東南アジアの建国神話
著者:弘末 雅士
一風変わった東南アジア史に関する小冊子で、東南アジアの古代国家建設について残されているいくつかの伝承を紹介、解釈したものである。その伝承と現実に検証された歴史を比較し説明している部分もあるが、それはこの小冊子の主たる課題ではなく、著者によると、この地域は古代から、海洋貿易を通じて多様な人々が往来していたことから、神話を通じて「王都を中心とした普遍的な秩序」と「王国内の独自の地域秩序」が平行して形成されていたことを示すことが目的であるとされている。ただ個人的には、むしろ日本の昔話集のように、その伝承それ自体から、東南アジアの人々の心象風景が浮き彫りとなるのではないか、という関心から読み進めることになった。
既に季節風航海が確立した5世紀頃より、東南アジアでは交易活動が活発になり、メコン川下流領域のオケオ(1−7世紀)、マラッカ海峡のシュリヴィジャヤ王国のパレンバン(7−11世紀)に代表される多くの港市(港町)が形成される。そして15世紀以降はその数も増加し、パサイ(北スマトラ)、マラッカ、アユタヤ、ペグー(下ビルマ)、アチェ(北スマトラ)、ジョホール、パタニ(マレー半島東岸)、リアウ(ビンタン島)、バンテン(西ジャワ)、ドゥマク(東ジャワ)、マカッサル(南スラウェシ)、ブルネイ、ホイアン(中部ベトナム)、そしてヨーロッパ人が拠点としたバタヴィア、マニラなどが繁栄したという。こうした港市都市は、香辛料や鉱物資源を産出するその内陸後背地と一体になった王国秩序を構成することになるが、こうした港市都市のいくつかは、その王国建国の由来を語る王統記を持っている。この小冊子で取り上げられるのは、その中の「パサイ王国物語」、「ムラユ王統記」、「アチェ王統記」(以上はマレー語で記載)、「ジャワ国縁起」、「バンテン王統記」(以上はジャワ語で記載)の5つの伝承である。以降、それぞれの伝承の持つ意味合いを簡単に見ていくことにしよう。
まず「パサイ王国物語」(14世紀半ばに原型ができる)であるが、この北スマトラの港市都市は、南インドから移植された胡椒や金などの産地として14−15世紀には東南アジアでもっとも栄えた町となったという。この都市の伝承では、初代の王が「かぐや姫」を想起させる「竹姫」から誕生すると共に、夢の中でアッラーのお告げを受けイスラームに改宗し、初代スルタンとなったとされる。ここで示されるのは、「竹姫」により、「スマトラ森林世界の動植物の力に与り、内陸部の人びとの支持を得た」こと、そしてイスラームへの改宗により、「メッカや南インド(から往来していた商人)との関係」を示す伝承となっている点である。またこの港市は、当初「サムドラ」と呼ばれていたが、これが転じて「スマトラ」となり、島全体を指すことになったことから、町の名前はパサイと呼ばれることになったというのも、スマトラの歴史上興味深い逸話である。
「ムラユ王統記」は、マラッカ王国の由来を伝える「マレー語の古典文学作品」と言われるが、完成は1612年ということなので、1511年、マラッカがポルトガルの植民地となり、王家がジャホールに移ってから書かれた作品である。その意味では、マラッカの植民地化の影響を受けた伝承ということになるが、ここでは建国者がアレキサンダー大王の血統を持ち、インドの王と海の王の娘の間に生まれた子供の子孫である、というように、イスラームとインド、そして海(自然)が統合された象徴として叙述されているという。またここで注目されるのは、まずパレンバンに王国を建国した後、海峡を渡り、まずビンタン島に、続けて「荒ぶる海を沈め」シンガポールに上陸し町を作ったとされていることで、既に17世紀初めにビンタンとシンガポールが伝承に登場していることである(この「ラッフルズ以前」のシンガポールでの王朝について、近年考古学的な検証が行われてきた、ということについては、別掲「シンガポール謎解き散歩」でも説明されている)。しかしシンガポールがジャワのマジャパヒト王国からの執拗な攻撃を受けたことから、ここを離れマラッカに移ったとされているが、これはシンガポールの地政学的脆弱性として、第二次大戦後もインドネシアからの「コンフロンタシ」の圧力に晒された歴史を想起させる。また「マラッカ王家が地元の人びとを引きつけた原理は、仏教や在地の信仰にもとづくものであり、(中略)イスラームとのあいだにギャップが存在した」が、夢の中でアッラーのお告げを受けイスラームに改宗したというのは、パサイの場合と同じである。更にマラッカは成立当初より北方のシャム(アユタヤ)の脅威に晒されていたことから、明朝の鄭和の遠征を契機に、中国との朝貢関係に入る。この「王統記」では、鄭和には直接触れられていないが、スルタンが中国の王女を嫁に迎えたことや、中国皇帝から贈られた水で病気が治った、といった中国との関係の緊密化が読み取れる逸話が挿入されているという。これは、マラッカは、16世紀初めには、10万人前後の人口を有する大都市となっていたが、後背地をもたず、食糧自給さえままならなかったことから、多面的な外交政策を取ることにより、対外関係を安定的に維持することが極めて重要であったことによる、ということである。
ここで、冒頭には触れられていなかったアユタヤの建国神話として、「シアム王統記」(1640年)が紹介されているが、これは「仏教歴史書の語りと共通」し、当時のタイ人の世界観や王国観を反映しているといわれる。即ち、アユタヤを建国した王は中国からやってきた(中国との関係の重要性)後、マレー半島の各地に都市を建設した後、チャオプラヤー川河口付近で、地中から出てきた仏像を見て仏教に改宗(仏教価値)、そして最後に「聖なる力」により竜を制し、首都アユタヤを建設した(チャオプラヤー川の水を制したこと)ことなどが記載されている。また面白いのは、史実とは異なるが、アンコールワットもアユタヤが建設した、とされていることで、これはアユタヤが「建国後しばしばアンコール王国に攻撃をしかけ、この地に影響力を行使した」ことを物語っている(アンコールに対する支配欲の表現であろう!)。
「アチェ王統記」については短く紹介されているだけであるが、アチェは、16−17世紀前半にかけて、胡椒、金、森林生産物の輸出基地としてオスマン帝国やインド、ポルトガル以外(アチェは反ポルトガルの中心勢力であった)のヨーロッパ商人、中国人商人ら多くの外国人が来訪し栄えたという。そして「王統記」では、アチェの最盛期である17世紀初めに編纂され、ここの王が「アレキサンダー大王の血統を引くマラッカ王国の後継者であり、またオスマン帝国とならぶ世界帝国である」と主張されているという。大昔に観た、「チュナ・ディン」という、アチェのポルトガル支配に対する抵抗運動を描いた映画を思い出しながら、こうした意識が、この反植民地抵抗運動の背景にあったことを改めて考えることになった。
「ジャワ国縁起」は、ポルトガルによるマラッカの占領後の17世紀、イスラム勢力の中心となったジャワ島東・中部で隆盛した「マタラム王国」が編纂したもので、この前身であるドゥマク王国の建国者はマジャパヒト王国最後の王と、その妻の中国人王女の間に生まれたとされる。しかし、彼は父親のマジャパヒトの王がイスラームを受容しないことから、これを滅ぼし、イスラームに基づくドゥマク王国を建国した、ということにされている(地域とイスラムへの帰依という正統化)。そしてこのドゥマク王国は、ジャワ島西部に成立したバンテン王国と共存し、ジャワ島全体を支配するが、バンテン側では「バンテン王統記」が編纂され、そこではその王はドゥマクの国王との縁戚であるとされていた(両国の近い関係)という。
こうして16−17世紀に向けて、こうした建国神話を編纂した各国が、マラッカ王家の血統を引き継いだジョホール王国と共に、この地域で全盛期を迎え、世界の多様な地域からの人々が逗留することになった。それに伴い、「支配者は統合のために世界秩序を模索」することになる。「海域世界におけるイスラームと大陸部における仏教の隆盛はその典型である」と共に、明朝への朝貢という形で「中華の国際秩序も重視」したとされる。また夫々の港市は、その後背地としての内陸農業空間との結節点となり、そうした内陸で発生した王家との関係も、これらの王統記に記載されているという。例えば15−16世紀にスマトラ島ミナンナバウの山間盆地に君臨したパガルユン王家との関係は、「ムラユ王統記」に書かれていると共に、アチェやジョホールでも人々の話しの中で語り継がれていったという。またジャワ島では、前述のとおり「ジャワ国縁起」が編纂され、16世紀後半から17世紀にかけて中部の内陸地にパジャンとマタラムという二つの農業国家が台頭したことが記されている。それによると、特にその後支配地域を拡大したマタラム王家は、マジャパヒトとインドとの血統を持つ「インドとジャワの支配者の系譜と、(中略)イスラームの預言者の系譜とを統合したもの」とされているという。また後年、マタラムが、ジャカルタのオランダ東インド会社と様々な抗争と協力を繰り返す中で、「オランダ人王」との血縁関係も語られることになったというのも、ややご都合主義的な伝承ではあるが、これらのアジアの王国が「地域秩序」と「世界秩序」を媒介する役割を果たしていたことが示されていると思われる。
19世紀に入ると、西欧植民地支配者は、こうした「港市を拠点に内陸部に支配を拡大」させ、「従来の港市・後背地関係を解体し、一元的支配を目指す」ことになるが、これに対して「港市・後背地関係の復活を唱えた抵抗」が各地で発生することになる。言わばこれが各地での「民族主義」に基づく植民地解放運動へとつながっていくことになるが、その背景には、この冊子で語られてきた各国の建国神話があったというのが、著者の理解である。言わば、これらの「神話」が、植民地解放運動を支える深層意識となったという見方である。「国際的な正当性を獲得したナショナリストは、同時にその民族意識を彼らの考える『自然』と関連づけることで、それを永遠化しようとした」のである。こうして近代におけるフィリピンやインドネシアの独立運動が簡単に説明されていくが、それは既に多くの場所で語られてきたので、省略する。しかし、近代合理主義の浸透とともに、そこでは既に「自然」は「神話的」なものではなく、穏やかな「祖国の風景」として語られることになっていった。こうして建国神話は、表立って語られることはなくなったが、「建国神話の核となった自然と人類との関係構築は依然として重要なテーマ」であり続けている。著者は、21世紀の「新たな社会つくりに着手するとき、従来の自然と人間との区分や国家間の垣根をこえた新たな神話が求められよう」として、この小冊子を終えているが、他方で人々の意識の深層に残るこうした土着的な心理は、この地域の今後の展開を見る時に、心の片隅に置いておかなければならないものであることは間違いないと思われる。西欧列強による植民地化以前、この地は世界貿易の基地として繁栄した歴史を持っていたという矜持、しかし他方では、その繁栄を維持するためには複雑な利害関係を調整せざるを得なかったという苦難の歴史。そうした集団心理がこれらの建国神話には散りばめられていると考えることができる。柳田國男ではないが、こうした「伝承」の民俗学的分析をすると、まだまだいろいろな議論ができそうな気がする。
読了:2015年5月17日