黎明の世紀
著者:深田 祐介
数か月前に読了した「日本はASEANとどう付き合うのか」で引用されていたことから、この単行本をアマゾンの中古で購入し、今回読了した。1991年の出版であるので、既にそれから25年が経っている。私の若い頃、彼の「新東洋事情」がベストセラーとなったのはよく覚えているが、その後経済小説を中心に発表してきた著者に、こうしたアジアに関する本格的な論考があるというのは、前掲の本を読むまで認識していなかった。しかし東南アジアに対する見方を模索する中で、前掲書での議論が非常に面白かったことから、この本を調達したのであるが、ここで描かれている日本とアジアの大戦時の関係は、現在及び将来のこの地域との付き合い方を探る上で、我々が心に刻み込まねばならない多くの重要な論点を含んでいると思われる。
まず、1943年11月5日、6日の両日、東京で開催されたこの「大東亜会議」の主要な出席者を確認しておこう。彼らは、汪兆銘(中華民国国民政府代表)、張景恵(満州国代表)、バー・モウ(ビルマ代表)、ワンワイタヤコーン(タイ代表)、ホセ・ラウレル(フィリピン共和国代表)、チャンドラ・ボーズ(自由インド仮政府代表)の6名。それに会議には出席しなかったが、当時の日本の東南アジア政策上、重要な役割を果たしていたスカルノ(ジャワ中央参議院議長)。迎える日本は、日本国代表としての東条英機に加え、外相の重光葵等。もちろん背後には昭和天皇がいる。こうした人々が結集した背景とそれぞれの思惑がどのように交錯していったかを、当時の通訳などの関係者の証言を重ねながら再現していくのである。
ガダルカナルでの大敗などを受け戦況が厳しくなる中、各国代表が決死の覚悟で結集する様子や、それをもてなす東条の「官僚的な細かさ」など、裏話も面白いが、本質的な部分は、まさに各国の思惑がそれぞれ異なる中で、それぞれの代表がどのように振舞ったかという点である。
日本側の重要な点は、もともとこの会議を主導した重光外相の、「明確な戦争目的なく」始まったこの戦争に、「西欧列強からの植民地解放」という「公明正大」な理念を付すという意図、しかし同時に、「日本の敗戦を予想し、日本が戦後のアジアに生きるためには、アジアの解放と独立という投資を行っておかねばならない」という本音があったとされる。しかし、実際には、この地域の資源を戦争目的のために自由に使いたいという軍部の圧力等もあり、結局は「大東亜共栄圏」は、日本のための共栄圏、即ち各国の「傀儡化」を行う理念に転化していったのである。各国代表は、温度差はあるが、そうした日本の意図を読み取り、それぞれの国益を意識しながら振舞うと共に、それぞれその後の運命を甘受することになる。
純然たる「傀儡」であった満州国代表を除く各国代表の対応とその後は、以下のとおりである。まず汪兆銘は、孫文の大アジア主義に傾倒する中、日本のアジア解放に対する幻想もあり、まず日本と和睦し、次に蒋介石と合作、そして共産軍と戦うという戦略を抱いていた。自身の健康状態は相当悪化していたにもかかわらず、この会議の期間中は意気軒昂で、帰国後、日本が提示していた「駐留軍の2年以内の撤退」などの和睦案への国民の理解を求めることになる。しかし結局中国内での支持を得られず、また日本も軍部が巻き返し、撤退が進まなかったことから、彼は足元をすくわれた形となり、彼は「日本軍と結託した敗北主義者」という烙印を押されてしまい、彼自身も日本への恨み辛みを口にしながらその人生を終えることになる。
タイ代表のワンワイタヤコーンは、戦後を見据えて狡猾に振舞った。そもそもタイは首相であるピブンが、恐らくは仮病を使い欠席し、替わりにこの王族を送り込んだのであるが、戦況が日本に不利に転換したところで、明らかにタイは二股をかけていた。面白いのは、まず開戦時、兵站基地としてのタイが連合軍の攻撃を受ける可能性があることから、日本の軍部が必ずしも望んでいなかった連合国への宣戦布告をタイが宣言したこと。しかし戦況が変化してくると、日本軍が飴として差し出したマレーシア北部4州やビルマ2州のタイへの割譲について、言を左右して判断を先延ばしにしたという。明らかに、タイは、日本敗戦後の「戦後タイの国際的地位への悪影響」を考慮していた。そしてこの会議でもワンワイタヤコーンは、日本への支援を表明しながらも、「独立国家タイの歴史と主権を再三にわたって主張」し、「巧みに戦争共同責任を負うことを回避」するような発言に終始したようである。戦後、この国が、枢軸国側では最初に国連加盟を認められたことは、今まで読んだこの国の歴史で、何度も語られてきたとおりである。そのワンワイタヤコーンは、戦後その国連議長まで勤め、「日本の国連加盟に努力したりして、1975年に死去した。」他方、会議に欠席したピブンは、結局1957年のクーデターで失脚し日本に亡命、7年後に相模原の病院で死去した、という皮肉な結果となったのである。
会議では、次に演説を行った満州国代表の張景恵が、「『傀儡』を終始見事に(「老獪不敵に」)演じた」が、フィリピンのラウレルやビルマのバー・モウは、そうはいかなかった。特に、日本側の「各国の政府権限を拘束して『内面指導』を行うという方針(アジア全域の『満州国化』と日本の『家父長的指導』の行使)」を感じ取り、それに対して果敢な抵抗を行うことになる。
まずラウエルが、「『大東亜共栄圏の確立は』『政治的独立及び領土主権を承認することに依って』『発展を遂げる』のであり、『発展の結果生じるある国の繁栄を、ある特定の国が独占すること』であってはならない」と痛烈に日本のフィリピン当地を批判する。まさにその通りであり、これこそが、現在でも我々が、他国、なかんずく東南アジアの国々と接する時に肝に銘じなければならない大原則を見事に表現している。またこの会議直前に、フィリピンは日本と協議の上、独立を宣言するが、その際の日本の条件であった「対米宣戦布告」については引き伸ばしを図り、「米国との戦闘状態」を宣言するに留めたというのも、戦後を考えての策略であると共に、まさにラウレルが会議で非難した日本の「満州国化」政策の問題点を如実に示している。そのラウレルは、米軍の侵攻に伴い、日本に一旦避難するが、その後帰国。終戦後の戦争裁判では無罪を勝ち取り、「政治家、弁護士、教育者として活躍」し、1959年68歳で逝去すたという。
日本のビルマ支配でも、「満州国化」が赤裸々に行われ、それに抵抗するバー・モウの日本人軍人による暗殺未遂事件なども勃発していたようである。しかし、バー・モウの中では、それ以上に英国の植民地支配に対する憎悪が燃え盛っており、そのためには「敵の敵」である日本との連携は、多少の犠牲があっても必要なものであったという。そのため、「大東亜会議に最も酔ったのは、パー・モウだ」と言われる程、日本の「大東亜共栄圏」の理念に積極的に応じる発言をした。そして11月2日、会議二日目に、満場一致で「大東亜共同宣言」が採択される。そしてその評決後、この会議の最後の大物、チャンドラ・ボーズが演説を行うことになる。因みに、そのバー・モウは、ラウレル同様、日本敗戦の中で、日本に避難するが、しばらく新潟に潜伏した後、英軍に自主するが、やはり戦後裁判で無罪判決を勝ち取り帰国し、その後の浮き沈みはあったものの、1977年、ラングーンで波乱に満ちた84歳の生涯を終えた。
チャンドラ・ボーズの生涯については、この本で、今まで疑問であった部分が随分明らかになった。特に、「中村屋のボーズ」こと、ラーシュ・ビバリー・ボーズとの関係は、その一つである。マレーシア、シンガポール占領後、日本の特務機関が、インド解放のため、捕虜となった英国軍のインド人を中心に「インド国民軍」(モハン・シン司令官)と、ビバリー・ボーズを執行委員長に「インド独立連盟」が組織されるが、モハン・シンとビバリー・ボーズが対立する。それをまとめるために、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボーズを、伝説的なUボートと日本の潜水艦で移送し、シンガポールで指導者として迎えるのである。要するに、ビバリー・ボーズでは、あまりに日本の「傀儡」という色が濃すぎたということであった。そしてシンガポール到着直後から、彼は「英米両国への宣戦布告」を含め、「すざまじい」勢いで、インド解放のための行動を進めることになる。この会議での彼の演説でも、「大東亜宣言」が「全世界の被抑圧民族の憲章とならんことを祈る」として、全面的に日本の指導力を賞賛することになるのである。著者は、フィリピンのラウレルが、ボーズを尊敬しつつも、こうした無条件の日本賛美に対し複雑な感情を抱いていただろうと推測しているが、最後はこのボーズと二人きりで会談し、その後、日本が敗戦したとしても「アジア人のアジアなる思想は継がれていくだろう」と、「青年期の大アジア主義者」に戻ったような感想を漏らすことになったという。しかし、そのボーズに率いられたインパール作戦は大失敗し、彼も最後は移送中の飛行機事故が原因で、日本の敗戦直後の昭和20年8月18日、台北で死亡することになる。
最後に、この会議に出席しなかったが、影の重要な主役としてのスカルノの役割が紹介される。インドネシアでは、日本の占領後、今村将軍指揮下の「軍政は比較的うまく」いっており、また独立の英雄たるスカルノの影響力も強かったにも関わらず、彼はこの会議には呼ばれなかった。その理由は、「昭和18年春、日本の御前会議で決定された大東亜政略指導大綱において、インドネシアはマラヤとともに、『帝国領土』と規定された」からであった。即ち、同じ頃、「近くビルマとフィリピンに独立を与える」としながら、「軍需物資として不可欠の石油、天然ゴムを中心とする資源をみすみす手放したくない」という理由で、陸軍統帥部がインドネシアの独立に強く反対したのであった。そして「独立国でないが故に」、スカルノは会議に招待されなかった。しかしそれにも関わらず、日本側は、スカルノに配慮し、会議の直後に副官で、後に副大統領となるハッタとともに日本に招待し、天皇とも謁見、彼らも日本の工業力などに感銘を受け、戦後の両国関係に繋がっていったとされる。
こうして著者は、この本の最後を、バー・モウの「ビルマの夜明け」からの以下の言葉で結んでいる。「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない。」まさに日本は、それぞれ程度の違いはあるものの、東南アジアにおいては、概ねその不器用な振る舞い故に、彼らからは大いなる誤解を持って見られているのである。今、この地域に対する中国の影響力が強まる中、中国に対するそれぞれの国が持つ感情も、実は日本が進出した時期のそれと実は大きく変わらないのではないか、と想像される。もちろん現代の各国の事情や、世界政治の中での立ち位置は、大戦前後とは当然異なるとは言え、そうした各国が、地域大国に対して抱く感情は大きく異なるものではない。そうした感情への理解と、そして当然ながら近代の日本に対する愛憎共存する気持ちも忘れることなく、この地域との関係を構築していくことは、我々にとっては、この地域と接していく際の最低条件である。そうした基本を踏まえてこの「大東亜会議」を見ると、それは、その後1990年代に通貨危機の中で、米国などの圧力で潰された「アジア通貨基金」などと同様、世界政治のパワーゲームの中で翻弄された歴史の一断面であるが、とは言え、その根底にある地域共同体の理念は決して意味のないものではないことを、改めて認識したのである。
読了:2016年11月20日