アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
アジア全般
東インド会社とアジアの海
著者:羽田 正 
 3月に購入し、日本の自宅に配送されていたものであるが、コロナで家族のシンガポール来訪が直前キャンセルとなったことから、今回帰国後ようやく読むことができた。講談社学術文庫の作品は力作が多く、以前に読んだ「オランダ東インド会社」やアンコール王朝の興亡を扱った「東南アジア 多文明社会の発見」も、たいへん刺激的な作品であったが、この本はそれにも増して面白い。オランダ、イギリス、(そして私は知らなかったがフランス)東インド会社の興亡を核にした、17世紀から18世紀を中心とするインド洋から南シナ海、東シナ海に至る「アジアの海」での交易活動のリアルな姿を描く。著者は、1953年生まれであるので、私と略同年代。東大東洋文化研究所長を務めた後、東大の理事、副学長等も歴任している。この作品自体は、そうした行政職に就く前の2007年12月に執筆・刊行され、2017年11月にこの文庫版となっている。

 物語は、1498年、東アフリカ海岸の港町モザンビークの沖合に、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる3隻の船が現れるところから始まる。喜望峰航路とインドの「発見」である。そして、それにより、この地域では、ムスリムのみならず、ヒンドゥー、ジャイナ、ユダヤ、アルメニア系等多様なエスニック集団により従来から行われていた高級香辛料(シナモン、クロウヴ、ナツメグ)、金・象牙、綿織物などの交易に、欧米諸国が参入することになる。当時の主要な港町は、東からマラッカ、カリカット(南西インド)、カンペイ(北西インド)、ホルムス(ペルシャ湾)、アデン(紅海)、キルワ(東アフリカ)等々。そして重要なことは、内陸部の拠点を置く当時の政治権力は、こうした港町を支配することなく、むしろ交易が栄え、そこから陸揚げされた物資が内陸に持ち込まれる際に課税すれば十分と考えていたことである。その結果、こうした港町は、背後にある王国から相対的に独立して栄えることが可能になったという。しかし、ガマを始めとするポルトガルの艦隊は、こうした「平和」的な交易慣行を無視する武力行為によりゴア(1510年)やマラッカ(1511年)を陥落させ、この地域の香辛料貿易等を独占していったという。

 16世紀末に、こうしたポルトガルの独占を打ち破ろうとする勢力が現れる。オランダとイギリスである。1595年にアムステルダムを出港したオランダ初の東インド航海は、多くの犠牲を払いながらも膨大な利益をあげ、これが1602年のオランダ東インド会社の設立となる。またイギリスもそれ先立つ1601年に同様の会社組織を立上げ、その後は、この両国が、アメリカ新大陸の植民地支配コスト等に苦しみ国力が衰えたポルトガルに代わり、東アジア地域の交易の主体に躍り出ることになる。双方の東インド会社とも、民間組織であったが、夫々国王からの貿易独占勅許状を受けるなどの公的な支援も得る。著者は、こうした経緯を、国家の支援なく、ある意味放任で行われていた東アジアでの海上交易が、欧州に成立した主権国家、国民国家に支援された勢力により変質していく過程として描いている。バタヴィア等を拠点としたオランダ東インド会社の暴力・武力行為も、至る所で見られたという。他方、当初はポルトガルやオランダに太刀打ちできなかったイギリスも、インドで、地元支配者に巧みに取り入り、相対的には「平和的」に基盤を広げていくことになる。ただ東アジア地域での、こうした西欧の権益拡大はあったものの、17―18世紀のこの地域の交易は、中国人、イラン人、インド人、アルメニア人等も引続き活発に活動し、オランダやイギリスも彼らを利用するという「相互補完」的な関係が続いたとされている。
 
 著者は、日本を含む東アジアでの、特にポルトガル人や、最後に中国と共に、日本で単独交易を許されたオランダの動き等も詳細に描いているが、日本については、その後徳川幕府になって禁止されるまで、日本が銀の重要な供給基地であったという度々指摘される活動と、マカオのポルトガル拠点化の経緯などが面白い。

 この時代に、東アジア貿易で活躍した欧州人や、彼らとの間で誕生した混血児等、様々な人物模様が語られているが、これはたいへん面白く読める。前者に関しては、東インド会社が、駐在員に「私的」交易を完全に禁止していなかったことから、これにより巨万の富を蓄積したE.イェールたちの逸話が中心である。イェールは、イギリス東アジア会社のマドラス総督まで務めたが、私的なインドでのダイヤモンド貿易で富を蓄積し、帰国後彼の寄付により、彼の生まれ故郷にイェール大学が創立されたという。後者に関しては、長崎で混血児として生まれ、キリスト教徒化を懸念する江戸幕府の方針に従ってバタビアに移った「じゃがたらお春」の生涯などが特記される。また、彼らの交易品である香辛料や茶、綿織物が、欧州人に受け入れられたことで、欧州人の生活習慣が変化したり(喫茶の習慣の定着)、英国の綿織物生産の合理化から始まる後の産業革命に繋がったという指摘も面白い。

 18世紀に入ると、例えばインドでのムガール帝国(陸の帝国)が弱体化し、支配者の後継紛争等を通じて、イギリス東インド会社が力を強めることになる(「海の帝国」から「海と陸の帝国」へ)。貿易を行う者にとっても、後背地の権力が安定していることが必要であったが、それが揺らいできたために介入せざるを得ず、その結果として東インド会社の政治権力化が発生したという訳である。同じ頃、バタヴィアでも、マラタム王国等の内紛に介入する形で、オランダ東インド会社が「領土国家」となっていくが、ある学者はこれも「ためらいがちな領土拡大」と呼んでいる。そして、もともとは貿易会社である東インド会社が、「政治権力化」したことで、今度はそれを維持するための兵器や武器弾薬等の軍事費が増大し、それが今度は東インド会社の利益率を低下させる。18世紀半ば以降は、アメリカとの茶税を巡る争い(ボストン茶会事件)やベンガル等での飢饉による徴税額の減少、更にはアダム・スミスによる「自由貿易」論からの「独占」批判も加わる。こうしてイギリスとオランダ双方の東インド会社は、独占商社としての地位を失う等「移り変わる時代にうまく対応できなかった。」そしてオランダ東インド会社は1799年、イギリス東インド会社は18世紀半ばに解散するが、その時期、彼らの活動は貿易会社ではなく「国家の出先としての統治機関」となっていくのである。この著作では、イギリス東インド会社社員であるS.ラッフルズによるシンガポール領有やバタヴィアでの活動等については全く触れられていないが、それはこの物語の中では、衰退し性格が変容した東インド会社の最後の残り火のようなものと見做されたからなのだろうか。

 その他、17世紀半ばの、平戸生まれで日本人との混血である鄭成功による海上での清との戦いと、オランダ商館を追放しての台湾の制圧といった挿話も、初めて知るものであった。

 こうして東アジアでの海上交易を巡る壮大なドラマが終焉する。もちろん今まで多くの関連する作品で触れてきたこの時代のアジア地域での海上交易の姿ではあるが、こうして改めて、そこでの西欧とアジア其々の文明の交錯と、それが双方に新たな影響と変化をもたらしていく過程を眺めてみると、それはまさに世界の「グローバル化」の端緒であったという想いを感じる。その意味で、17−18世紀の東アジアは、グルーバル化の初期に、価格差を、武力を含めた様々な形で利用した勢力が巨万の富を築くことができた「呑気」な時代であった。そして当然のことながら、現代においては、情報を含め瞬時に世界を駆け巡ることになっているので、当時のように貿易活動から簡単に収益をあげられる状態ではなくなっている。しかし、そうしたグローバル化がもたらす「軋轢」と双方への影響と変化という点では、当時も今もさして変わっている訳ではない。ハイテク技術を巡る米中紛争は、低賃金を利用した世界分業体制の進展が、双方の陣営の経済力の変化とその結果としての政治力の変化をもたらし、それが新旧勢力の対立に繋がっていく。瞬間的には、それぞれが自分の陣営に有利になるような対応を行っているつもりであるが、実際の帰趨は歴史だけが答えることになる。これからの世界の変動とその中での日本のあり方を考える上でも、大いに刺激をもたらしてくれた作品であった。

読了:2020年10月9日