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著者:ビル・エモット 
 2008年6月の出版であるので、おそらく最初にこちらに来た際に持ってきた単行本である。しかし、何故今まで読まずに放っておいたのかは、分からない。幾つか手をつけるのがおっくうで、そのままになっている本もあるが、これはそうしたタイプではない。しかも当時の新聞の書評2つも挟まっており、それなりに出版時には話題にもなっていたようである。

 いずれにしろ、未読本の中に見つけて、今回読み終えたが、残念ながら、多くの部分が、出版時からの時間の変化で陳腐化してしまっている。あえて言えば、2008年時点の予想が、それから約10年経過して、実際にどうであったかという歴史的審判を行うこともできるが、それもやや大人気ない。ということで、むしろ時間の経過の影響を受けていない部分を中心に見ていくことにする。

 エコノミスト記者として、日本を含めアジアに長く駐在した著者(1956年生まれの英国人)による、中国、日本、インド論である。英語のタイトルは「ライバルズー中国、インド、日本の覇権争いが次の(世界の)10年を決めていく」というもので、基本的視点は、凋落しつつあるも引続きアジアの大国である日本と、勃興するその他の地域大国である中国とインドという三国による覇権競争が行われるという観点から、今後のアジアがどのように動いていくかが考察されている。著者はそれ以前に、2冊の日本論があるようなので、いわば、それをベースに新たな地域覇権国家である中国、インドを加えたアジア論であるということになる。

 まずは、新たに勃興するインドを含めたアジア全域の歴史と思想を整理した後(岡倉天心やタゴールを引用しているあたりは、自分がこの地域の歴史をよく知っているよ、と言いたいのであろう!)、出版時点までの三国の状況を叙述しているが、ここは前述のように、時間の経過で陳腐化してしまっている。サブプライム問題の萌芽には少し触れられているが、その後決定的となったリーマン・ショックによる世界的な経済危機やユーロ危機はまったく予想さえもしておらず、またこの地域で大きな鍵となる米国の対応についても、「時期大統領による」ということで、オバマ政権によるアジア・リバランスあるいはピボット政策は前提とされていない。そんな中で、あえていくつか注目すれば、以下の諸点であろう。

 中国に関しては、急速な経済成長と、それにもかかわらず変わらない共産党一党独裁が、中産階級の不満や、経済バブルの破綻による社会危機をもたらす可能性が議論されているが、とりあえずその後10年、決定的な危機はなく、共産党の支配も安定している。そして、この時点で、中央政治局常務委員会の常務委員に昇格した、元上海党書記の習近平と元遼寧省委員会書記の李克強が2012年以降の第五世代の指導者となることが予想されているが、この国の現在の最大の問題は、むしろ官僚主義による汚職や、それに対する習近平による「反腐敗運動」が、政権中枢、そして中国社会全体にどのような影響をもたらすかである。その意味で、この本で分析されている中国の「危機シナリオ」は既にやや賞味期限切れである。

 日本についての分析も同様である。こちらは、前述のとおり、既に「日はまた沈む」(1989年)、「日はまた昇る」(2005年)と2冊を刊行していることから、その2008年時点でのアップデートである。当然のことながら、その後の民主党政権への移行や大震災、原発事故、そして第二次安部政権での経済政策は予想されていない。民間部門の不良債権問題はほぼ処理が終わったが、国内では少子化や非正規労働の問題が、そして対外的には中国と北朝鮮への対抗的な姿勢が問題になり始めていることが指摘されているが、それは特別鋭い見方ではない。その意味では、外人に向けての日本の説明で、日本人にとっては、今でも留意すべき興味のある分析はあまりない。唯一重要なのは、この章の最後で、日本とインドの関係が、この時点で大きく変わっていることが指摘されていることである。対中国関係が冷え込む中で、明らかに日本にとってバランサーとしてのインドに存在が大きくなっている。この時点でインドに対するODAが中国を越え、「インドは日本のODAの最大受益国となった」ことはきちんと認識すべきだろう。日本の支援で、ニューデリーの地下鉄、デリームンバイ間の貨物輸送鉄道等のプロジェクトがこの時点で予定されていたというので、これらの現状を確認しておく必要もある。しかし、そのインドは日本と同様「昔から内向き傾向が強かった」として、インドの紹介に移る。

 インドの混沌を説明するのに、多くのエピソードが紹介されており、オンライン・サイト「テヘルカ」を巡る言論弾圧事件の顛末や「ナクサライト」なる暴力的な反政府活動等、私が初めて触れる話も多い。ただ全体的な印象としては、この時点で予想されたほどインドの経済成長、そしてそれによる格差の是正やインフラ整備、製造業の発達、そして何よりも貧困や地域格差が、解消しているようには思えない。著者がコメントしているように、「改善されているが充分というのはほど遠い」というのが、現在も当てはまるこの国の実情なのだろう。そして中国との比較では、「英語を使える能力以外のあらゆる面で、中国に劣っている」というのもそのとおりであろう。

 この三カ国に関わる説明に比べると、それ以降の課題ごとの整理は、それほど時間の経過を感じさせるものではない。まず環境問題については、「この三国(日本、中国、インド)を合体させ、中国とインドを日本と同じように発展させたなら、地球を破壊することになるかもしれない」と物騒なコメントをするが、これは環境問題を経験してきた日本が、中国とインドの成長がもたらす環境問題の解決に尽力できる、という提案で、これは現在もそれなりに意味がある。中国、インド両国が急速に工業化を進めていることから、ここでも紹介されている環境汚染事件の数々には目を覆うほどで、またCo2排出量問題も、引続きこの両国が大きな鍵を握っている。そこで日本が、インドを始めとする「中国とは違って膨大な貿易黒字や巨額の資本をもたない、アジアのもっと貧しい国」に対し、日本の「大気汚染を制御する先進的なテクノロジー」を提供することにより、日本のアジアでの評価も上がり、かつ中国もそれに真剣に取り組まざるを得なくなるだろう、というのが、著者の期待である。これがその後10年、どう展開されてきたかは、この地域での科学技術協力を生業としている私にとっても、今後追いかけてみる価値のある課題である。これに関し、中国でもハイテク産業立地を推進し、都市汚染から脱却した大連の例が挙げられ、それを主導したのが当時の市長で、今や失脚した薄熙来であった、というのは、皮肉である。

 歴史問題では、中国のハルビンの石井部隊「罪証陳列館」、南京(事件の)博物館、盧溝橋の抗日戦争記念館、それに日本の靖国遊就館、更には韓国の戦争記念館などの、おぞましい展示から話を始めている。そして、東京裁判に対する日本側ナショナリストの見解や、他方で周辺国からの「真摯さを欠く日本の謝罪」など、取りあえず双方の主張は広く紹介している。そして域外の著者から見ると、こうした関係諸国の相互に持つ歴史的な不信感は、「善意や政府同士の協力」では解決できず、その意味で「いまのアジアはきわめて危険な場所である」という結論になる。ただこれは現在の北朝鮮による核武装問題に比べれば、まだ政治的な綱引きのカードとして使われる玩具程度の軋轢であると思われる。

 著者が考えるその「アジアの発火点」は、歴史問題に起因する日本・中国・韓国の軋轢ではなく、むしろ、まずはパキスタンやチベットを巡る中国・インドの軋轢が最もリスクが高いと見る。そして次のリスクは、東シナ海における「島の領有権と石油や天然ガスの採掘権」を巡る日本と中国の軋轢で、こうした問題は、「衝突事故や偶発的な発砲」といった些細な事件から広がるというリスクがあると見る。それに対して、台湾問題のような大きな対立は、「偶然の出来事は大きな懸念材料ではなく」、「故意になされる可能性」がリスクであるが、それは予見できる。そして最後のリスクとして北朝鮮を挙げているが、これはまだ金正日の時代で、彼の健康状態が続いてくれることを期待しているが、その後、彼以上に行動の読めない指導者が独裁権力を握ることになることは予想もされていない。

 それでは、こうしてアジアで三つの大国が拮抗する中で、これらが衝突するリスクを回避する手段があるのか?最後に著者はいくつかの提言を行う。それらは、@アジアのバランスオブパワーを維持するために米国がインドの経済的発展と地位を支援すると共に、インド、パキスタン、イスラエルが調印できる新たな核拡散防止条約を成立させること、A地球温暖化防止に向けて米国が中国とインドに有害物質の排出削減に加わるよう促すこと、BG8を拡大し、中国、インドに加え、ブラジル、サウジアラビア、アフリカの大国も参加すような国際会議の設置、C国際ビジネスの観点で、この三国の過去10年の振舞いではなく、今後10年にどう変化するかを考えて行動すること、D日本による歴史問題へのより誠実且つ巧妙な対応、E中国共産党に意思決定過程の透明性の引上げ、Fインドによる近隣諸国との外交関係改善と経済関係の強化、G日本、中国、インドが参加す「ASEAN地域フォーラム」を発展させ、もっと親密な組織にして、参加国にもっと大きな義務を負わせること、H米国によるアジアの小国への関与の拡大、以上である。

 こうした提言は、この10年で、Bのように、(期待されたように機能しているかどうかは別にしても)G20や、Hのように米国のリバランスによる東南アジア回帰など、それなりに実現されているものと、DEFの三カ国の固有の問題のように引続き改善の跡が見られないものが混在している。そして何よりも、現在のアジアのパワー・バランスでは、中国の存在がより強まり、インドが必ずしもバランサーとして機能していないという面がある。そこでは結局米国によるこの地域へのコミットが、地域安定の最大の鍵であるが、その米国がトランプ政権のもとで、予見可能性が低下しているというのが、現在のアジアの最大のリスクである。もちろんアジアの安定が、まずはその地域の「大国」間のパワー・バランス、あるいは関係改善にあることは間違いないが、今やこの三カ国のパワー・バランスは変わっている。その意味で、出版後10年を経過したこの作品は、依然変わらないアジア三カ国の課題を提示している以上に、これらの国と地域を取り巻く状況変化が、以前にも増して速まっていることを如実に物語っていると言えるのである。

読了:2017年7月25日