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アジア読書日記
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ヨーロッパ覇権史
著者:玉木 俊明 
 1964年生まれの学者による近代ヨーロッパ中心主義の生成過程とその要因を分析した新書である。言うまでもなく、欧州が世界の覇権を確立したのは19世紀に入ってからと、最近のことであり、そこにはアジアやアフリカの植民地化を伴って行われたが、それまではむしろアジアの方が歴史的には長く優位に立っていたと考えられている。またそこに至る過程で、当然のことながら欧州列強の中でも熾烈な競争や戦闘が繰り返された。そして最終的には英国が世界の覇権を獲得するが、その理由は何だったのか。一般的には、それは英国が産業革命にいち早く成功したことによるのであるが、著者によると単にそれだけではなく、むしろ英国による国家と商人が一体となった経済戦略があったと考えるのである。その要点を、特にアジアの植民地化を巡る過程を中心に見ていくことにする。

 ヨーロッパが覇権を獲得する前史は、15世紀の「軍事革命(火器の使用と軍隊の規律化)」と「主権国家の誕生」で始まるとされる。これは「戦争の規模がはるかに巨大になり、国家財政にそれまでにない負担をかける」ことになり、その結果「財政システムが急速に発展し、主権国家=近代国家を誕生させることになった」ことを意味する。著者は、欧州各国の近代化戦略を俯瞰しているが、それによると、まずプロイセンは、製糖業を核とする殖産興業政策をとったが、流通路を確保できなかったためにヘゲモニーを得るまでに至らなかった。それに対しオランダは海運業を発展させることで流通を確保したことに加え、国内での課税システムと公債制度をいち早く整備することで、いち早く「近代的財政制度」を整えたことから、一時覇権を握ることになるが、最終的には、その過剰な税負担から地域覇権を英国に取って代わられることになる。

 18世紀、欧州の地域覇権を争ったのは英仏であるが、フランスは土地税中心の課税制度であったのに対し、英国は消費税中心であったことから経済成長による税収増加が可能であったこと、そして英国が中央銀行による信用保証で外国からの資金導入が容易であったこと等により、この競争に勝利したとされる。

 その上で、著者は、17世紀中葉のオランダ、19世紀終わりから第一次大戦までの英国、そして第二次大戦以降の米国のような覇権国家の生成過程をもう一度詳細に見ている。そこでは、著者が強調する、流通を押さえることで覇権を握る模様が改めて語られている。アフリカの奴隷貿易と中南米での砂糖生産を結ぶ大西洋三角貿易の発展と、そこでの支配権の移り変わりがその核であるが、それは省略し、これらの国のアジア進出を見ていこう。

 列強のアジア進出を可能にしたのが、コロンブスの新大陸到達から300年かけて成立した大西洋貿易と、それが促した綿織物の機械化という産業革命がもたらした富であった。それまでは、ヨーロッパはアジアよりも進んでいた訳ではない、というのは、現在では常識的な議論である。ヨーロッパが必要とする香辛料をアジアから得るために、ヨーロッパから輸出できる物はなく、その結果銀が流出するという状態が19世紀初めまで続いていたのである。そしてその流通を担っていた商人は、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、それに中国からの華僑やアルメニア商人などで、その意味で東南アジアは、「異文化間交易の空間」であった。しかし著者によると、重要なことは、「アジアの船が、ヨーロッパの海上まで進出したことはない」ことで、そのため19世紀後半にヨーロッパで蒸気船が開発されると、これがジャンク船を駆逐し、この流通網がヨーロッパの支配下に置かれていったのである。別の見方をすると、確かにヨーロッパはアジアに先んじて工業化に成功したが、それだけではアジアを支配するには十分でなく、「商品連鎖の多くを支配すること」により、初めてその覇権が確立されたということである。そしてこう考えると、「アジアより中南米やアフリカの方が西欧への従属度が高かった理由を説明することができる」という。何故なら、中南米を支配下に置いた大西洋貿易は、ヨーロッパ人が開発したのに対し、アジアには近代以前から「独自の商業ネットワーク」があった。ヨーロッパ人がそれを支配するためには、19世紀まで待たねばならなかったというのである。

 ここで、著者は、15世紀からの、時間をかけたヨーロッパによるアジア進出の歴史を振り返っている。これは良く知られた、ポルトガル主導による1488年のB.ディアスによる喜望峰到達と1498年のV.ダ・ガマによるインド、カリカット到達を嚆矢とするが、「この当時、インド洋はイスラーム商人の海であり、彼らの主導によりたどり着くことができたにすぎなかった」こと、及びこの航海では「170名がインドに向かったが、帰国できたのはたった55名であった」ということで、ヨーロッパの航海術の水準がその程度であったということは重要である。この時期、インド洋以東の流通は、伝統的アジア商人が握っていたのである。しかし、そこからポルトガルは武力を行使し、まずインド西岸にゴア(1510年征服)等の拠点を設け、1511年マラッカ王国を滅ぼし、ここを確保した上で香料原産地モルッカ諸島に向かうのである。

 少し遅れて、スペインが、メキシコを起点に西回りでアジアに到達、1571年にマニラが建設され、そこを起点に所謂ガレオン貿易を開始する。主たる取引は、中国の絹とメキシコの銀の交換であったが、この過程で日本からも相当量の銀が、ポルトガルやスペイン人を通じて中国に流れたというのも、良く知られている歴史である。こうして事実上、「ポルトガルは、ブラジルから、マカオーマラッカーモルッカ諸島までを帝国の範囲」とし、スペインは太平洋を確保することとなった。ただ東南アジアの重要な部分はポルトガルの支配下にあったことから「スペインは不利な立場にあった」とされる。

 これに遅れて参入したのがオランダで、ポルトガルを上回る武力で、インド西岸、セイロン(1639年)、マラッカ(1641年)等をポルトガルから奪い、東南アジアの覇権を握ることになる。しかし、最終的には、この地域の大部分が英国の植民地となることになるが、著者の課題は、その英国が覇権を握る要因の説明に入る。

 ポルトガルの覇権が長続きしなかった理由は、国家の支援もあったものの、国王の権力が限られていたために、相当程度この覇権は、商人自らのイニシアティブによっていたことにあるという。しかも、それは複雑な輸送経路と巨額の資本を必要としたことから、伝統的なアジア商人とも協力することを余儀なくされ、支配権力には限界があったことが指摘されている。そしてアジアに有していた拠点(植民地ではない)がオランダに奪われると、急速にこの地域での覇権を失うことになった。しかし、著者によると、ポルトガル商人はその後も、アジアと太平洋の貿易を結びつけるグローバルなネットワークを持ち、重要な役割を果たし続けたという。

 これに対し、英国は「太平洋経済の開発では新参者」であったが、最も「一体性をもった海洋帝国」を構築することに成功する。英国生産の絹織物を輸出、西インド諸島の砂糖とアジアの茶を輸入するという当初の交易から、18世紀末に開始されるインド産アヘンの中国への輸出と茶の輸入という三角貿易への展開の中で、国家が主導する形での武力を行使した植民地帝国を形成した。そして重要なことは、この貿易が英国の船で行われ、しかもそのために自国に作られた海上保険会社(ロイズ)も利用したという点である。それに中央銀行を通じた金融面での支援と電信というハイテクの使用も、この覇権強化の要因であった。こうした結果、18世紀後半になり、ついにヨーロッパとアジアの経済力が逆転することになったのである。ただ著者は、「ヨーロッパの諸帝国、とりわけポルトガル海洋帝国がなければ、イギリス海洋帝国は生まれなかったであろう。イギリスは、もっとも美味しい果実を食べることになった国である」としている。

 最終章で著者は、「ポスト近代世界システム」について論じている。そのポイントは、まず現代においても軍事情報と商業情報が、覇権国家の核心であるが、他方で現代においては「未開拓の土地」が失われているが故に「持続的経済成長」は困難になっており、そのため覇権を握ることの「旨味」がなくなりつつあるという点である。「世界の警察官」から徐々に撤退を進める米国の動きは、その顕著な反応である。この「ポスト近代世界システム」がどのようなものになるか」については、著者も分からない、言わざるを得ないが、丁度「ポスト近代世界システム」が5世紀近い時間の中で誕生したように、新しいシステムも同様の時間をかけて創られるのではないか、として本書が結ばれている。

 著者は、あとがきで、この新書は、現在の歴史学界では「アジア史が元気」であるのに対し、「西洋史の旗色が悪い」ということで、改めてヨーロッパの観点からアジアも含めた覇権の歴史を見直そうとしたものだ、と述べている。それを逆に私は、あくまでアジア史という視点から読み込もうとしている訳であるが、そこでは白石隆等が述べてきたように、歴史的にアジアには固有の流通システムが成立していた、ということは再確認できるが、それが欧米の覇権に取って代われるだけの潜在力を持っているかどうかについては、中々積極的な展望を示すことはできない。この著者は、現在のアジアは「ヨーロッパ化されたアジアにすぎない」と看破しているが、確かにヨーロッパやアメリカと同じ土壌で競争をしても、そもそも遅れて産業化した東南アジアの国々は、限られた国内市場を除き「未開拓の土地(分野)」を持たない。従って、キャッチアップはできるかもしれないが、再び先進国を凌駕するところまでは中々いけないと考えるのが普通である。あえて言えば、中国がある意味「国家市場主義」で、次の覇権を狙っていると言えなくもないが、一帯一路構想等が想定したとおりに進んだとしても、あくまで地域覇権を握るのが精一杯であろう。そしてそれには間違いなく、先進国のみならずアセアン諸国からのそれなりの抵抗が想定される。そして、そのアセアン諸国の場合は、欧米と中国(そしてあえて言えば日本)の間で「良いとこ取り」をしながら、ある程度のキャッチアップを進めるしかないのだろう。

 次の課題は、この「近代世界システム」が、流通の独占を経て成立したように、「ポスト近代世界システム」は、情報の独占が鍵になり進んでいくと見ることができる。そこでは現在特に米国の力が際立っているが、但しそれはGAFAといった私企業主導で行われており、中国なロシアのように、国家が強い指導力を握っているわけではない点で、過去のオランダ等の歴史を想起させるものである。しかし、それでは中国やロシアが、国家の積極的な関与を持って、その覇権を奪えるかと言うと、そう簡単ではない。その意味で、やはり結論的には、「ポスト近代世界システム」は、相変わらず現状においては不透明であると言わざるを得ない。そうした現状の中で、「近代世界システム」の中では地政学上戦略的な位置にあった東南アジアが、再び同じような立場を取り返せるか?今後の東南アジアの展開を見る上で、そうした観点も加えることは、意味のないことではないような気がする。

読了:2019年4月12日