アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
中国は東アジアをどう変えるか
著者:白石隆/ハウ・カロライン 
 日本が5月の連休に入った静かな週末、タイのリゾートでのんびりとした時間を過ごしながら、この中国の東南アジア諸国にもたらす政治、経済、社会的影響について考察した新書を読み進めた。丁度、同時並行的に読んでいる、米国人の書いた同種の単行本と、中国の台頭とそのアジア地域へのインパクトという同じテーマを同じような手法で分析を進めているが、結論には微妙な違いがあると思われる。その意味で、この2冊は、併せて見ていく必要があるが、後者はまだ読了前であることもあり、まずは、この2012年7月に出版された新書の議論を先に見ていくことにしよう。共著者の一人は、言うまでもなく東南アジア研究の専門家であり、私も以前に数多の啓発を受けている人物である。尚、タイトルからは、中国の台頭が「東アジア(日本、韓国、中国等)」に与える影響、と読めるが、著者はこの「東アジア」という言葉を、日本、韓国、中国に「東南アジア」を加えた地域を指す言葉として使用し、主としてそうした「東南アジア」の国々に与える影響と、それらの国々の反応や戦略を議論している。これが、並行して読んでいる単行本と同じ方法論を取っている点である。もちろん、中国が「東南アジア」に与える影響が、日本、韓国等の「東アジア」の現状に波及効果をもたらすということで、広義の「東アジア」にかかわる議論であるという見方もできるが、あくまで直接の分析の対象は、中国と「東南アジア」の関係である。

 著者は、まず第二次大戦後の米国による地域秩序の構想とその変容につき、欧州とアジアを比較しながら議論している。まず戦後当初の課題は、@共産主義の脅威を押さえると共に、ドイツ、日本という戦敗国の経済を再生すると共に、この両国が将来の脅威にならないようにコントロールする、という共通性を持っていたが、具体的な戦略は、欧州においては、「ドイツの欧州化」による「西ヨーロッパ共同体」の形成であったのに対し、アジアにおいては「米国主導の地域的な安全保障システムと日本、米国、東南アジアの三角貿易のシステムを前提として、日本を先頭とする東アジアの雁行型経済発展」を目指すというものであり、そこでは「アジアの共同体」を作るという意図はまったく存在しなかった。そしてもちろんそこでは、欧州におけるソ連と同様、アジアにおいても中国は封じ込めの対象でしかなかった。

 更に冷戦の終結に伴う地域の変容も、欧州とアジアでは異なることになった。即ち、欧州では、「NATOが東方へ拡大し、その枠内でEUがやはり東方に拡大」し、安全保障と経済統合が同じ方向に進むことになったが、アジアでは、中国を始めとする社会主義国の政治体制の変動は起こらず、従って安全保障は引続き中国を排除した形で構想されているのに対し、経済面では「日本と日本以外のアジア(中国、ヴェトナムを含む)と米国からなった三角貿易のシステムは、中国と中国以外のアジア(日本を含む)と米国からなる三角貿易システムに変容していった。」即ち、この時期からアジアにおいては「安全保障システムと経済システムの間に構造的な緊張」が生まれることになり、かつ「この緊張は、中国が台頭すればするほど、ますます高まる」ことになったのである。特に1997−8年のアジア通貨危機を経て、「(米国を排除した)東アジア共同体」という大義名分が浸透すると共に、中国が積極的に地域協力メカニズムに関与するようになる。「国際的孤立を打開し、自国の経済発展に望ましい周辺環境を構築すること」が、この時代の中国の戦略的課題であった。しかし、「台湾問題」と並んで、「東シナ海問題」に関しては、中国は強硬な主張を掲げ、あからさまに「防衛空間の拡大」を目指すことになる。そして、これを巡る交渉では、一貫して「多国間協議を拒否し、あくまで二国間交渉による紛争の処理を主張」している。中国の経済力の高まりにより、ASEAN諸国にとっても中国との経済関係は、自国の経済成長に不可欠なものとなり、また中国もそれを、夫々の国の状況に応じ、最大限利用しようとしてきた。しかし、中国が大国化し、その経済力を基に「東シナ海問題」を始めとする安全保障面での拡大政策を取ることにより、いったんアジア地域から目を離していた米国も、再び安全保障の観点からこの地域に強い関心を注ぐようになる。言わば現在は、そうした過渡期の中で、米国と日本、中国、そしてASEAN諸国が、この安全保障システムと経済システムの緊張に何らかの回答を出そうとあがいている最中であるいうことになる。しかし、夫々の国は夫々の国家利益を最大限に確保しようという行動に出ることから、各国の思惑は一様でも単純でもない。それは「一般的に、関与とヘッジング(あるいは小国の場合には限定的連携)の組み合わせ」となる。著者は、こうして台頭する中国に対するASEAN主要国の個別の対応を説明していくことになる。
 
 まず、タイは、「日本、米国と連携しつつ、中国からできるだけ多くの利益を享受することに尽きる。」インドシナ半島の中心部に位置するタイの経済戦略は、その位置を利用した「タイのハブ化」であり、そのための「バンコクのインフラ整備と産業クラスター形成とFTAの推進」を進めるという戦略を基本とする。そして中国との関係においては、国境問題を有さず、また経済的には「バンコクを中心とする産業集積は東アジアの地域的な生産ネットワークに深く統合されている」ことから、「中国との貿易が拡大しても、その結果として中国に対する経済的依存を懸念する必要はない」という有利な位置にいる。その意味で、タイにとっては「中国の台頭はおおいに歓迎である」ということになる。

 インドネシアの場合は、安全保障面は、公式には「非同盟・中立」であるが、実際には日本や(やや複雑ではあるが)米国との「事実上の同盟関係」を基本に構想されてきた。そして「世界最大の島嶼国家」として、周辺シーレーンの安全確保は極めて重要で、南シナ海の領有権問題では、直接は中国との係争はないものの、中国の密航船を巡り一触即発の事態(2010年)も発生しているという。その中で、ユドヨノ前大統領は、中国の台頭を事実として受け止めながら、「これまで世界的・地域的に形成されてきたルールに代えて、みずから決めたルールを他国に押し付ける」主張は排除しながらも、ASEANの成長も取り込みながら新たな東アジアの地域システムをダイナミックに進化させる「動的均衡」を提唱しているという。

 他方、インドネシアでは、経済面で中国との貿易関係で輸入超過が拡大しつつあり、極めて非対称であることから、中国の台頭を「脅威」と捉える見方が広がっているという。また中国からインドネシアに対する経済協力の規模も拡大しているものの、借款の条件が途中で変更されたり、華人ビジネスとプリブミ・ビジネスの新たな対立を生んだりと、個別の案件ごとに問題が生じるケースも多く、順調な経済関係が築かれている訳ではない、とされている。

 ヴェトナムは、冷戦終了後、それまでのソ連という後ろ盾を失う厳しい環境の中で、外交的には中国と日本(及びそれ通じた米国)との関係を、極めて戦略的にバランスを取りながら強化してきた。「人口、領土、経済力、軍事力等、あらゆる次元における規模と力の圧倒的な非対称性」の下、中国に対しては、日本、米国、そして最近ではインドを「てこ」として牽制する戦略をとらざるを得ない。また陸上国境線については2009年に、中国との間で最終的な決着がなされたが、南シナ海を巡る紛争は激しくなっている。その対応として、自国のある程度の海軍力強化に加え、シンガポールと同様、軍港施設を、必ずしも「同盟国」ではない米国艦隊などにも寄港を認めるという戦略で、中国に対抗しようとしているという。足元は、両国間ではやや小休止状態となっている南シナ海問題であるが、今後紛争が激化するようであれば、こうした米国やインド軍への更なる依存が出てくる可能性もあると思われる。

 ミャンマーは、ASEAN域内では、カンボジア、ラオスと共に中国との結びつきが最も強かった国である。言うまでもなく、1988年から2010年まで、米国による経済制裁から、中国以外でもタイやインドとの経済関係は一定の拡大を遂げるが、「東アジア/世界経済への統合」は行われず、孤立した状況下で中国との絆を深めるしか選択肢がなかったのである。他方で、国民所得の水準に比べ、国民の栄養摂取量はヴェトナム程度を維持し、国内の所得格差も小さいことから、民主化運動も広がらず、軍事政権はそれなりに安定していたという。

 こうして、タン・シュエ軍事政権時代に、中国の支援で中国向け原油・ガスパイプラインや関連するチャウピーの港湾整備などが建設されることになる。しかし、著者は、これらにより、政治経済的にミャンマーが中国の「衛星国」になるのではないか、という議論は否定している。むしろミャンマーは、こうした案件の中国にとっての価値を認識し、これを「えさ」に、低利借款、プラント輸出、武器装備の供与、基地建設などの「実に多くの譲歩」を中国から引き出したと考える。結局、「中国とミャンマーの『戦略的パートナーシップ』は、結局のところ、こうした取引きの総和からなった」だけであり、他方で国際的には孤立しながらも、「ガス輸出で外貨を稼ぎ、その地政学的位置を十分に使って、中国、タイ、インドと経済協力、軍事協力を推進し、一方的に中国に依存しないよう」可能な範囲でまさにバランスをとってきたとみる。

 更に、2011年の民政移管以降は、対米、対日関係の改善を受けて、イラワジ川流域で中国の全面支援で建設中のミッソン・ダムの工事中止を決定し中国を驚愕させるなど、外交面での新たな多元化を進めることになる。しかし、これは決して中国との関係を切り、日米との関係を強めるといったものではなく、むしろ従来からのバランス外交と、そこで取れるものをとっていこうという国家エゴに基づく軌道修正であると著者は考えている。そしてこれらの国々の対中国関係から見えてくる共通性は、中国の影響力が拡大するという現実は受け入れながら、他のカードも使いながら、その影響力の希薄化を目指すという政策である。この面において、著者は、中国の影響力の拡大が、この地域における中国の新たな覇権につながるという懸念については楽観的に見ていると考えられる。

 この個別国の例で既に一部触れられている、中国の影響力拡大の戦略的手段となっている「経済協力」につき、著者は改めて一章を設け整理している。詳細は省略するが、ここでも、いわば中国の「国家社会主義」の国内モデルをベースとした経済協力方式は、「ミャンマー、ラオスのように、その経済が東アジア/世界経済に十分、統合されておらず、また権威主義体制下、国境を越えた政治エリート、ビジネスエリートの安定的な同盟が維持されやすいところでは、中長期的に、国益とはなにかを決めるその判断基準そのものを(中国基準に)変えてしまう可能性がある」ものの、他方で既に「東アジア/世界経済に統合され、中国以外の多国籍企業が多年にわたって活動している、また民主制下、政治エリートの循環がもっとダイナミックにおこっているところ」では、むしろ中国の経済協力のあり方が、この「グローバル基準」に従わざるを得なくなるだろう、とする。この本では時期的に触れられていないが、この議論は、最近の中国による、アジア・インフラ投資銀行(AIIB)構想を巡り、中国の資金力とそれによる「中国スタンダード」の拡大に対する懸念が軋轢をかもしている問題とほぼ同じものであると考えられる。即ち、地域開発のためには、中国の支援は必要であるが、その具体的な形が、中国の新たな覇権拡大をもたらすのか、それとも「グローバル基準」により中国自身の行動様式の変容をもたらすことになるのか、という思惑のせめぎ合いなのである。早々とこの組織への参加を決めた欧州各国は、ビジネス上の「漁夫の利」を目指すと共に、中国を「中からコントロールする」というのが参加の大義名分であり、日米は、それについてまずは懸念を持っていた、ということである。著者の立場は、ここでの欧州各国の考え方に近いと思われる。

 続いて、やや視点を換え、元、民、清という3つの中華帝国の例をとり、歴史的に中国が台頭した際に、この東アジアの秩序にどのような影響を及ぼしたかを説明している。これについては、まずデヴィット・カンなる論者による、中国が台頭した際も、それはその力を「優しく」行使し、「そのヘゲモニーの下、中国の皇帝を頂点とする朝貢システム秩序を構築し維持したことが、東アジア国際秩序の長期的な安定をもたらした」、という議論が紹介される。しかし、確かに常に戦争の歴史であった欧州に比較して、中国の覇権が武力によることはまれではあったが、それは著者によると、あくまで中国にとって地政学的に重要な地域が限られていたということで、例えば朝鮮と雲南は「いかなる勢力が中国を支配する上でも、戦略的要衝を占め」、中国はこの地域への武力行使を躊躇しなかった。またヴェトナムも、何度もこれらの王朝の武力攻撃の対象になってきた。他方で、「中国の歴代王朝にとって、海のアジアの地政学的意義はさらに小さかった」として、海そのものが大きな安全弁となったと考える。そしてここから導かれる、現在の中国の台頭についての著者の結論は、@中国の覇権が拡大しても、政治的、経済的に、この地域で圧倒的なものになることは考えられない、A中国は、引続き「北朝鮮、インドシナ(特にタイとミャンマー)、さらにはパキスタンを経由して、その勢力を日本海、シャム湾、インド洋に伸ばしていくこと」はあるにしろ、「中国が海のアジアの盟主となるとはおよそ考えられない」、B「アングロ・サクソン化」が進んだ東アジアの秩序が「ラディカルに変わり、形式的不平等と序列(ヒエラルキー)を一般原則とする21世紀型朝貢システムが復活するとは考えられない」ということになる。そして最後に、「アングロ・チャイニーズの世界」と題し、特にこの地域に広がる中国人、華人の意識が、時代を経て「ハイブリッド」なものになってきているー伝統的な中国人とは異なる感性や自己認識が生まれていることーも、彼らが単純な中国の覇権を歓迎することにはならないとして、この新書を締めくくるのである。

 もちろん、著者は、最近の中国が「海のアジアにおける力の投射能力を高めて」おり、それが予期しない形での紛争を暴発させる可能性があることについても、十分認識している。しかし、それは、インドシナ半島を中心に繰り広げられる中国と、それぞれの国の国家エゴに基づく思惑及びグローバル基準とのせめぎ合いの一部にしか過ぎない、というのが、著者の大きな見方である。言わば、かつての欧州のように、「ドイツの欧州化か、欧州のドイツ化か」というのと同じような議論である。ドイツの場合は、第二次大戦の完敗を受け、戦後の新たな指導者たちは「ドイツの欧州化」に舵を切ることになった。もちろん足元、移民問題などを巡りそれに対する反動の動きもないことはないが、それが戦後の欧州の安定に繋がったことは間違いない。しかし、中国の現在の指導者が、どこまで「中国のグローバル化」を容認するかは、まだまだ見えない。著者の議論に一定の共感は覚えるにしても、著者ほど中国に対する各種要素による抑制が機能するかどうかは、私にはやや不安に思えるのである。この新書については、まずはこうしたやや中国の台頭についての著者のやや楽観的な見方を確認するに留め、並行して読み進めている別の作品の評で、この議論についての全体観をまとめることにしよう。

読了:2015年5月4日