海洋アジアVS. 大陸アジア
著者:白石 隆
2014年5月から11月にかけて著者が行った4回の講演に加筆訂正した著作で、事実関係の更新は2015年8月末となっている。同じ著者の作品(もう一名との共著)としては、昨年読んだ「中国は東アジアをどう変えるか」の議論と基本的な視座は同じで、この新書と至る所に重複が見られる。但し、こちらのほうが、より広い世界的・歴史的文脈の中で議論を展開していることで、著者が新書の議論を発展させようと試みた意気込みは感じることができる。しかし、個別の国ごとの分析については、その後のこの地域での動きが急速であることから、特に現状分析については著者も意識しているとおり、次々に鮮度が落ちてしまうのは避けられない。この点を踏まえながら、新書版での議論も念頭に、著者の論点を見ていくことにしよう。
著者は最初の講演で、まず新興国の台頭によるグローバル・ガバナンスの変容、特にアジアにおける中国の台頭から議論を開始するが、これはごく一般的な認識である。一点、注意すべき論点としては、自由貿易体制という、米国のシステムに「ただ乗り」して成長を遂げてきた中国は、2020年代に入ると急速に少子高齢化が進むことから、現在が「富国強軍」の(最後の)チャンスであり、「この戦略的好機のうちに、とれるものはとっておこう」という誘惑に駆られる可能性が高いという認識と、それ故に「これから10年は世界的にも、東アジアでも非常に難しい時期となる」という著者の認識である。言わばこれから10年が、この地域のパワーバランスの変化がどのような帰結をもたらすかの重要な過渡期となる、という見方である。またこれは新書でも指摘されていたが、「(アジアでは)中国の入っていない地域的な安全保障システムの上に、中国を一つのハブとする地域的な通商システムが成立している」というのが、この地域の最大の不安定要因である、という議論には改めて留意しておこう。
その上で、著者は、「情報通信革命、金融のグローバル化、国際的な価値連鎖の成立と発展、国境を超えた人の移動」等が、アジアにもたらす変化とリスク(一国内での格差の拡大や短期的な資金移動等)について説明しているが、これもごく一般的な視座である。そして、「経済成長」と「再分配」のバランスがとることが、「中進国の罠」から逃れる唯一の方法であると、これも一般的な議論を紹介して、この最初の講演を終えている。
第二講演は、アジア地域の大きな地政学的な枠組みとそのダイナミックスがテーマであるが、これは前述の「中国の入っていない地域的な安全保障システムの上に、中国を一つのハブとする地域的な通商システムが成立している」という捩れにどう対応していくかという著者が繰り返し指摘してきている議論である。そこではまず米国オバマ政権の「リバランシング」政策(大西洋から太平洋への軍事力シフト)と(太平洋地域への)「ヴィボット(軸足)」戦略と、その下で、対中国での「関与とヘッジング」戦略が説明されている。他方、世界経済がリーマンショックから立ち直る過程で自信をつけた中国は、これに対し「カウンターリバランシング」政策、即ち「これまで世界秩序の骨格をなしてきたアメリカを中心とする大西洋同盟(中略)、アジア太平洋同盟(中略)に対抗するかたちでユーラシア連合を構築し、その一環として、東アジアでは、朝鮮半島、大陸部東南アジアの緩衝地帯化を推進し、できれば自らの勢力圏に組み込もう」とすることになる。そして、例えば、中国の南シナ海の領有権問題に対する姿勢は、2012年を境に大きく変わるなど、「ベトナム、フィリピンなどが、この問題でASEANを『てこ』として使えないように分断」した上で、高圧的な政策に転換した、と見ている。
こうした米国と中国のアジアでの対峙は、誰もが認める現実であるが、問題は、この戦いをどう評価し、展望するかということである。著者は、中国が必要以上に大国意識をむき出しにしてきたことで、地域の中での中国脅威論を刺激し、その結果、中国国内での政治ダイナミックスにも大きな負荷がかかっている(「中国の夢」の国民に対する説得力への疑問等)と指摘し、中国の地域での覇権の拡大をやや楽観的に見ているように思える。ただ、中国の国内要因での緊張が高まれば、当然指導者たちは、それを対外的な緊張に添加させようとするのは世の常で、それ故に、中国の混乱が地域の混乱を呼ぶリスクは、むしろ高まる方向にある、と見るべきなのではないだろうか。こうした中で、中国に対する東南アジア諸国の姿勢も、「各国の地政学的・政治経済的条件」の相違から、「大陸部東南アジアと島嶼部東南アジア(ただし、ベトナムはその折衷タイプ)」でかなり異なることは、著者の以前からの見方である。
この認識を受け、第三講演では、東南アジア各国の個別の国家戦略が説明されるが、これは彼が新書版で示した内容のほぼ繰り返しである。ポイントは、「東南アジアのほとんどの国で、輸出、輸入、いずれにおいても、中国の比重が急速に拡大し、その一方、中国からすれば、東南アジア諸国との貿易の比重はそれほど大きくなく、その意味で、経済的相互依存における中国と東南アジア諸国の非対称性が高まっている」という点である。当然、この地域ではインフラ整備における中国の支援もより重要となっていることから、東南アジア諸国は、「中国の台頭からできるだけ利益を得るとともに、中国台頭の安全保障上のリスクをどうヘッジするか」が、主要な政策課題となるのは言うまでもない。
こうした観点で、タイ、ミャンマー、ベトナム、インドネシア、マレーシア、フィリピンの政治・経済・社会状況が個別に解説されている。詳細は省くが、大陸部では、著者は、ミャンマー、ベトナムの安定と成長は楽観的に見ているのに対し、タイについては政治リスクがしばらく持続すると懸念している。また島嶼部ではフィリピンについて楽観的であるが、インドネシアはジョコ・ウィドド政権は様子見、マレーシアはブミプトラ政策は行き詰っているが、政権転覆までには至らないだろう、としている。しかし、冒頭でも述べたように、最近のフィリピン大統領選挙でのデュアルテの当選などは、今後のフィリピン情勢の流動化を懸念させる事件であり、既にここでの現状認識の鮮度が落ちていると言えなくもない。
最終講演は、このアジア情勢を受けた日本の対応についてであるが、著者の結論は、簡単である。「日本は大国だ、しかし、超大国ではない、こう割り切って、外交・安全保障ではアメリカ中心のハブとスポークスのシステムのネットワーク化を基礎に力の政治、バランシングの政治をする、対外経済政策では、市場自由化を基本に経済連携・自由貿易のルールづくりに積極的に参加する、また世界の金融秩序の進化に貢献する」ということである。いわば現在の安部政権のアジア政策そのものであり、特段斬新な政策提言を行っている訳ではない。
こうして見てくると、本講演は、昨年読んだ新書での議論を発展させたというよりも、それを繰り返した、という方が的を得ているように思われる。他方、講演という性格から、著者の説明は明快で、その意味では、新書で提示した枠組みに基づき、最近の情勢も含めて分かり易く解説したものであると思われる。現在の日本の保守政権の諮問会議の委員などを努めた経緯もあり、現政権の政策を認めざるを得ないということは理解できるが、著者の他の著作―特に約15年前に刊行した「海の帝国」―での生き生きとした歴史分析と比較すると、やや現状分析に物足りなさが残る作品であった。
読了:2016年5月12日