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潜行三千里(完全版)
著者:辻 政信 
 以前から関心を持っていた作品であるが、丁度休暇での帰国前のタイミングで、新たな原稿も加えた新版が刊行された。新聞広告なども派手に打っていたこともあり、帰国時に購入、読み始め、任地に戻るフライトを待つ空港で読了した。

 この人物については、第二次大戦期のアジア戦線での活動が、様々な毀誉褒貶と共に伝えられている。いわく、東南アジアを席巻した山下将軍の有能な参謀。いわく、ノモンハンやインパールでの大敗北の責任者等々。そして、敗戦後、戦犯容疑がかかりながらも、国民党の保護の下に潜行し、1948年佐世保に帰国。そのまま潜伏を続け、1949年1月、戦犯指定解除と共に、潜伏期に書き溜めたこの作品を含め、著作を次々に出版して時代の寵児となる。そして1952年から1954年まで石川県選出の自民党衆議院議員を務め、その後は自民党を除名されたことから無所属で参議院議員に転じたが、1961年4月、僧衣でラオスはビエンチャンに現れ、「ベトナム戦争で、米国と共産軍の仲介を行う」と言い残し、現地ガイドと共に出発したが、そのまま消息を絶つことになる(その時点で59歳)。ネット情報によると、その後1965年6月、生死不明のまま、参議院議員の任期満了、そして1969年6月、前年7月に遡り死亡宣告が交付されたという、まさに波乱万丈の生涯を過ごしたことは間違いない。こうした人物の、最も有名な著作であることから、今まで一度読んでみたいと思っていたが、機会がなかった。今回、前期のとおり新版となり刊行されたことから、ようやく目を通すことができたのである。

 現実の東南アジアを主たる舞台にした「冒険談」であることから、面白くない訳がない。実際、読み始めると、次にどのような難関が待ち構えているかと、引き込まれながら読み進めてしまう。また当時の東南アジアの風物の描写も、興味深い。しかし、その内容は、読む前に勝手に想像していたのとは異なるところも多かった。

 例えば、この著作の発端は、敗戦後のバンコクであるが、私は、彼が潜行を始めたのはシンガポールだとばかり思い込んでいた。しかし、彼の物語は、北ビルマ(おそらくインパール)から、傷ついた身体でバンコク・ドムアン空港に降り立つところから始まる。敗戦直前の7月、タイ国軍の寝返りも噂されるこの町で、タイ国軍の攻撃から、数でははるかに劣る日本の駐屯兵を守る防御体制を構築するのが、そこでの彼の第一の仕事である。他方で、「同盟国」タイの青年総理アパイオンとの交歓も語られているが、連合軍の空襲は、バンコクにも広がっていたようである。謀略渦巻く、第二次大戦末期のバンコクの様子は、なかなか面白い。そして敗戦。彼は、アパイオンを始めとする信頼できる友人のいるタイで潜伏する覚悟を固めることになる。

 僧衣に着替えて、ある寺に、7人の部下と共に修行僧として篭ることになる。英軍の進駐を前に、在留邦人の身分証明書を受けるのが最初の関門。これを何とか通過すると、次には英軍進駐後の、更に厳しい在留邦人追及が迫っている。町では、経済力を握った華僑とタイ人の対立が激しくなる中、彼は、国民党の関係者とのパイプを捜し求めることになる。そうした中、僧侶も含めた在留邦人の一斉検挙が行われるという情報がもたらされ、彼は国民党の本部(「重慶地下工作本部」)に駆け込むことになる。

 私の以前の思い込みは、彼が敗戦前から国民等とのパイプを有しており、それを頼って潜行したというものであったが、ここで語られているのは、彼がバンコクで全く一から国民党との関係を築いたということである。それを可能にしたのは、華僑とタイ人との大きな騒乱に関する情報ということになっている。それだけで、この日本の軍人を、国民党側が直ちに受け入れたというのも考え難いが、恐らく彼には、相手に「こいつは使える」と思わせるだけのオーラがあったということなのだろう。彼らの支援で、バンコクからビエンチャン、ハノイを経て重慶に至る脱出計画が実行に移されることになる。

 以降は、まさに「ロード・ムービー」の世界である。監視の目を掻い潜り、バンコク中央駅から鉄道で移動するが、車中では聾唖者で通し、宿泊地では蚊と南京虫に悩まされる。国境の町ウボンからメコン川を渡りビエンチャンに。これも、国境警備と川の流れの双方と戦う決死の渡航であったが、それが、私がこの5月にラオス・ルアンブラバーンで航行した緩やかなメコンとは全く違ったものであったことは容易に想像される。

 ビエンチャンで一週間を過ごした後、メコンを下りタケク(ターケーク)を経由し、今度は来るまでサハナケット(サワンナケート)へ。途中匪賊の襲撃などもかわしながらの旅である。重慶政府高官への、戦後政策についての熱弁をふるったかと思うと、次には、「偽医者」ということになっていたことから、街の名産品であるパパイアを食べながら、住民の医療指南も行ったという。

 10日の滞在の後、今度は車でハノイを目指して出発する。安南(ベトナム)革命軍とフランス兵との戦いで焼き払われた村で、華僑が占領したフランス兵相手の商売をしている。銃声の渦巻く中での、自動車での川の渡航も一仕事であった。海岸沿いの街ユエ(フエ?)から海に沿って北上し、ビンという町に宿泊するが、ここでも、今度は安南人と中国兵との緊張が高まっていたが、安南人の商店では、「日本人」ということで品物を安く売ってもらったという。日本軍はベトナムではあまりひどい仕打ちは行わなかったようで、それがこの逸話を含め、その後のこの国と日本の関係を示唆しているように思える。こうしてハノイに到着し、そこの国民党本部に滞在することになる。

 「ハノイの夜は今をときめく中国の高級軍官で独占されているようだ。」こうした中国兵の我が物顔の振る舞いに対し、安南人の反発も強まっている。街には中国側に留用されている日本兵の姿や、日本語の古本屋なども目についたという。貧乏人向けには、盗品や略奪品を売る「泥棒市場」が開かれ、時には盗品を売りに来た安南人が、盗まれた当人である中国軍人に見つかり、半殺しにされている。革命本部は、ホーチミンに率いられた「越盟」と右翼的な「越南国民党」が対立しているが、著者は、ここではホーチミンの人気が圧倒的であると看破している。またハノイには、まだ日本軍の連絡部があり、そこで彼は、敗戦後最初の正月を、坊主と偽ったまま日本式に迎えたという。その後、2月には、国民党高官の夫人の移動に同行し、また日本人としては単独で昆明に向けて、飛行機で出発する。

 昆明到着後、マラリアでフラフラになるが、それを乗越え、米軍飛行士が操縦する機体で重慶に到着する。ここではソ連の軍用雑誌が売られ、ソ連の宣伝映画が上映されて人だかりができている。「明らかに、共産主義が、国家主義、民族主義、英雄主義にとって代わっている」という著者の印象は、革命の帰趨が決まった以降の出版時に書かれたものである可能性もあるが、その後のこの地域へのソ連の影響を考えると面白い観察である。またこの地で、著者が面識のあった、蒋介石の片腕である国民党の清廉な指導者、戴笠将軍の事故死の報に接するが、著者に言わせると、国民党の敗北は、彼の死が大きな要因であるということになる。「日本人は負けた経験がなくて狼狽したが、中国人は勝った経験がなくうろたえた。」終戦後の重慶の混乱を表現したこの表現は、中々当時の状況を言いえている感じがする。著者は、対共産党の対策を教える立場にいるが、使える資料は旧日本軍の資料ばかりで、国民党側にはたいした情報はなかったという。そうこうしている内に、南京への遷都が指示され、彼もドタバタとこの街に移動し、そこで彼は国防部の所属となる。ここで、特に国民党が慣れていない満州など寒冷地での戦闘指導などを行うことになるが、その時期、多くの面識ある日本の軍人が戦犯として中国で処刑されていったことが語られている(川島芳子の処刑にも触れられている)のは、戦後の悲しい現実を感じさせる。

 こうして戦略に関する報告の大作業をまとめたところで、帰国の意思を固め、中国軍の上官の承認を得た著者が上海経由で帰国の途に着くところで、この潜行記が終わることになる。巻末に、今回初めて発表されたという「我等は何故敗けたか」という小論が収録されているが、それは一般的な軍人の回想で、ここでコメントする必要はない。
多くの戦友が戦犯として処刑される中、そうした責任から逃れ、生き延びたことについての自らの悔恨は至る所に垣間見られ、またそれについては外部からの批判も当然あったと思われる。それにもかかわらず著者が戦後寵児となったのは、ここで語られている多くの困難を乗り越えて生き延びた冒険談が、敗戦後の日本の人々に大きな感動を与えたからなのだろう。確かに、この戦後の混乱した東南アジアから中国を経る隠密大旅行を遂行した著者の気力、体力と知力(そして幸運!)はとてつもないものである。そして彼が伝えている、この時代の各地の政治、経済、社会情勢は、たいへん興味深い。タイ人やベトナム人と華僑や中国人との緊張・対立などは、現代でも決してなくなったとは言えないし、その意味で、この作品が、戦後間もなくの時期の東南アジア情勢を伝える貴重な資料であることは間違いない。

 他方で、この作品が、彼が戦犯としての過去を抱えながら、ある意味、その時期の自分を正当化することを考えながら書かれた作品であることも忘れてはならないだろう。巻末の小論も、自分が中核を担った軍国主義日本を、傍観者的に論じたもので、そこでは多くの国民を苦難に晒した指導者としての責任意識は希薄である。その意味で、結局彼は、この作品の中では、軍人としての発想から出ることはできなかったと言える。

 ただたいへんな知力を持っていた彼は、最後にそうした自分の過去を一切清算するために、ラオスのジャングルに消えたのだと思う。彼が出発にあたって言い残した、「米国とべトナムとの停戦を仲介する」ということを、彼ほどの人間が、たった一人でできると考えていたとは思えない。その意味で、彼の失踪はまさに「自殺」であったので、同じ東南アジアはマレーシアの別荘から突然失踪したアメリカ人ジム・トンプソンと被るイメージもあるが、両者の最後は決定的に性格が異なっていると言える。そして実際、私も彼のこの最期がなかったら、そして彼が政治家としての名声を享受しながら余生を平穏に過ごしていたとしたら、この作品を読もうという気にはならなかった。ラオスや東南アジアのジャングルには、未だにこうした東南アジア侵略を進めた日本軍国主義の魂が眠っている。冒険談として面白く読めるが、その背後では、現在の平和で穏やかなこうした地域に眠る日本の過去の大きな傷を想起させてくれる作品である。

読了:2019年9月29日