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アジア・太平洋戦争―シリーズ日本現代史6         
著者:吉田 裕 
 岩波新書で、10冊からなる「シリーズ日本現代史」の第6巻である。今更日本の現代史、ということでもないが、東南アジアに暮らしていると、どうしても第二次大戦時の日本軍によるこの地域での支配を意識せざるを得ない局面が多い。そんなことから、帰国時に書店の棚を眺めている時に、日本の東南アジアでの軍事活動を整理する上で役に立つかもしれないと考え購入した。ただ実際は、東南アジアにかかわる部分はそれほど多い訳ではなく、むしろ開戦までの政治過程や、米軍との交戦の実態など、国内や太平洋地域に関する記載が圧倒的に多い。そして言うまでもなく、米国と圧倒的に経済力が異なる中、冷静な判断ができず、惰性的に精神力だけで戦争行為を続けたことが、悲惨な敗戦という結果を生んだことが自然に示されるような記載になっている。しかし、ここでは、そうした戦争の全体像は捨象し、あくまで東南アジアに関わる部分を中心に抽出してみる。著者は、私と同学年の、一橋大学大学院の教授である。

 まず太平洋戦争の前史としての「武力南進政策」への転換が説明されている。それによると、日中戦争の長期化と膠着を打開するために、欧州でのドイツの勢いに「幻惑」された勢力により、「三国同盟の圧力によってアメリカを牽制しつつ武力南進を行うという路線」が選択される。その意図は、「その植民地の奪取によって、中国を支援するイギリスの弱体化をはかり、あわせて仏印ルート・ビルマルートという二つの援蒋ルートを遮断し、日中戦争を解決する」という狙いと、「ドイツの勝利に便乗して東南アジアに武力進出し、この地域に日本の経済的自給圏を確立することによって、日本の戦略的体勢を強化しよう」という狙いの二つであった。そして日本軍は、1940年9月には北部仏印に、翌41年7月には南部仏印に進駐し、「南進のための航空基地と海軍根拠地を獲得」することになる。これは既に真珠湾攻撃以前に、日本軍が東南アジアに軍事進出を行っていたということで、今回改めて明確に認識することになった事実である。

 こうして、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本軍は英領マレー半島への上陸を開始、続いて3時19分に真珠湾攻撃部隊が空爆を開始することになる。著者は、この経緯から「この戦争は何よりも対英戦争として生起した」としている。日米間には決定的な利害対立がなかったことから、日本の軍部内には米国との戦闘を極力回避したいという議論があったが、結局対英戦争を開始するということは、米国の参戦も必至だったということは明確である。

 開戦にあたり、米国への宣戦布告がなされなかったことを含めた「さまざまな国際法上の違法行為」が説明されている。東南アジアとの関係では、コタバル上陸に関わる英国への宣戦布告は事後通告で行われたが、オランダ領インドネシア及び中立国タイへの進駐に対しては事後的な宣戦布告も行われなかったという。「日本政府は宣戦布告の事前通知問題の重要性をほとんど認識していなかった。」タイの場合は、「軍事的圧力の下で、日本軍の国内通過を認めさせる協定をタイ政府に強要してようやく事態を終息させた」というが、これは大戦後のタイによる、連合国側への「寝返り」を正当化する理由になる。

 他方、フランス領インドシナに関しては、対独協力派のヴィシー政権との間で「フランスが極東における日本の優越的な地位を認め仏印への日本軍の進駐を容認する」代わりに、「日本は仏印全土に対するフランスの主権を尊重する」という協定を締結し、上記のとおり、真珠湾攻撃以前に北部及び南部仏印に軍事拠点を設けることになるが、これは「インドシナ地域の民族運動の側からみれば、日本とフランスは共犯関係」となり、それが日本によるこの戦争を「アジア解放戦争」と主張することを難しくさせることになる。

 また開戦直後の「一連の作戦で陸軍が特に重視していたのは、マレー半島とシンガポールの攻略」で、「マレー作戦用の輸送船には、新型の有速船が与えられたのに対し、フィリピン作戦には船齢の古い輸送船が充当された」というのも、この戦争の「対英戦争」としての性格を示している、としている。そして東南アジアでは、フィリピンの攻略に手間取りながら(バターン半島の攻防)、ボルネオ、セレベス、スマトラ、ジャワ、そしてラングーン等を順調に制圧し、「42年5月までに、日本軍は東南アジアと中・南部太平洋の広大な地域を占領し、連合軍を圧倒」することになる。しかし、他方で、軍事的には、既に連合国との格差が拡大しており、勝利したマレー沖海戦でも対空砲による被害や、フィリピンやビルマでの戦車戦でも劣勢が示されていたという。

 そして日本軍の予想よりも早く、1942年の夏には米軍の反攻が開始される。主戦場は、まず南太平洋で、ニューギニアのポートモレスビー攻略で発生した珊瑚海海戦を契機に、ミッドウェー、ガダルカナル島での大敗北が、戦況の転換点となる。著者は、「ガダルカナル島から日本軍が撤退した43年2月を境目にして、、日米の戦力比が逆転し、その後戦力差が急速に拡大していく」ことを実証データで説明している。それはドイツ軍がスターリングラードで敗北し、欧州での戦争が転換点を向かえたタイミングと機を一にしていたのである。「ドイツ軍の成功を前提にしていた日本陸軍の対ソ進攻作戦計画は、もはや完全な机上のプランとなった」のである。

 以降、軍規の退廃や私的制裁の横行、兵士の体位の低下など、軍隊の弱体化と兵力動員の限界化などが指摘されているが、このあたりは、ここでの目的外なので省略し、続けて議論されている「大東亜共栄圏」の実態を見ていこう。これはこの日本による戦争がアジア全域に及ぼした負の影響を考える上で重要である。

 「大東亜共栄圏」では、「諸国家、諸民族間の平等な関係を原則とした国際秩序ではなく、日本を盟主としたピラミッド型の階層的な秩序が想定されていた。」そのため、「植民地」朝鮮、台湾、満州国では「皇民化政策」の名の下で、軍隊や軍需産業への動員を含めた「同化政策」が実施されることになる。また東南アジアは「軍政」という形で「現地の作戦群の司令官が直接統治行政を行う」ことになる。これは政治的には、シンガポールでの華僑に対する弾圧・粛清を生み、また経済的には「東南アジア経済を日本の物動計画に全面的に従属させる」ものであった。後者は、それまでの「交易・流通システム=『東南アジア域内交易圏』」を破壊することで、「民衆の経済生活の悪化に直結」することになった。特に戦局が悪化し、日本と東南アジア間のみならず、東南アジア間の各地域を結ぶ輸送路が連合軍による攻撃で切断されることで、「東南アジアの経済を決定的に破綻」させることになったのである。

 また戦局の悪化に伴い、日本軍支配下の「民心を日本側に引き付けるため」に、「日本を盟主とする大東亜共栄圏」という発想を転換させる必要が生じた。その一例は、1943年11月、アジアの対日協力政権である、タイ、フィリピン、ビルマ、中国(汪政権)代表者を東京に集めて開催された「大東亜会議」であり、そこでは「自主独立の相互尊重、各々の伝統の尊重、互恵的経済発展、人種差別撤廃、文化交流の促進、資源の開放」等が共同綱領として掲げられた。そこでは、「宣言文で見る限りは『大東亜共栄圏』の建設という戦争目的は放棄されていた。」しかし他方で、「マライ」、「スマトラ」、「ボルネオ」、「セレベス」は、重要資源を確保するために、帝国領土として確保するという「権益至上主義」は依然残っていた。後者の地域で既に活発に活動していた民族主義者、例えばスカルノなどがこの会議に招待されなかったところに、この宣言の「玉虫色」の性格が示されており、「その採択を契機に、戦争目的をめぐる国内的な議論は、さらに混迷を深めていった」とされている。

 国内経済の窮乏化や戦死者対応の粗末化、また南太平洋のソロモン諸島やアリューシャン列島のアッツ島などが、次々に「玉砕」していく様子が説明される。そしてこうした劣勢の状況下で、1944年1月、中国大陸の南北輸送路を確保する目的の「一号作戦」と、3月、「イギリス軍のビルマ反攻作戦を阻止し、あわせてインド国内における反英運動を高揚させる」目的のインパール作戦が強行される。後者は、当初イギリス軍が退却作戦をとったことで、インパール(アッサム州州都)包囲に至ったが、補給源が長く伸びたこのタイミングでイギリス軍が反攻に転じたことから日本軍は総崩れとなり、雨季に入っていたこともあり、多数の餓死者、病死者を出す悲惨な敗戦となったことはよく知られているとおりである。

 1944年6月以降、米軍のサイパン、グアム等のマリアナ諸島上陸が開始され、8月上旬までに日本軍の組織的抵抗は終了し、これにより日本の敗戦は決定的となる。東条内閣の崩壊、総力戦遂行下での日本社会の変容。戦局では、10月のフィリピン、ルソン島とレイテ島の攻防。ここでは、レイテに参戦すべく出撃し、撃沈された戦艦武蔵の残骸が深海から見つかったという最近の報道が、この大戦末期の戦闘を思い出させる。

 以降は、敗戦に向けての絶望的な戦いの統計的な分析などが目を引くが、その中で面白かったのは、本土を爆撃したB29などの米軍爆撃機の爆撃精度がこの時点ではあまり高くなかったことから、軍事目標に対する攻撃が成果を上げることが出来ず、そのため連合軍は焼夷弾による都市部の無差別攻撃に転換した、という分析である。鉄道や発電所の被害が少なかったことが、この説明で示されているが、これは完全に焦土化したドイツとの比較で、日本の産業復興が相対的に楽であったことを物語っている。

 こうしてポツダム宣言受諾による敗戦になり、この戦争の総括に入る。ここでの特記事項は、この戦争での、公式な日本の死者が310万人(軍人230万人、外地邦人30万人、国内市民50万人)であるのに対し、アジア諸国での死者が、それを大きく上回るという点である。もちろんその数字はいろいろ議論はあるが、著者は、「中国軍・国民:1000万人以上、朝鮮:20万人、フィリピン:111万人、台湾:3万人、マレーシア・シンガポール:10万人、その他ベトナム・インドネシアなどをあわせて、総計で1900万人以上」という数字を挙げている。「日本が戦った戦争の最大の犠牲者が、アジアの民衆であったことは間違いない」という著者のコメントに反論するのは難しいだろう。

 結局、この第二次大戦における日本のアジア支配は、米国を中心とする連合国との経済力・戦力格差により、一時的なものにならざるを得なかったのみならず、「大東亜共栄圏」というイデオロギーにおいても、支配地域の政治指導者、民衆の支持を得ることが出来なかった。それ故にその支配は力による過酷なものとなり、更に地域の経済システムを壊すことで、地域住民の生活の窮乏化をももたらすことになり、それへの反発が、更なる過酷な支配になるという悪循環に陥っていった。そこが英国による「巧妙な支配」との比較で、明らかに日本が劣っていた部分であろう。もちろん中華系移民は、対中国戦争で、厳しく弾圧されていたということがあるが、日本軍の粛清をすんでのところで切り抜けたシンガポールのリークアンユーが、「戦後、英国が戻ってきた時にはほっとした」という発言の背景には、中華系だけではない、地域住民のこうした安堵が示されていた、と考えるべきであろう。「大東亜共栄圏」という身勝手なイデオロギーが、戦後のこの地域との関係における大きな障害をもたらしたことを改めて認識すると共に、今となってはあたりまえではあるが、こうした外国との関係で、相互の立場を念頭に置いた同じ目線で問題解決を図ることの重要性を、この作品は示してくれたのである。

読了:2015年2月22日