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東アジア経済戦略
著者:原 洋之介 
 昨年、同じ著者の1996年出版の「アジア・ダイナミズム」を読んだが、これはアジアが急速な成長を続ける中でのある種高揚感の中で、アジア経済固有の成長力を歌い上げたものであった。しかし、その直後に発生したアジア通貨危機により、ここでの著者の議論が大きく挫折することになる。しかし、この時大きな打撃を受けたタイ、インドネシア等も、その後再び着実な経済成長の道を回復し、その後のリーマン・ショックなどでも、一時的な景気後退はあったものの、決定的な危機は避けることができた。そうした環境下で、再びこの地域の課題は、夫々の国での産業資本の育成・成長と、社会インフラの整備とその資本調達に移っている。この作品の中で著者が指摘した、この地域での商業資本と広域ネットワークの伝統は、ASEANにおける広域経済圏確立に向けた動きとして、それなりに着実に前進している。そして、今回は、同じ著者による2005年10月出版の作品で、前作同様、古本を廉価で調達することになった。
 
 前著と同様、ここでの議論は、今度は、昨今の米国トランプ政権による保護貿易や孤立主義への回帰により、またややアクチャリティーを失ってしまった感はあるが、それでも前作同様、そうした次々に展開していく足元の情勢にも関わらず、この地域の政治・経済・社会の固有の性格を見ていく上で、有効な議論も含んでいる。そして何よりも、著者が、こうした目まぐるしく変貌する世界やアジア情勢の中で、日本を改めて見つめ直し、その戦略の再検討を促している姿勢には共感するところがある。そうした観点から、前著同様、現在でも有効性を持っている議論を中心に見ていくことにする。

 小泉首相(当時)による2002年の「東アジア構想」演説を受けて、日本のアジア戦略が新たな局面に入ったこの時期、著者はまず日本の戦略が「経済至上主義」で、「市場経済面での利益の増大という側面を超えた、積極的な価値観を提出しえていない」ことを指摘する。それはこの「地域の『安定と繁栄の実現』」という抽象的な理念以上に、「どういう積極的な地域秩序を構築する」かを示しておらず、「歴史や領土といった問題で自己利益を強硬に主張し始めた中国への牽制・対抗」という動機だけが、あからさまに透けて見えるという。そうした中で必要なのは、「自らの歴史や制度、思想を正当に自己評価しそれを外に向かって発信していくという『自主』的主張」だとして、司馬遼太郎を手掛かりに、まず日本の自己認識を再確認しようとしている。

 それによれば、日本を取巻く米国と中国は、どちらも「『自国例外主義』つまり自国・自文明中心主義の文化圏」であるのに対し、日本は「競争の原理を基礎として歴史が展開してきた国」で、「社会の固定を望むアジアの諸民族」とは異なる異質の文化を持った国であるという。著者はそうした日本のアジアにおける「異質性」を踏まえて、アジアとの関係を構築していく必要がある、そして、「アメリカと中国という二つの帝国型の大文明に地政的・地理的に拘束されて漂流し続けている」日本は、そうした特殊性を認識しながら、「文明の媒酌・仲裁」(内村鑑三)を行うことを目指していくべき、と主張するのである。

 この基本姿勢の上で、東アジア経済統合をめぐる戦略が議論される。特にASEANとのFTAをめぐる競争については、前に読んだ寺田の論考がより詳しいので、ここでは繰り返さない。ただ、この時点では、中国とASEANのFTAが貿易の自由化という単純な関係であるのに対し、日本とのそれは、貿易自由化にとどまらず、「税関手続きから知的財産権保護までをカバーした円滑化のための制度整備、さらに金融、科学技術、人材育成、中小企業育成等の分野における連携協力」まで含む、幅広く且つ質の高いものであることには留意しておこう。それが現在どうなっているかは、もう少し調べておく必要がある。

 地域秩序というのが、地域の人々と、その政府間で、ある程度共有される規範を有していることが前提すれば、東アジアの国々では、特に地域の人々の間で、必ずしもこうした「社会規範・価値観」が浸透しているとは言えないことを無視する訳にはいかないという。それはこの地域の民族、言語、文化の多様性のもたらす永遠の問題である。こうした地域への日本がなし得る貢献は、「自由貿易協定や経済連携協定をとおして、安定的な地域秩序を構築する」ことしかないが、他方で「経済決定論的思考の罠」に囚われないように注意すべき、というのは、ある意味あたりまえの提言である。そしてこうした地域統合が、グローバリズムの力を弱め、地域の実情にあった経済成長を可能とすることになる。もちろんそれは、「外部世界に対して閉じた自給経済圏ではなく、外に開かれたリージョナリズムであるべき」で、また「東アジアでは自然発生的な経済圏を制度化された地域経済協力圏に転換させる」必要がある。また「相互にモノの生産面では競争しながらも、各種情報・知識の交換や交流面では補完しあえるような」「競争的かつ相互補完的な併存の仕組みの構築」も不可欠である。寺田の論考でも示されているとおり、ASEANもそうした方向を模索し、日本もそれを支援してきたことは間違いない。しかも、それが足元では、米国トランプ政権の「ちゃぶ台返し」を受けて、ますます重要となっていること、しかし他方で、その米国巨大経済圏の「鎖国」で、大きな壁に突き当たっていることも確かなのである。そうした中で、ASEANにとっては、巨大化し存在感を強めている中国経済との距離感をどのように保っていくか、そして日本にとっても、「アジアにおけるその異質性」を如何に利用し、その中国と「自国第一主義」を露骨に進める米国の間でバランスを取りながら、ASEANでの存在感を確保していくかは、引続き大きな課題であり続けているのである。ここでは具体的な施策は提示されていないが、例えば私が日常業務で行っている日本の高い基礎科学研究力や、その産業応用での技術力をこの地域の成長に生かすべくアピールしていくことが、そのひとつの手段であることは確かである。

 第三章では、東アジアからは離れ、米国、欧州、そして最後に中国と日本を「文明圏の歴史的個性」という視点から整理している。米国については、論考が書かれたのが丁度、イラク戦争が始まった時期であることもあり、この国の「普遍的正義」の押売り、という性格が強調されると共に、この「単独主義的覇権システムの終焉の始まり」が指摘されている。また欧州については、ドイツ、フランス、英国それぞれの歴史的特殊性が指摘され、この多様性が強調される。中国についても、その長い歴史の中で生成されてきた特殊な「社会秩序論理」が示され、最後に日本については、中央集権と地方分権の間、そして「ぜひ経済(金融)」と「米経済(実体経済)」の間でのバランスを取ってきた文明である、とまとめられている。

 この議論は、結局グローバリズムや地域経済統合を議論する際に、「政治であれ経済であれ、その制度はその地域・国の歴史や伝統から離陸して、勝手に機能するものではない」という「簡単な事実」を示している。そしてそこから翻って東アジア、あるいは東南アジアを見れば、そこには民族・宗教・言語・歴史・社会の異なるますます多くの国が存在している。そうした地域との関係を維持発展させるためには、当然、単なる経済至上主義ではない、文明論的認識を基礎とした「文明の媒酌・仲裁」を行うような関係構築がなければならない。約13年前に出版されたこの作品で著者が訴えたかったのは、まさにこの「簡単な事実」であり、それは現在でも意味を失っていないのである。

読了:2018年6月30日