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著者:原 洋之介 
 昨年読んだ1996年出版の「アジア・ダイナミズム」、そしてつい先日読んだを2005年10月出版の「東アジア経済戦略」に続けて、今度は、2000年10月出版の、同じ著者による新書である。これも、まさにアジア通貨危機の余韻が残る中で、その本質的な要因や、それを受けてのアジア経済の今後を論じたものであるが、その含蓄に富んだ内容にもかかわらず、古本が廉価で販売されている。こうした議論があまり世間の注目を浴びなくなっていること自体が、やや寂しい感じがする。

 著者の主要な主張は、アジア通貨危機を受けたIMF主導によるアジア諸国への経済構造改革強要という事態は、アジア各国の歴史的、社会的特長を無視した欧米主導による新自由主義の横暴であり、その背後に新古典派経済学があるというもの。通貨危機に至る時期、東アジアは「奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げた。それが「奇跡」であったのは、欧米的視線から見れば「専制政治体制下で民間経済活動つまり市場の自由が制限されている時には、経済成長が起こらない」という「普遍」法則から外れていたからであった。しかし、それが一転し危機が発生した時、それまでの「奇跡」は全く省みられることなく、これらの市場は「透明性に欠けるクローニー、つまり、血縁、学閥、地域閥などに依拠して経済活動を行ってきたために、合理的な計算ができなかった」として、それらは「構造改革」されることが必要だ、という処方箋が支配的となった。しかし、著者の議論では、その危機は、「情報技術革新に支えられて噂だけを頼りとする投資家が群れているグローバル資本主義の移り気」が引き起こしたものであり、「東アジア諸国の国内金融市場が不透明なクローニー型であったために不良債権が累積したのではない。」その意味で、通貨危機は、主として米国主導によるグローバル資本主義による、新たな形での東アジア収奪戦略であった、ということになる。こうしたグローバル資本主義の戦略に立ち向かうためには、どのような姿勢で臨むべきなのか?それを探るために、著者はまず、この背後にある理論としての新古典派経済学を批判的に論じていくことになる。

 新古典派経済学批判に一章が割かれているが、それは基本的には、「政府・国家の愚かな介入を排除して、確かなる私的所有を与えさえすれば、個人は自己利益を最大化すべく合理的に行動」し、「そういう個人の合理性が重なって、『見えざる手』の働きを通して、社会全体としての合理性・効率性も実現される」という、まさに古典的な自由主義経済理論の批判である。そして、社会主義計画経済が破綻し、冷戦が終了したことで、この自由主義経済イデオロギーが今や世界を席巻することになったが、それは、「現存する『存在』をその歴史的制約性という観点から直視」することなく、「規範という未来から現在をみる進歩主義的思考そのもの」である。それは、固有の地域経済が持つ歴史的、社会的、文化的多様性を無視して、一つの色に染め上げる思想であるために、それに対抗する理論武装をしなければならない、と言うことになる。

 市場原理だけで国民経済を分析することはできないとして、著者は、幾つかの論点を挙げている。それは例えば、土地所有・利用に関わる農村経済の存在で、「人間と土地が組み合わさって歴史的に形成されてきた基層社会だけが資本主義を純化させない力をもつ」として、資本主義が不安定化した際の最後の拠り所と見ている。また経済主体の持つ合理性や知識の限界、非協力ゲーム理論(囚人のジレンマ等)、社会慣習・倫理等の非市場的制度等々。こうした要因により、「経済システムの進化はどこでも一様なものとなるとはかぎらない」というのは、私のとっては当たり前の議論である。

 ここから導かれる著者の結論も、「文化信念や社会構造のありようという社会文脈の差異に対応させて、制度進化の経路を再検討していくことが必要」という当然のものである。その経済モデルは、「モノが移動しそれを媒介するヒトが活躍する場としての域圏」と「それ自身が歴史性をもつ生態的な基盤の上に形成された個性的な地域単位」両者の間の相互作用をはっきりと把握するものとならなければならない。それを無視した単純なグローバル化は、それらの経済社会を不安的化させ、経済成長の障害となってしまう、という訳である。

 こうして改めて著者は、西欧啓蒙の産物である「自由主義プロジェクト」が、通貨危機という形で東アジアにもたらした負のインパクトを検討することになる。著者が指摘しているように、この通貨危機は、関係諸国の債務超過問題ではなく、一時的な外貨流動性問題であった。それにも関わらず、IMFが、それを国内の経済構造問題として提起したために、グローバルマーケットの投機筋は更にそれらの通貨を売り続け、その結果は、経済破綻に加え、政権転覆までに至ることになった。それに対する対策としては、マレーシアの当時の首相(にして今回再び92歳で再登板した)マハティールが行ったように、通貨の固定相場制の維持と資本規制による防衛という方法はあったものの、中長期的には流動性を補填する国際システムがもっとも有効であった。この本でも著者が指摘している、「最後の貸し手」機能を持つ基金の地域レベルでの構築については、この危機を契機に日本の提唱で設定されたチェンマイ・イニシアティブが、そのひとつの大きな制度的対応であったことは言うまでもない。

 もちろん著者は、東アジアの経済制度が、グローバルな基準に対応していかなければならないことを認めた上で、最後にこの東アジア型の経済制度を再確認している。それは、華人の商人が中心になって作り上げた商業・交易ネットワークである。しかし、それは同じ時期の地中海交易と比較すると、「私的所有権の制度的確立が不十分であった」ことと関連して、「有限責任会社制度、金融証書取引所、専門化した銀行といった、同じ社会集団に属している訳ではない多数の商人間で資本を分けあいそれを保護するという合理的資本主義機構は、あまり発達してこなかった。」しかし、前世紀末の経済危機を経て、この地域でもそうした制度的枠組みは間違いなく整備が進み、その結果として、その後のリーマン・ショックとそれに続く欧米の金融危機からの衝撃を抑えることができた。しかし、そうしたグローバルへの対応とは別に、東アジアの国々が、引続き夫々の経済戦略を、それぞれの国民文化の基層の上で進めていく必要があることは疑いない。言うまでもなく、そうした国々との経済関係は、それら固有の経済制度や慣習、文化を踏まえた形で進めていかなければならない。日本自体が、グローバリズムの衝撃をどのように受け止めながら、今後の経済政策を進めていくかという問題は、日本がこれら東アジアの近隣諸国と如何に相互補完的な関係を構築できるかにかかっていることは間違いない。その際、著者が指摘している「単系的進歩史観」に囚われることなく、日本自身及び周辺諸国の経済政策を構想できるかが重要である。

 著者の前の作品でも触れたが、米国トランプ政権の「卓袱台返し」により、この欧米発のグローバル・スタンダードも、その先導役であった米国での保護主義の復活という洗礼を受け、今後の展開が不透明となっている。他方、日本や中国を始めとする東アジア諸国は、むしろこの動きに対抗する「自由貿易」推進という立場を鮮明にしている。そうした関係者の立ち位置の変動が、夫々固有の歴史的、社会的背景を有するこの地域の近未来の経済政策にどのような影響を及ぼし、そして最終的にどのような戦略を遂行していくべきなのか。1944年生まれの著者は、現在70歳代半ばになっていると思われるが、彼のこれまでの思索を受けた現在の指針を是非聞いてみたいと思うのである。

読了:2018年7月26日