アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
アジア全般
緑色の野帖
著者:桜井 由躬雄 
 1997年2月出版であるので、既に17年が経過している。出版直後にアジア経済危機があり、その後はSARS騒ぎ等もあったものの、2000年代後半のアジア経済は大きく躍進した。そしてその後もリーマン・ショックによる一時的停滞はあったが、ここ数年はまたこの地域の経済水準と生活水準は着実に成長している。その意味で、ここに描かれている1978年から1996年まで、約20年間に渡る著者のフィールド・ワークは、もちろん一部の地域では大きな変化がないところもあろうが、大部分は、ここ10数年の経済成長を遂げる以前の東南アジアの姿である。私自身の人生と重ね合わせてみると、ちょうど1978年は私が社会に出て、最初の仕事として勤務先のアジア拠点とも初めて関わった時期である。当時のアジアでの関係先は香港、シンガポール、ジャカルタの三ヶ所であるが、実際に訪れる機会はなかったとはいえ、時折帰国する駐在員の話を聞きながら、大都市においてさえ、欧米に比較して厳しい生活環境であるとの印象を抱いたことを記憶している。

 それから10年経った80年代最後から90年代にかけて、私も初めて香港やシンガポールを観光で訪れる機会があった。そこでの印象は、大都会とはいえ、それまで6年間滞在した欧州の町に比較して「混沌としたアジア」がそこにある、というものであった。狭いゴミゴミした通りに立ち並ぶ雑貨店や非衛生的な屋台の数々。それは欧州の洗練されたきれいな町並みとは大きく異なるものであったが、他方で、そうした「混沌」に自分が幼少期に体験した高度成長前の日本の姿と重なるものを感じ、逆にある種の心地良さを感じたのも確かであった。その後再び欧州に長く滞在してしまったため、次に東南アジアの地を訪れたのは、既にこの本が出版された後の1998年である。それを考えると、この著者が追いかけているのは、私が社会に出た年に始まり、ドイツの駐在を終えて、再びこの地を訪れることになった頃までの東南アジアの姿である。

 しかし、東南アジアと言っても、著者が訪れているのは、私が観光で訪れていた大都市ではなく、むしろそこから遠く離れた地方が中心である。歴史学者であり、またフィールド・ワークを重視することから考古学者でもある著者のそうした地域への調査旅行は、必然的に厳しい行程を辿ることになる。しかも時代は、まだアジアの成長がその端緒に着いた時期である。しかし、それは他方では、私を含め、そうした時代のその地域に無縁な読者に対しては、ある種の冒険談を聞いているような興奮を与える。言わばこの本は、恐らくは今は相当部分が失われた東南アジアを巡る歴史発掘の冒険物語なのである。その意味で、作品としては古いけれども、読者はその世界を大いに楽しむことができる。ここではその全ての冒険談を紹介することはできないが、特に面白かった幾つかを、以下に取り上げることにする。

 ハノイから紅河を遡ったフングエンという地域で、3000年程前の銅製の太鼓が見つかった(ドンソン文化)という話から、著者の旅はここから始まる。まだこの国で自由な旅ができなかった1985年のことである。「暗い谷間でショボショボと降る雨を受けた、貧しく、小さな生活がある」地で、紅河沿いの湿地帯に広がるズブズブの赤土の中を歩きながら、著者はその地域の伝承も紹介しながら、東南アジアで最初に始まったという稲作に想いを馳せる。そして、紀元前1000年頃には、この稲作が下流のデルタ地帯に広がり、小規模な政治集団が生まれ、それが地方権力に育っていったと推測する。「ベトナムは次第に歴史の光の中にその姿を現」してくる。その遺跡の一つが、ハノイ郊外にあるコーロアの大城壁である。ここから発掘された銅鋤は、ドンソン文化の代表であり、その発掘は、ドンソン文化がベトナム北部に広がっていたのみならず、同様の物が発掘されている中国・雲南を中心とした華中・華南を結ぶ広大な交易圏ができていたことの証左でもある。まだ私が訪れたことのない、ハノイを中心とする北部ベトナムが、東南アジア最古の文明の発祥地の可能性がある、というのは新しい発見である。

 この文化に関する遺品は、タイでも最も貧しい東北部でも発見されているという。70年代はクメール・ゲリラや共産ゲリラが出没していた危険な地域であったが、80年代になると急速に平和が訪れる。現在この地域は水田が広がる豊かな稲作地帯であるが、この稲作が急速に普及したのは19世紀末、バンコクと鉄道で結ばれて、都市への食糧供給地として開墾が進んで以降のことである。それまではメコンを通じ、カンボジアを経てしか海と交わることのできない陸の孤島であった。しかし、そこで起源前にドンソン文化がこの地域にも広がっていたことを示す青銅器等が見つかったことから、実はこの地域がベトナム等と結ばれていたことが明らかになる。1989年、著者はその地域を巡る旅に出るが、それはまず青銅器等が見つかったバーンチェンという村から、更にメコンを遡り、ラオス国境にあるノーンカーイに至る。10数年前に著者が始めてここを訪れた時は、1975年のラオス革命で対岸にあるビエンチャンとの交易が途絶え寂れていたこの町も、今回は賑わいを取り戻し、メコンを渡る横断橋も計画されていたという。それから25年を経て、現在はこの橋もおそらく完成しているのだろう(別の本によると、この2つの町は、2009年に鉄道で結ばれたようである)。

 ドンソン文化の影響を示す遺品は、更にクアラルンプールを中心とするマレー半島西岸からジャワ北岸、更にはニューギニアに至る地域でも発見されている。著者は、後にチャンバ王国を作ることになる中部ベトナムの人々(「サーフィン文化」)が、この「ドンソン文化圏の運輸業者だったのだろうか」と推測している。そしてその時代にスマトラ中部で生まれたパスマ文化は、やはりドンソン文化の影響を受けた独自の巨石文化を生むことになる。1989年、著者たちは、このパスマを目指し、トランススマトラ・ハイウェイから更にバリサン山脈の奥に踏み入っていく。最後は雨の中、泥道をずぶ濡れになりながら辿りついた寒村に、多くの巨石墓や石像が無造作に転がっている。さすがにこの地を私が訪れることはないだろうが、これらの発掘物は、パレンバンの博物館にも展示されているという。パレンバンであれば私も訪れる機会があるかもしれない。

 ドンソン文化が広がった紀元前一世紀頃は、また中国やインドの商人が海洋進出を始めた時期でもある。そして三世紀初めには、ベトナム南部にサーフィン文化を担った人々が扶南という国を建てたことが裏付けられている。第二次大戦末期、ベトナム南部のメコン・デルタにあるオケオという寒村で、インド文化の遺品のみならず二世紀頃のローマの銀貨まで発掘され、更にこの村からカンボジアの聖地アンコールボレイまで直線運河が掘られていたことまで確認された。著者たちは、この「ほとんど砂洲と湿地ばかり」の地であるオケオを訪れる。しかし、この「東南アジア国家発祥の地」、「その地下に無尽蔵の遺跡と遺物を含んでいる」この地の発掘は水に苦しめられ、なかなか進んでいないという。現在では、この発掘はそれなりに進んだのだろうか?

 そして次はインドネシア領ボルネオである。ここでは、時代が少し下り、五世紀と推定されるインド(パルラヴァ)文字で書かれた碑文コレクションが、マハカム川中流域の湿地帯ムアラカマンで出土したという。1988年、著者は、バラモンの祭礼に使われたというこの遺跡を求めて、マングローブで覆われたこの東南アジア最大の島に足を運ぶ。ジャカルタからバリクパパンという海岸沿いの町に飛び、そこからプロペラ機でサマリンダに移動し、そこからスピードボートでマハカム川を遡上したテンガロンという町の博物館で、スルタン所縁の展示品の横にひっそりと陳列されているその碑文を目にする。これらが、この大湿地帯にかつて大きな権力があり、土地の首長がヒンヅゥーの儀式に黄金を献上していたしていたことを語っている。しかし、その権力はたった一代で消滅してしまったようである。実はボルネオの金は既に三世紀には知られており、宋代には現在のブルネイ地域から中国に金が輸出され、また植民地時代の1930年代には英領サラワクで結構な金を産出していたという。しかし、これらの金鉱山は採掘が終わるとそのまま打ち捨てられる。マハカム川沿いに成立した権力もこうして金鉱山と運命を共にしたのではないか、と著者は夢想するのである。

 その東南アジアのインド化の故郷としてインド・タムル州紀行が続くが、これは省略し、再びスマトラは、パレンバンに移る。ここでの主たる関心は、いうまでもなく七世紀にこの地に存在したシュリヴィジャヤという仏教王国の歴史である。シュリヴィジャヤの王宮址が発見されたという、パレンバンを流れるムシ川の支流に沿った低湿地帯は、「無数のクリークが洲内に食い入り、干潮時は腐臭を放」ち、そこに「高床式のバラックが棟を接して建てられ、その間を板を渡した細い路地が抜ける」、ある種のスラム地帯である。こんな場所に、中国では唐から宋に至る時代に王国が存在していたというのである。「どうもジャンクの進出以前の港は、こうした段丘の前にはりだした沼地に運河を掘って港湾としたものが多かった」というのが著者の推測。そして大型のジャンクが11世紀頃から海上貿易の主流になると、この王国は急速に衰えていったという。因みに、「シュリヴィジャヤの碑文」と呼ばれるサンスクリットが混じった古マレー語で書かれた碑文が周囲で見つかっているが、これらは「海の文明」であったシュリヴィジャヤが、「山の文明」を王権の下に統合するためのものであったのではないか、と著者は推測している。 

 ジャカルタやその避暑地であるボゴールから西に広がる未開発の田園地帯での、村の祭儀への参加、12世紀クメールの栄光の痕跡を辿るための、東北タイの溜め池(バライ)調査、14世紀にスマトラに成立し「マラッカ海峡から東インドネシアへとその影響力を拡大していった」マジャパヒト王朝の遺跡を訪ねる西部スマトラの旅、マラッカ王国の原点を訪ねるパレンバン再訪などを経て、私が強い興味を持っているインドネシア、スラウェシでのイスラム受容の経緯の調査に移る。

東南アジアでのイスラムの伝搬は、15世紀のマラッカ王国の改宗が大きなきっかけであるが、それが本格化するのはスラウェシに上陸し、「海の通商に目ざめてきたブギス人やマカッサル人を改宗」させてからで、特にマカッサルが以降の「イスラムの布教センター」になったという。同時期にオランダ東インド会社のインドネシア支配が完成していたが、オランダは宗教面では大きな介入はせず、ブギス人らのイスラム・ネットワークが、この大きな国際交易の中で「在来支線」の役割を果たしていった。同時に宗教面では、フィリピンに進出したスペインのカトリック勢力との衝突が発生。現代に至るまで、フィリピンがこの宗教問題を大きく引きずる発端となるのである。1988年、著者はこのスラウェシで、村興しのため、サゴヤシから取れる澱粉を商品化する計画を進めている日本人の若手研究者を訪問する。

 スラウェシで面白いのは、Kの線に沿って別れる4つの地域が「其々言語も風習も違い、相互に関係することがあまりない」というほど分断されていること。またこれは余談だが、スラウェシの東に、もう一つKの形をした小さなハルマエラ島というのがあるのも、今回初めて認識した。著者は、若い研究者が滞在する村の長老から多くの伝承を聞き、「王国の歴史家」として認証されたという。他方、私は、まずこのマカッサルと、リゾートして開発されている北部のメナドあたりからこの島の探索を始めてみたいなどと夢想していたのである。

 こうした東南アジアの海洋文化と関わりのあった沖縄・八重山諸島、タイ民族の発祥地であり、15−16世紀にアユタヤを中心とした大陸東南アジアの流通網と結びついていた中国の雲南省・昆明、14−19世紀まで、記録がない中でいつの間にか「ラオ人の世界」となった東北タイの再訪は省略し、著者の東南アジアの旅の最終章に移る。

 突然のシンガポールとバンコクである。まず1986年のシンガポールで、ここでは約10年前の訪問から急速に「東南アジアの華僑街」の雰囲気を失っていったこの町の変化が語られる。私の初めてのこの国への訪問はその3−4年後であるので、この国が既に、著者の言うところの「南海のジュネーブ」となっていた頃である。ここでは、かつてのシンガポールから日本への留学生との挑発的議論が紹介されているが、それ以外では、1702年にジョホールの国王が、イギリスの冒険商人フランシス・ライトなる男にシンガポールの譲渡を提案したが、ライトは即座に断ったというのが、この国の歴史としては初めて聞く逸話であった。そしてバンコク。1978年の著者の最初の駐在時と1987年の再訪時のスクンビットの歓楽街の変化。ここで突然、という感じであるが、ああ、こんな時代もあったのだな、と思わざるを得ない。そして最後の旅は、再びハノイ、1990年。「ハノイの人が(初めて)笑っている」ことで、ドイモイの浸透を感じると共に、80年代の2年間の駐在時代に「公安の眼に追われ、妻を病に倒し、それこそ憂鬱な想いだけがたまったハノイが、いつの間にか私の一部になっていた」として、このフィールド・ノートが終わることになる(終章の「追想の土屋健治」は、彼の故人への個人的鎮魂である)。

 最後のシンガポールとバンコクの印象記を除くと、ほとんどの地域が、私にとってはまだ馴染みのない場所であるが、それらが東南アジアの歴史と関連していることを知るのは、この地域で生活しているものにとっては、将来に向けての大きな知的刺激である。繰り返しになるが、これらの地域も著者の訪問から10−20年が過ぎ、それなりの大きな変化を遂げていることは間違いないが、それでも私が知っている東南アジアの都市部や、旅行で訪れた一部の農村部とは異なる地域であることは間違いない。これからの東南アジアでの生活の中から、こうした地域のいくつかを、自分に可能な方法で回りながら、著者から伝授されたこの地域の歴史を夢想する機会を是非作ってみたいという思いを抱かせてくれる、その意味で、作品の出版の時期は、そうした思いを感じるために、必ずしも重要ではないことを示してくれる作品であった。

読了:2014年8月20日