し戦闘を開始していたのは有名な話であるが、それから50年たった1991年のこの日、そのコタバルで、大戦資料館の開館などの式典が行われたという。しかしこれが(最も被害の多かった)華人の参加なしに企画・実施された「観光目的」臭の強いものであったため、華人社会が批判することになった、という逸話は、この地における日本軍の、華人とその他マレー系、インド系とで異なっていた対応の今日的表れとして、非常に興味深い。
ナチスの戦争目的に関する議論は、多くが知られているものであるが、一つ面白い議論は、当時の英国外相イーデンが主張したような「アウシュヴィッツ爆撃」が実現しなかった理由と経緯についてである。戦争末期に向け、ナチスの「残虐な絶滅措置」についての風評は広まっており、連合国の航空写真がその場所を特定していたにも関わらず、「絶滅収容所」であることへの一抹の疑惑、そして何よりも「ユダヤ人を救えという要求が高まることは、戦争努力にとっては余計なことと思われた」ことで、結局実行されなかったという。近隣に迫っていたソ連軍があえて支援策を取らずに静観したことで玉砕したワルシャワ隆起と同様、露骨な政治判断により引き起こされた悲劇の一つと考えられる。
戦争責任論の観点で、もう一つ興味深い議論は、「原爆投下の政治学」である。まず原爆投下には「アメリカの世界における覇権的地位を世界に印象づけようという打算や、日本人の戦意を挫き降伏に追い込もうとする打算や、ソ連の勢力伸長に対抗しようとする狙い」等の意図が込められていた。それは同時にこの投下が、「住民(=非戦闘員)の大量かつ無差別殺傷を結果すること」を十分認識した決断であった。この決断は、その後のヴェトナム戦争や湾岸戦争といった局地戦に際しての戦闘正当化に連なる一連の議論の嚆矢という点で重要である。
著者は続けて日本の天皇の戦争責任論を考察しているが、ここでは、まずポツダム宣言受諾に対して、日本側が「天皇の国家統治の大権に変更を加えるいかなる要求も包含していないという諒解」という条件を付けたこと、そしてそれを巡り米国内では激しい論争があった(特に米国世論の太宗は、天皇を戦争犯罪人と考えていた)ものの、結局、戦後のソ連の影響力排除を重視し、日本の早期降伏受諾を優先したことを再確認しておこう。その結果、受諾文書に「降伏の瞬間から天皇および日本政府の国を統治する権限は連合国最高司令官に従属」すると共に、その後の統治形態は「日本国民が自由に表明した意思に従い決定されるべき」という玉虫色の文言が挿入されると共に、その後のマッカーサーとの会談を経て、「マッカーサーによる『天皇の利用』と天皇による『占領協力』」が合意されることで、結局天皇の戦争責任は回避され、天皇は東京裁判に被告として訴追されることがなかった。そして最後に、国民に対して天皇の責任を回避する世論操作が行われることになる。
更に、著者は東京裁判の問題点を整理している。それは、@アジア不在(アジアからの裁判の参加国は、中華民国、フィリピン、インドのみ)、A「人道に対する罪」の不問(その後の強制連行、強制労働、慰安婦問題などの原点)、そしてB裁判の早期打ち切り、の3点に要約される。この中途半端な戦争責任の追及は、その後40年以上たってから、戦後政治の決算という議論の中で、右派政治家からの「東京裁判史観」として、ネガティブな含意を付与され利用されることになった、というのも留意しておくべきであろう。またその後のサンフランシスコ講和条約で、最終的な戦後処理が行われるが、その中で、戦時中の日本軍の捕虜への補償が、「連合国軍の構成員」に限られたことから、民間人の捕虜やゲリラなどの捕虜は除外され、またアジアの国ではカンボジア、フィリピン、ヴェトナム、パキスタンの軍人に限られたというのも、別の「アジア不在の講和」であった。
続いて著者は戦後の戦争責任論の展開を追いかけていくが、これは「大東亜戦争肯定論」に代表される右派の議論と、左派からの「戦争責任希薄化」の精神構造分析を含めた「主体的戦争責任論」のせめぎあいである。著者が、後者の立場に立っていることは言うまでもないが、60年代の高度成長と、その中での日本企業のアジア進出に際して、シンガポールで血債問題が発生(1962年)し、1967年に「有償無償あわせて5000万ドルの供与」で決着するまで続いたことも、再度確認しておこう。「日本が太平洋戦争における被害と加害の事実を明確にすることなしに、アジアへ進出することにたいするアジア諸民族の側からの抵抗を示す事例」という評価は、現在はやや説得力を失っているが、それでも現在その地で働く我々が一時も忘れてはならない過去であることは確かである。
最終章で著者が書いているように、1990年代に入り、日本の国際的役割が増大した際に、アジア諸国の警戒感が高まり、「あらためて日本政府の過去の戦争に向き合う姿勢や日本国民の歴史認識を問い直す」動きとなる。それが中国の反日教育であり、韓国による慰安婦問題を含む歴史問題の強硬な主張になっていることは言うまでもない。著者は韓国人慰安婦問題の顕在化過程と日本政府の対抗的動きも説明しているが、これらの問題が、左右両派が主張するような、どちらかの側からの一方的な議論で解決できる問題ではないことは間違いない。こうした問題は、最終的には、米国のヴェトナム戦争政策批判に関して、著者が引用しているキッシンジャー言うところの外交の「哲学的深化」によってしか解決できないものであろう。そしてことアジアとの関係について言えば、我々は、中国・韓国とその他アジア諸国との間で大きな姿勢の違いはあるとは言え、ドイツと比較して中途半端に留まった日本の戦争責任に対する姿勢を常に心に留め、それぞれの時代状況の中で、相手の立場を十分認識しながら対応していく必要があろう。地理的な近隣諸国は、言うまでもなく関係を切ることのできない隣人である。隣人である故の難しさは、それこそ「哲学的深化」により逆転できる可能性もある。少なくとも東南アジア諸国との関係においては、彼らにこうした日本の戦争責任を想起させるような行動を慎みながら、彼らと同じ視線で共に成長していく姿勢をとり続けることが必要であることを、改めて認識させてくれる作品であった。
読了:2014年7月26日