アジアの歴史
著者:松田 壽男
1971年の著作で、岩波現代文庫で2006年に再刊されたものである。著者は1903年生まれで、1982年に逝去している。「アジア史」と題されているが、副題の「東西交渉からみた前近代の世界像」のとおり、むしろアジア史に留まらない、大局観としての世界史の視座を提示しようという試みである。その際、アジア史が核になるのは、まさに前近代においては、南アジアや中東を含む「アジア」が世界史の中心であったという確信からである。
著者の出発点は、19世紀のランケに代表される西欧中心の世界史に対する批判である。それは、一言でいうと自己に関連ある史実だけを拾い上げる「切捨ての歴史観」であり、そこではエジプト、ビザンティンが作り上げた「地中海世界」は、西欧に影響を与えた「前史」としての意味しかなく、ましてやアジアは、西欧世界の尺度に合わない特殊な世界とされている。しかし、実際には前近代においては、地中海から中国に至る広大な地域が世界史を構成してきたのであり、その核がこれらの地域を緊密に結び付けた交易であった。そうした視点から、著者は、こうした多元的世界を鳥瞰する歴史を語るのであるが、その手法は、文明の中心となったそれぞれの地域の「風土」と、それによる産業構造の違い、そしてそれを相互に補完する交易の存在という切り口である。そして基本となる地域史については、中国を中心とするアジア、インドを中心とする南アジア、そしてイラン・イラクを中心とする中東を主として見ていくことになる。
まずアジアについては、地域を湿潤地帯(南部、季節風地帯)、亜湿潤地帯(北部、森林地帯)及び乾燥地帯(中部、砂漠地帯)に分け、それぞれの生活形態を、農耕(および海洋交易)、遊牧・狩猟、(陸上)交易とみなす。そしてその3要素の様々な形での交流が、地域と外部との歴史を形成してきたと考える(因に、この地域の風土的な見方はすでに7世紀初め、玄奘の西遊記に記されているという)。こうして、まず中部乾燥地帯にある中国の歴史が、華北黄土地帯での誕生から南部への拡大、北部遊牧・狩猟民族との関係、そして陸路を通じた東西交渉等が語られる。
続いてインド。もともとのインダス文明は、「乾燥アジア」のオアシス生活の上に成り立った都市文明であったが、アーリア人の侵入により、東方のガンジス河流域の「湿潤アジア」に移行すると、風土的には「農耕アジア」の発展を示すことになったという。しかし、中国と異なり、この二つの地域は融合することはなく、また南北で見ると、デカン高原が北部の平原で生存闘争に敗れた先住民の避難場所となり、また最南部は、セイロンを含め「海上活動に生命と発展を求める」海洋生活圏(それを担ったのがタミルである)を形成することになった。それが東南アジアの島々を経緯してインドと中国のみならず、中東を経由して、早くから広大な「海洋アジア」を作り、それが「湿潤アジア史の軸心を構成する」ことになる。これはまさに、私自身が東南アジアでの体験の中で実感した、古代から連なるこの地域の伝統となっていたことを改めて確認させる指摘である。この交易の中から、この地域への仏教やイスラム教といった宗教・文化、そして多民族の混在が進むことになったことは言うまでもない。
そして世界史の3つ目の軸となる中東は、著者の見解では「地中海世界」である。それは、前近代の地中海は、むしろ「アジアの海」、「アフリカの海」であり、それにヨーロッパ側が攻勢をかけたのが近代史であるという視点である。古代ギリシアは、都市という点を通してこの交易世界に関わったのみで、またローマ帝国以前にこの地域で活動していたのはフェニキア人で、彼らに交易物資を提供していたのは主としてエジプトであった。そして現在のイラクであるメソポタミアは、この「地中海世界」と、中国、インドを含めた東方世界との結節点となっていた。そしてそれ故に、西欧側からのこの地域への攻勢―アレキサンダー大王によるものにしろ、ローマ帝国によるものにしろーは、メソポタミアを巡る攻防が大きな鍵を握ることになったという。シリア地域は、ローマ帝国の辺境基地であったが、ここは文化的にはヘレニズム文化によりローマ本土を上回る輝きを放っており、また「東方貿易の中継地として、ほとんど唯一の位置を占めていた」とされるのである。そしてローマ側の「地中海世界」の中心は、帝国の東西分裂後は、ビザンティン帝国が担うことになる。他方、イラク中心の中東は、まさにこの東西交易の中継点として機能し、特に古代ペルシャ帝国からローマと対峙したササン朝ペルシャ、そして最後はオスマン・トルコといった、この地域を制圧した帝国が担うことになったと見る。また著者は、こうした中東と中国を結んだシルクロードの要衝としての西トルキスタン(サマルカンドはその主要都市であった)や、更に中国寄りの東トルキスタン(タクラマカン砂漠・タリム盆地を経て敦煌に向かう、ウイグル人の地域)の文化的特異性についても、あまり他では見ることのできない分析をしているが、ここでは詳細は省略する。
こうして著者の歴史彷徨は時代を少々下り再び中国に戻り、こうした東西交易の中で豊かな国際性を持った唐の文化や、その中華帝国がジンギスカンに率いられたモンゴル高原からの遊牧民(騎馬民族)に侵略される様子が語られる。ここで面白い論点は、漢民族とこうした「匈奴」との関係で、歴史として記録に残っているのは、侵略等、両者の関係が悪化する等の「異常事態」の出来事であり、逆に平時は、記録には残されていないが、両者の交易関係を含めた相互依存関係にあったという見方である。すなわち、「匈奴」は、単なる遊牧という一面的な経済手段のみで自給自足的な生活を行っていた民族ではなく、その先天的属性として商業性を持っていたと見るのである。ジンギスカンの帝国を含め、時として彼らが示す軍事性も、そうした「商業路」を抑える戦略的な活動とされる。著者は、この南北関係を、それぞれの戦略商品を被せた「絹馬交易」と名付けている。実際、モンゴル産の最高級品といわれる豹皮は、中国の貴人に愛用されたのみならず、ギリシア商人により欧州にも運び込まれていたのである。
終盤は、中世イスラム帝国の隆盛や、それに対応する西欧の十字軍派遣が、こうした前近代の世界史の流れを変えていく姿を追いかけていく。それを特に加速させたのが15世紀の大航海時代の始まりであったことは言うまでもない。しかし、その時代においても、オスマン・トルコ(スレイマン大帝)、ムガール帝国(アクバル大帝)、サファビー・ペルシア(アッバース大帝)といったモスレム帝国は最後の輝きを放っており、西欧の国々は、ここには手も足も出せなかった。彼らは、ビルマ、マレー、インドネシアといった「アジアの弱点を突く」戦略で、この地域への略奪的な進出を行うことになったのである。
こうして欧州の覇権が顕著になる19世紀以前の世界史は終わることになる。この文庫の解説を書いている山内昌之が、サイードの「オリエンタリズム」を引き合いに出しているが、この作品に、西欧中心の歴史観の「偏見と歪曲」を覆そうという東洋史家の強い心息を感じることができるのは間違いない。その後の世界史は、欧州中心の視点が主流となるが、それは世界秩序が欧米中心に展開されたことにあったことは言うまでもない。その意味で、昨今の中国の台頭と「偉大な中華帝国の復興」の動きは、世界秩序の変動と合わせて、世界史の転換になる可能性もあるが、しかし、それはもちろん、新たな緊張を生む。そしてそれが、この本では取り上げられていない日本の運命にどのような衝撃をもたらすかは、まだ誰も予想することはできないが、少なくともこの著作が、世界史という大きな流れを俯瞰的に見ることの重要性を教えてくれることは間違いない。
読了:2021年3月9日