東方見聞録
著者:マルコ・ポーロ
大昔から一度は読んでおきたいと思っていた、そして東南アジアに暮らし始めてからは、益々関心が強まった古典である。前回の一時帰国の際に、ようやく大規模書店で見つけ購入し、今回読了した。
しかし、購入に際してもいろいろな版があり、どれを選択してよいか迷ったが、結局2012年4月出版と、最も新しい月村辰雄、久保田勝一訳の岩波書店版を選択した(但し、この翻訳も2002年に刊行されたものに若干の加筆訂正が行われたものであった)。いろいろな版があるのは、そもそもこの作品のオリジナル自体が、この翻訳が依拠した「中世フランス語版」以外にも、イタリア語(トスカナ方言やヴェネツィア方言)版、ラテン語版などいくつか存在し、「マルコ・ポーロ学者」たちが、どれがオリジナルであり、どれが翻訳版であるか、長く議論してきたからであるという。そして現在は、この中世フランス語版がオリジナルであったというのが通説になっているとのこと。1298年(「おそらく」)、ジェノヴァの牢獄に収監されていたマルコ・ポーロが、彼の冒険談を、同じ牢獄に捕えられていたピサのルスティケッロという著作家に語り、後者が書き記したのがこの作品である。「ジェノヴァの監獄で出会ったヴェネツィア人とピサ人が、なぜフランス語で書物を記すのか」という問いに対して、通説は、当時の北イタリアでは、「フランス語はラテン語と並ぶ著述用の言語だった」からであるとしている。しかし、こうした議論は専門家に任せて、早速マルコの冒険記に入っていこう。
1271年、17歳の青年マルコ・ポーロは、父ニコロと叔父マフェオに伴われ東方に旅立つ。父と叔父は既に60年代に、商取引でクビライ・カーン(大カーン)の宮廷まで旅しており、そこで大カーンの信頼を得てローマ教皇への使者として一旦帰国。そして再びカンバルク(北京)へ戻る旅にマルコを同行したのであった。そしてマルコによるその旅での見聞が、伝聞の形で記載されていくことになる。ここでは、中国や東南アジアを中心に、そのうちの興味深いもののみ、簡単に整理しておこう。彼の行程は、往路が現在のトルコからイラン高原、アフガニスタン、パミール高原を越えて陸路で中国に向かうルート。復路は海路を中心に、シンガポール周辺(但し、シンガポールは登場せず、替りにビンタンが簡単に紹介される)等も経由しながらインドシナ半島を回り、インドから欧州へ戻る大旅行である。解説で書かれているとおり、クビライの大帝国が安定し、「いくつかの好条件の重なり合った絶好の時代」に行われた旅であったとは言え、やはりこの行程を、当時の装備で遂行することは想像を絶するものである。そしてそこでの「見聞」も、いろいろな脚色は当然あると思われるが、この13世紀後半の「広域アジア」の状況を知る上で、たいへん興味深い。
まずは、「おそらく」1260年、ニコロとマフェオの兄弟による最初の旅が語られる。トルコから中央アジアのブハラに到着し、それから先に進めず3年この町に滞在していたところ、偶然大カーンの下に向かう使節に遭遇し、彼らと共に北京に向かうことになったという。北京で、大カーンに謁見し、ローマ教皇につき説明したところ、大カーンの使者として送り返されることになり、1269年ローマに戻る。しかし、ヴェネツィアでは、ニコロの妻が死んで15歳になるマルコを残していることを知ることになり、そして2年後、再びマルコを伴い、東方への旅に出る。3年6か月を要した旅を経て、3人は再び大カーンに謁見するが、そこで特に少年マルコは大カーンの寵愛を受け、17年の間北京に留まり、さまざまな国に使節として送られ、見聞を広める。しかし、最後はある使節の帰国に同行する形で、大カーンの許しを得て、海路帰国の途に就くのである。これがこの本が書かれた大旅行の背景である。こうして各種の見聞が語られていくことになる。
具体的な記述は中央アジアのアルメニアから始まり、バクダット、ペルシア、サマルカンド、カシュミール、チベットなどを経て、今の中国の地域に入る。各地域での風俗に加えて、「タタールの王国」の創始者チンギス・カーンの戦歴や彼らタタール人の生活習慣、信仰についての説明なども挿入されている。至るところで、「ここは偶像崇拝者の町」といった表現が多いのが目につくが、これはモスレム圏を経由してきた後に、自分たちキリスト教徒と同じ「偶像崇拝者」を見つけたことの安堵感からの言葉なのだろうか?そして、北京(カンバルク)に到着すると、大カーンが建築した宮殿を始めとするその壮大な町やそこでの大カーンの生活、更には彼の統治方法等が詳細に語られることになる。ここで面白いのは、この支配地域で、既にこの時代に、本では「証書」と訳されているが、一種の紙幣が流通していたことが記載されている。これは、金貨、銀貨による決済で生じる不便を、信用で代替させていたということになり、おそらくは史上最初の紙幣であったのではないだろうか。またカンバルクから地方に伸びる街道が何本も整備され、その両側には大きな樹木が植えられ、旅人は道に迷うこともなく、また旅の慰めにもなっていた、ということである。言わば、この王国では、道路というインフラも意識的に整備されていたことが語られているのである。
次にマルコは南に進み、盧溝橋や黄河を越え、成都で長江を渡り、再びチベットに入っていく。この見聞禄の中では女性に関する風俗の説明がいたるところに記載されているのは、男の性なのだろうが、チベットの女性が旅人により性的に鍛えられ、その経験が多いほどより求婚者が増える、と書かれているのは、やや西洋人向けの、週刊誌的ゴシップという感じもする。またビルマについての見聞も書かれているが、特にパガンの金箔で覆われた塔の話が記載されている。既に13世紀、パガンは首都として栄えていた訳であるが、ここも大カーンの支配地となっていたことが示されている。
そしてマルコの旅は、中国南部を抜け東南アジア地域に入っていく。まずは雲南省からヴェトナム・ラオス北部。大カーンに服属しているが、この地域の王は300人の妻を持っているという話やこの地域で大量の金が産出され、商取引も活発であるとされる。なぜか再び中国域内に戻り、杭州や蘇州等の様子も語られるが、特に杭州(キンセー)が、美しい宮殿や1万の塔を備えたいへん繁栄しており、大カーンもこの町から膨大な収入を得ている、とされている。そして「次はインドについて語ろう」ということで、かの有名な「ジパングの島」が紹介されることになる。
ジパングについてはあくまで伝聞であるが、まず「彼らは限りなく金を所有している」、という有名なくだり。ただ、今までこの本ではいくつも「金を産出する」地域のことが語られているので、ジパングも、その一つにすぎない、というのが正直な印象である。また「赤い鶏がたくさんいて、すこぶる美味である」というのは、ただのニワトリの話なのだろうか?そして元寇についての説明。強い北風に煽られ、大カーンの軍隊は、一部が逃げ帰り、一部は小さな島に避難。逃げ帰った将軍は斬首され、後者は、捜索に来た日本の船を乗っ取り、再び本土に侵攻し、城を占拠したが、最後は降伏した、とされている。細部は歴史的事実として確認されているとは思えないが、少なくとも日本への侵略が失敗したことは大カーンの宮廷内では知られていたことが確認できる。
次は「小インド」。著者は泉州の港を出て、1295年、チャンバ(ベトナム中部)を訪れたとされる。チャンバ服属の経緯や、王の暮らし等が語られる。そしてジャヴァ。既にこの時代から黒胡椒が主要な取引商品であったことが分かる。ただ大カーンでさえ「この島が僻遠の地にあり航海には多額の費用がかかるために、とうとう征服することができなかった」とあり、大カーンの権力は現在のインドネシアには及んでいなかったことが分かる。またやはり金を産出し豊かなタイ南部も、大カーンの力は及んでいなかったとされている。
ここで何とビンタン島が紹介されている。但し「未開の島で、生えている樹木はみな香木である」というだけの紹介である。何故「未開」のビンタンであり、最近の研究で、当時既に貿易拠点として一定の規模になっていたと言われるシンガポールではないのかは分からない。あるいは、やはり13世紀のシンガポールも「ただの未開の島」に過ぎなかったのだろうか?マラッカについては、「王がおり、住民は独自の言葉を話す。」「町は有名で、商取引が盛ん」と語られている。続いて「8つの王国」があるスマトラ。「サラセン人によりマホメットの教えに改宗させられた」とされるが、マルコは、この地域で、天候不順のため5か月留まることになる。「住民が野獣のように暮らしている」アンダマン諸島を経て、「この世でもっともすぐれた壮麗な島」である「セイラン島」へ。なぜ「壮麗」か、といえば、ここでは「他のどの地方でも見つからないルビーを産する」からである。またこの地の地場信仰についても詳しく紹介されている。
こうしてマルコは、長い船旅を終え、インドに東岸南部の「マアバール」と呼ばれる地域に上陸。真珠採取や、馬取引の話が紹介される。またそこから北へ1000マイル行った「ムトフィリ王国」ではダイヤモンドが産出され、その面白い採取法が紹介されている。言わば、ダイヤモンドの原産地としてのインドの原風景なのであろう。その他インドの王国と町が語られるが、私が知っている地域は、「海賊の町」とされるグジャラートくらいである。その後マルコは更に足をアフリカ東岸まで伸ばし、マダガスカルやザンジバルについて語っているが、これは省略する。そして彼は、アラビア半島のアデン、オマーン、ホルムスに触れた後、「大トルコ」のトルキスタンの王国の王や、怪力を有した王女の話で、この冒険談を締めくくることになる。
内容については、マルコやルスティケッロによる誇張や創作等が多く含まれていることは疑いないが、当時これだけの旅を行い、その経験を記録に残すということは、何をおいても素晴らしい。そしてそれが、中世ヨーロッパで、この本でも挿入されている多くの豪華な図版と併せて、多くの言語で出版され、貴族を中心に貴重な作品としてもてはやされた主要な理由であろう。未知のオリエントに対する欧州人の関心と、この本に記載されている、この地域の豊かな資源への渇望が、その後の航海術の発達とも相まって、欧州列強によるこの地域の植民地化を促すことになるが、言わばこの作品はそうした歴史の原点にある作品なのである。また思想的に言えば、サイードが「オリエンタリズム」と名付けた発想の原点に位置する作品ということもできよう。そう考えると、突拍子のない内容については、単に週刊誌的に、人々の関心を惹起するために創作されたと考えれば十分で、それが、この13世紀に行われたマルコの大旅行の歴史的な意義を弱めることにはならないと言える。当初期待した東南アジアの原風景については、多くを得ることはできなかったが、他方で、遥かな過去の先人の功績の偉大さに改めて思いを馳せることになったのであった。
読了:2015年7月11日