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アジア読書日記
アジア全般
マンダラ国家から国民国家へ              
著者:早瀬 晋三 
 2012年6月刊行、「東南アジア史の中の第一次大戦」との副題がついた、東南アジア史における、第一次大戦の影響について論じた作品である。京都大学人文科学研究所での「第一次大戦の総合的研究に向けて」という研究プロジェクトの一環としてまとめられた。著者は、1955年生まれということなので、私と同年代の東南アジア研究者である。

 確かに、東南アジア史では、第二次大戦時の、日本の占領から解放、そして戦後の独立に向けての動き等については多くが語られてきたが、第一次大戦について語られた作品にはほとんど接したことがない。それは主として、第二次大戦が、日本の侵略という形で、東南アジアが直接戦争の舞台になったのに対し、第一次大戦は主要な戦闘が欧州で行われ、東南アジア、あるいはアジアはその間接的な影響があったに過ぎなかったことによる。しかし、著者によると、実はこの第一次大戦は東南アジアにも多くの衝撃をもたらすことになり、特にこの大戦を境に東南アジア諸国では、それまでの「アジア型のマンダラ国家意識」が「国民国家的な意識」に転換すると共に、表面的な西欧列強による植民地支配には変化がなかったものの、貿易構造を含めたこの地域への列強の影響力に変化が生じ、それがその後の第二次大戦後の独立運動等に連なっていったとされるのである。以下、その議論を見ていこう。

 記載は、時間軸と、植民地支配国による地域軸という二つでまとめられている。時間軸としては、第一次大戦前と戦中、そして戦後の3つの時期を通じての変化が説明される。また地域としては、「イギリスとフランスの緩衝地帯」として形式的な独立を維持したシャム(タイ)、フランス領インドシナ、イギリス領マラヤ、イギリス領ビルマ、オランダ領東インド、そしてアメリカ領フィリピンという6地域である。まずは、大戦前のそれぞれの地域の特徴と(シャムを除く)植民地化の経緯が説明される。

(第一次大戦まで)

 まずシャムであるが、既に19世紀半ばからラーマ4世(「王様と私」)やラーマ5世の国王親政による強力なリーダーシップの下に、チェンマイなどの大小の王国を属国化し、近代化、中央集権化を推進することになる。他方で、東部の属国をフランスに、西部の属国をイギリスに割譲しつつ、この両国を互いに牽制させ、またロシアや日本に接近し調停を依頼することで、最終的に1904年の英仏協商で互いの勢力圏を承認させ、独立を維持する。第二次大戦時の振舞いも含め、タイの狡猾な外交手腕がここでも示されているというのが、私の印象である。

 これに対し、例えばヴェトナムでは、19世紀初めに誕生したグエン朝が、「清の行政システムにならった集権的官僚制国家の形成を進めた」ものの、各地に存在する大土地所有の地主がこの流れに抵抗するなど、「性格の異なる地域、民族が存在し、政治的にも経済的にも統制がとれなかった」ことで、容易にフランスの侵入を許すことになった、とされる。1887年にコーチシナ(南部ヴェトナム)、カンボジア、トンキン(北部ヴェトナム)、アンナン(中部ヴェトナム)からなるフランス領インドシナが完成し、また99年にラオス、1900年に清国からの広州湾の租借地が加わる。またカンボジアは、ヴェトナムとシャムの干渉からの解放を期待し、1863年にフランスの保護国となり、またラオスは、シャムの属国であったが、1893年フランスが軍事力でシャムから支配権を奪うことになる。但しラオスの場合は民族的、言語的に細分されていたことから、主としてヴェトナム人による間接支配が行われていたことはよく知られているとおりである。

 ビルマの植民地化は、18世紀半ばに成立したコンバウン朝のもとで拡大した綿花栽培・貿易の拡大が、インドの植民地化を進める英国の利益と衝突し、19世紀の3回の英国との戦争を経て、1885年の王朝崩壊と、その後の段階的な英国による植民地化をもたらしたというのが、著者の認識である。そして植民地化後は、同じ英国の植民地であるインドとの関係(インド人労働者の流入や、ビルマ人エリートのインドへの渡航など)が強化されると共に、ビルマ人中心の地域(「管区ビルマ」)が英国の直接支配を受けたのに対し、周辺山岳部のシャン人、カチン人、チン人などは「イギリスの主権を認めさせたうえ」で夫々の藩王たちによる間接支配を行い、且つそれぞれを対立させる政策が採られることになる。これが現代にも連なるビルマの少数民族問題となっていくことは言うまでもない。

 マレー半島では、分立するいくつもの小王国が、錫鉱山等に導入された中国人労働者の秘密結社が絡んだ内紛が絶えず、これを利用する形でイギリスが支配力を強化することになる。こうしてまずペラ、スランゴルなど4州が、シンガポールなどの「直轄植民地である海峡植民地」と共にイギリス領マラヤに組み込まれ、その後20世紀初めに向けて、ジョホール、クランタンなども加わっていく。またボルネオ島のサラワク、サバ、ブルネイは1888年にイギリスの保護領となる。そして英国の支配下で、錫の生産や胡椒などの農産物、また20世紀には入ってからはゴムの生産などが飛躍的に増加するが、これに伴い中国人労働者の人口が急増したことが、この地域におけるムラユ(マレー)人と中国人の関係を一層難しいものにしていく。中国人の経済的な支配力が強化される中で、ムラユ人はイスラームによる結束を目指すことになるが、ムラユ人の多くが世俗教育に懐疑的であったことや、エリート養成の英語学校でのムラユ人の比率も中国人やインド人に比較し圧倒的に少なかったことで、ムラユ人エリートの育成は遅れることになった。

 次はオランダ領東インド(インドネシア)である。この地域でもっとも早く植民地化を行い、香料貿易などで膨大な利益を得たオランダは、当初はジャワ島やマルク(モルッカ)諸島などの一部の地域以外の領土的な拡張意欲を持たなかったが、19世紀半ば以降、従来からの利益の減少に伴う財政の悪化を埋め合わせるために、この地域での領土拡張に向かうことになり、1910年台までに現在のインドネシア共和国の原型となる地域がオランダの支配下に入る。因みにこの過程で最も激しい抵抗を行ったのがアチェで、この戦い(アチェ戦争)は、1912年に収束するまで約40年間続くことになる。そして、オランダは、域内の行政制度の整備という形で村落支配を強化し、中央集権的な体制を整えることになったという。他方、こうした動きは20世紀に入ると「近代的に組織化された民族運動」を推進することになり、「エリート中心で大衆的な基盤」を欠いていたとはいえ、「民族的な自覚を促す貢献をした」と評価されている。B.アンダーソン的に言うと、こうして「想像の共同体」が形成されていった、ということである。

 最後は、アメリカ領フィリピンである。1571年のスペインによる植民地化は、カトリック化と一体となり進められ、1834年、マニラが正式に国際貿易港として開港されると、急速にアメリカ大陸と中国、更にはイギリスやそのアジアでの植民地との貿易が拡大する。輸出向け商品作物栽培の発展が、大規模プランテーション経営を促し、中国系メスティーソを始めとする富裕層も誕生することになる。そしてこうした富裕層の子弟がスペインを始めとするヨーロッパで高等教育を受ける機会も増え、自由主義思想に触れた彼らが国内での改革運動を目指すことになる。1898年のスペインからアメリカへの支配権の譲渡の後、米比戦争が勃発し、断続的に1910年代まで続く。同時に、米国による“アメ”として、自治権の拡大や将来の独立などが示唆されると共に、「エリート層の地方での社会的地位を保証し、革命勢力から離脱させて治安の回復」が図れることになる。ただ経済的には「極端にアメリカに依存するモノカルチャー経済の下で、輸出用農業を支配する地主階級が、フィリピン自治のあらゆる局面で権力を発揮するようになった」という。

 以上の状況下で、第一次大戦が勃発する。それは前記のとおり、この地域を直接戦場とすることはなかったとはいえ、植民地宗主国の動向を中心に、大きな歴史的転換をもたらすことになる。

(第一次大戦)

 まず唯一の独立国であるシャムは、戦争の勃発に当たっても、その狡猾な対応を行う。即ち、国内におけるドイツ製品の高い評価やお抱えドイツ人技術者が少なからずいたこともあり、まずは中立宣言を行い、ドイツと英国(連合国)の双方に便宜を提供するものの、アメリカの参戦により戦況が連合国側に有利と見ると、1917年4月、ドイツーオーストリア側に宣戦布告し、実際の戦闘には参加しなかったとはいえ、義勇軍も組織する。そして「戦勝国の一員として、20年に設立された国際連盟の原加盟国の一員」となるのである。このあたりは、第二次大戦後の動きと瓜二つで、この国の外交政策を如実に反映している。ただ戦後は、主要産品である米の価額が乱高下したことで、国内的な需給管理も危機に陥ったほか、ロシア革命において、親交のあったニコライ2世の一家が銃殺されたことで、王制の将来について深刻な危機感を抱くことになったという。

 フランス領インドシナからは、戦争の勃発と共に、「王族から官吏、移民労働者、農民」などを含め、5万人近い兵士や、同数の労働者が欧州に向かい、戦闘に参加したり、労働運動に目覚めたり、あるいは社交クラブで楽しみフランス人と結婚するなど、様々な経験をすることになったという。言わば、インドシナ人がフランス文化に触れる機会が急増すると共に、「先進国フランス」の幻想に気がつくことにもなったというのが面白い(「フランス人は臆病」)。また宗主国フランスの側でも、植民地政策における現地官僚の登用などの改革が行われると共に、本国でも元植民地官僚たちによるインドシナ関係の記念施設などが建立された。ただ、一方で1915年のラオスや1916年のサイゴンやカンボジアでの反乱など、植民地支配者よる人的物的搾取に対する反抗運動も発生しつつあったことも注目される。

 イギリス領ビルマからも、同様に兵士や労働者がヨーロッパやイラクに送られることになるが、同じ英国の植民地であったインドと同様(但し120万人を超える兵士・労働者を送り出し、多大な犠牲を出したインドほどではない、12000人程度の規模であった)、それは戦後の独立を期待しての動きであった。しかし、イギリスはここでも民族分断的な政策をとったことから、チン族の反乱なども惹起したという。更に戦時中から、イギリスが導入した近代的教育制度の下で育った人々の中で民族主義的意識が高まることになる。こうしたナショナリズムに繋がる主張は、主としてYMBA(仏教青年会)を通じて盛り上がり、大戦中の1917年には「インド帝国からの分離と自治領化を視野に入れた要求を、インド担当大臣に申し入れたが、結局19年にインド本土に導入された制度は、ビルマに適用されなかった。」そして戦後は、この運動は路線対立から分裂して力を弱めることになったという。

 イギリス領マラヤでは、住民の戦争参加は限られていたが、ドイツの神出鬼没の軽巡洋艦エムデン号が、ペナンに侵入したり、シンガポールでインド兵が反乱を起こしたことが、戦時中の事件として特筆される。特に、後者は、イスラームのムラヤ人と共に、イスラームのオスマン帝国と戦うことを好まなかった植民地住民が各地で企てた反乱の最も大規模なものであったという。また貿易港として機能していたシンガポールへの打撃は大きく、欧州からの商品供給が途絶えたために、貿易対象が日本、アメリカ、オーストラリアにシフトした、というのも、あまりシンガポールの歴史では語られない事柄である。

 オランダ領東インド(インドネシア)では、宗主国オランダが大戦には中立を宣言したことから、直接の戦争参加はなかったものの、マラヤと同様、イスラーム教徒が多いことから新ドイツ反イギリス的傾向が強かった。そして戦前からの民族的意識の高まりから、大戦中にはイスラーム理想郷を待望する運動や反乱が発生し、大戦末期には労働運動や社会主義者の運動が、イスラームと連動する動きも出ることになるが、この時点では弾圧され大きな流れとなることはなかった。また宗主国側では、勢力を強める日本への懸念もあり、統治制度や教育制度の改革が行われ、限定的なものであったが、「国民国家形成への第一歩」とはなったという。他方、戦争の影響による物価上昇や食料不足による国民生活の窮乏化は著しく、スペイン風邪の流向とも相まって1918年をピークに多くの死者を出したという。

 アメリカ領フィリピンは、アメリカの参戦と共に、「将来の独立」を期待してアメリカによる徴兵に応じ、フィリピン人部隊がアメリカの戦闘訓練を受けることになるが、実際の戦闘参加はなかったという。経済面でも他の東南アジア諸国ほどの影響はなく、大戦を機会にシンガポールやほんこんといったイギリス貿易市場圏を通じた輸出入が減少し、アメリカ貿易市場圏への移行が進むことになる。

 大戦の影響は東南アジアのそれぞれの「国・地域によって具体的な影響はまちまちであったが、植民地支配を利用して、新たな国づくりに着手する機会」を与えることになる。またこの大戦をきっかけとした「日本の南進」の影響は大きく、特に海域部では日本との輸出入貿易と日本からの投資が急増することになったが、他方では大陸部では「日本人の経済活動にたいする排他的政策と高関税」により限定的であったという。

(第一次大戦後)

 こうして大戦後の民族運動と国民国家形成に移行していくことになる。特にソヴィエト政権の成立により、「これまでの民族運動に、新たに共産主義・社会主義の影響が加わったことで、より世界的、イデオロギー的要素を帯びて、反帝国主義、反植民地主義の武装闘争が展開される」ことになる。

 この中でまずシャムでは、ロシアでの王制廃止に危機感を抱いたラーマ6世が、「その後も乱費により国家財政を圧迫」するなど失政を続け経済危機が発生。その中で1932年に人民党に主導された立憲革命が発生し、国王もこれに応じることになる。今日に至る立憲君主制が確立し、1939年には国名をタイに改める。しかし「視野の狭い学校教育制度」もあり、「主役となる国民は、なかなか育たず」、その後のタイでは、立憲民主主義と、共産党の勢力拡大を危惧する軍部によるクーデターによる「民主主義」否定が繰り返され、それが要因を変えながらも現代まで続くことになる。言わばタイ政治の原型が第一次大戦後に形成されたということになる。

 フランス領インドシナでは、大戦後「宗主国フランスの威信は低下」したものの、「大戦前までフランスの海外投資の23%を占めていたロシアの市場が崩壊した」こともあり、インドシナへの投資が拡大し、経済的にはフランスの影響力が高まることになる。また教育制度面でも戦後、フランス型教育制度が導入されたが、これにより「欧化した知識人層」が形成され、それに「中国の改革運動と国際共産主義運動」が絡んでいく。言うまでもなくこれはフランス共産党に入党したグエン・アイ・クオック(ホーチミン)指導による解放運動として第二次大戦後まで、様々な過程を経て続いていくことになる。またカンボジアでは、戦後の経済復興の過程で、フランスに加え、ヴェトナム人や中国人の影響力が益々強まり、それがカンボジアのナショナリズムの覚醒を促すことになる。またラオスでもこの支配構造は同じであったが、ナショナリズムの覚醒には、第二次大戦後まで待たざるを得なかったという。

 イギリス領ビルマでは、大戦後、ナショナリズムの主体が、仏教団体であるYMBAから、より広い戦力を糾合する「ビルマ人団体総評議会GCBA」に移行し、インドでの戦略―イギリス製品不買運動や納税拒否運動等―を利用した「自治」獲得を目指したが、内部対立と米作農民を取り巻く環境悪化による大規模反乱などを経て失速、より強く独立を志向する「われらのビルマ教会=タキン党」に取って代わられる。このタキン党から、第二次大戦前後にアウンサンが台頭し、戦後の独立に向かうことになる。ただ、カレン族などの少数民族問題は、イギリスの分断政策もあり、その後現在に至るまでこの国の統合を妨げることになるのは周知のとおりである。

 イギリス領マラヤでも、第一次大戦後には輸出入貿易におけるイギリスの比重が低下し、替りにアメリカやオランダ領東インドの比率が上昇する。また民族意識という観点では、中華系においては中国共産党の影響下でのマラヤ共産党の結成(1930年)といった動きもあるが、全体としては「マラヤを仮住まいとする意識の強い華僑から、マラヤを永住地として意識する中華系住民」という意識が強まることになる。またこの中国人の意識覚醒を受け、ムラユ人の中にも「マラヤを生活の場とし、植民地支配から脱して、新たな社会を建設しよう」という機運も高まっていった。ただこうした人種意識は、その後の日本による占領と民族分断政策を受けて、第二次大戦後も統一的な運動を形成する上で、大きなしこりを残すことになる。

 オランダ領東インドでも大戦後の貿易では、同様にイギリス、オタンダからアメリカ、日本へのシフトが発生。また民族運動では、当初はイスラーム同盟や労働組合に指導されたナショナリズム政党が、続けて共産党が勢力を拡大するが、双方とも弾圧され、その後はオランダ留学帰りのエリートたちが担っていくことになる。但し、その中から頭角を現し、第二次大戦後にこの国を独立に導いていったのは、国内でオランダ語教育を受けたジャワ人小学校教師の子供であるスカルノであった。

 最後にフィリピンであるが、この国は第一次大戦により、「まったくアメリカに依存する」状態となった。独立を期待して大戦でアメリカに協力したにもかかわらず、戦後それは反故にされた。その要因は、米国側での共和党政権によるフィリピン独立への反対に加え、「フィリピン議会の構成員の大部分を占めた地主階級が、アメリカとの自由貿易による最大の受益者で、独立によってその特権を失うことを恐れた」ことがあったという。しかしその後、今度は1929年からの大不況の中で、アメリカの農業団体、労働団体などが、フィリピンからの農産物の免税輸入や低賃金労働者の流入を防ぐためにフィリピン独立を求める政治運動を開始し、その結果1933年の民主党の政権復帰もあり、「10年間の独立準備期間を経て独立を認めるフィリピン独立法が制定」されることになる。その後、「国家の自立よりも、植民地支配下での利益を優先する」地主階級の「遵法闘争」が続く中、第二次大戦下での日本占領を経て1946年に独立するが、フィリピンは、その後もアメリカによる財源援助も含め、益々米国への依存を深めていくことになる。こうした米国への全面的依存という意識が、国内での反政府運動の長期化といった問題もあり、東南アジアの他の中心国との比較でこの国の成長を阻害する要因となったことは疑いない。

 このように、第一次大戦後、「東南アジア各国・地域で近代学校教育が普及し、植民地行政に必要な人材が育」ち、「民主的な国家像が具体的にイメージ」されることになった。しかし、「植民地支配を受けた本国の言語や制度がまちまちであったこと」から、これらの動きは「植民地支配を受けた領域」を越えることはなく、東南アジア全体としてまとまった動きとなることはなかった、というのが、この本での一つの結論である。また経済的には第一次大戦により、この地域の特産品の戦略的な商品性が認識され、「経済ナショナリズム」が意識されると共に、それまでの宗主国依存の貿易構造が、新たな覇権国家となる米国や(第二次大戦までは)日本を中心としたものに移行していったというのが第二の結論である。そしてこの大戦を契機にして、全体としての近代化を成し遂げた国とそれに失敗する国に二分されることになる。言わば、東南アジア諸国が「マンダラ国家」から「国民国家」への移行を試されたのが第一次大戦であった、というのが、この本の最終的な結論となるのである。最後に、補論的に欧州やアジア各国の歴史教科書で第一次大戦がどのように描かれているかをまとめた小論があるが、これは省略する。

 第一次大戦が、欧州列強から米国へと覇権が移行する契機となったというのは周知の通りであるが、アジアにおいてもそれは例外ではなかった。ただ政治的な覇権ということでは、フィリピンを除き、米国のこの地域への影響力は直ちに現れた訳ではなく、経済面での浸透により徐々に進められたというのが実際の姿であるように思える。そして同時に欧州植民地支配のほころびを利用して、この大戦を経て新たなアジアの勢力となった日本が、この地域への積極的な関与を深めた、というのも良く知られているとおりである。その意味では、この本での最も重要な論点は、この大戦による欧州宗主国による植民地住民の戦争動員により、これらの人々が欧州宗主国をより客観的に認識すると共に、その認識を通じ、国民国家としての自国をより鮮明に意識することになったという点なのではないだろうか?言わば、従来は、王族を中心とした権力が及ぶ範囲がその支配権であったこれらの国の中で、植民地支配を通じてその地理的な空間が明確に意識され、それを国民国家として「想像」していく国民意識が育つ契機となったのが第一次大戦であった、ということになる。もちろんそれが実際の独立として実現するまでには、更に30年前後の時間を要することになり、その間には日本による占領という大きな試練を乗り越える必要もあった。しかし、欧州全体を巻き込んだ戦争は、アジアにおけるその植民地の住民たちが「世界」を認識する機会となり、その後の独立に向けての大きな里程標となったことは確かである。

読了:2015年6月6日