アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
アジア二都物語
著者:岩崎 育夫 
 新しい職場とそのシンガポール拠点への赴任が決定して直ちに購入、浪人生活最後のインドネシアはバリ島での休暇でいっきに読了した。英国植民地であり、戦後独立して成功した二つの「オフショア市場」の歴史を、時に比較しながら分かり易く辿っている。著者は、そもそもはシンガポールの専門家であることもあり、特にこれからの生活拠点となるシンガポールの歴史と現在を頭に入れる上での最適の本である。ここでは特にそのシンガポールの歴史を中心に復習しておこう。

 この二都は、アジアと欧州の二つの顔を持った都市である。特にシンガポールは華人、マレー人、インド人とアジアの主要な民族が混在する「ミニアジア」で、また両都市とも町並みはイギリス風の歴史的建造物や雰囲気を残し、そして最後にグローバル化の中で英語が共通語として使われている。こうしたアジアの都市としては特殊な特徴が如何に形成され、そして今後どこへ向かおうとしているのか。この本は、それを簡潔に教えてくれる。

 アジアの都市の発展に大きな影響を与えたのが、西欧列強の植民地政策であったことは疑いないが、まずそれを簡単に整理しておこう。先行したのはポルトガルで、16世紀半ばにマラッカやマカオに貿易拠点を設け、続いてスペインがセブやマニラに太平洋貿易の基地を確保する。しかしスペインから独立したオランダが、17世紀になると東南アジアに進出し、バタビア(ジャカルタ)を中心に、コロンボや、ポルトガルから奪ったマラッカに拠点を構える。そして最後に進出したイギリスが、このオランダの拠点を、インドネシアを除き次々に奪っていくことになる。英国のアジアにおける拠点は言うまでもなくインドであり、ここでは総督府をおいたカルカッタ(コルカタ)、ボンベイ(ムンバイ)等が基点となり、コロンボ、マラッカを奪うと共に、18世紀末にペナン、そして1819年にシンガポール、第一次アヘン戦争後の1842年に香港を獲得するのである。最後に進出したフランスは、残っていたインドシナ三国で、都市拠点はサイゴンに置くことになる。
 
 さてシンガポールがイギリスの植民地となる経緯である。インド・中国貿易の中継基地を捜す任務を負ったのがイギリス東インド会社社員のスタンフォード・ラッフルズである。1781年に西インド諸島を航海中の船上で生まれ、14歳で東インド会社のロンドンに就職し、1805年にペナンに転勤、その後アジア拠点を転々とした「イギリス海外植民地の申し子」であった。彼は新しい拠点としてのシンガポールに目をつけ、1819年1月マングローブやジャングルに覆われたこの地に上陸、当時この地を支配していたマレー系のモスレム国家であるジョホール・リアウ王国の、マレー人とインドネシア系のブギス人の内紛を利用し、後継国王となった男を買収し、この島の利権を獲得する。この地域を勢力範囲としていたオランダは当然反発したものの、最終的には1824年の英蘭条約で、大規模な戦闘もなくこの地を手に入れたという。このシンガポールの植民地化の過程は、アヘン戦争という武力行使により中国に無理やり割譲させた香港とは対照的である。

 ラッフルズが上陸した時には150人と言われたシンガポールの人口は、この地が自由貿易港として振興するに従い急速に増加する。言うまでもなく仕事のあるこの土地に、貧しい農民や、ビジネスに賢い貿易商人が移動してくるのである。1821年(人口約5000人)では、マレー系が約60%と多数派であったが、1901年(人口22万人)になると、中国系が約71%と多数派に躍り出る。また面白いのは、両都市とも「出稼ぎ都市」として「成人男性社会」であり、例えばシンガポールの中華社会の男女比率は1845年で14:1であったという。

 次にシンガポールの町つくりであるが、「功労者」ラッフルズは別の任務ですぐに島を離れたことから初代総督のファークハルにより進められることになる。シンガポール川河口付近のイギリスの行政・商業・住宅地を中心に、それを囲むように中国人、マレー人、インド人の居住地が整然と指定されたという。また面白いのは、当初イギリスは、シンガポールをインド人囚人の流刑地とし、彼ら(1857年でこうした囚人が既に3000人いたという)を都市インフラ建設の労働力として使用し、また後には治安維持のための警察官として、マレー人と共にインド人、特にシーク教徒を採用したという。欧米人の支配層が、数としては多数派である中国人を支配するためにインド人を使うという「間接統治」は、まさにどこかの会社のシンガポール拠点そのものであり面白い。こうして19世紀中ごろのアジアに「民族棲み分け」と「イギリス風街並み」という二つのコンセプトに象徴される都市が出現することになる。

 著者は、この時代の移民労働者の生活を想像している。植民地支配者である、本国では下層・中流出身のイギリス人が、「擬似ロンドン上流社会文化」を享受していたのに対し、一般労働者は、特に中国人の場合「クーリー」と呼ばれる単純労働者が大多数であった。彼らの大多数は「サブシステンスレベル」以下の生活を強いられていたが、それでもこの街には「故郷では絶対に見つけられない仕事の機会があった」のである。そしてもう一方の主人公が「貿易商人」であった。ここで著者は二都が中継貿易の中心として成長する姿を描いているが、両都市ともその最大の武器は「自由貿易港」として取引税や入港税を撤廃したことで、その結果シンガポールの場合は、マラッカから地位を奪ったという。産業革命で大型蒸気船が開発されるとヨーロッパーアジア間の交易は急増、シンガポール側も、従来の港であったボートキーではなく、テロクブランガーからタンジョンパガー地区に大型船が入港できる体制を整えていった。シンガポールの貿易品は、初期が、マレー半島のすず、金、胡椒、タイやベトナムの米、砂糖、中国のお茶、絹、食品、陶磁器等々、19世紀末になるとゴム・すず、米、砂糖等の大規模プランテーションで生産された商品作物であり、交易地域もほぼ世界の全ての国、地域に及んだという。また香港の場合は、こうした商品に加え、アヘンと「クーリー」というヒトの交易でも潤ったという。

 こうした交易を支えたのが、シンガポールではまずはスコットランド人アレクサンドラ・ガスリーが1821年に設立したガスリー社のようなヨーロッパ大商社であり、この周辺に「買弁」と呼ばれるアジア人商人の会社が現地アジア人との仲介機能を果たしていたという。こうした「買弁」の代表として、マラッカ生まれの華人タン・キムセンが設立したキムセン社があるという。またタン・カーキーやリー・コンチェン等、ゴム商売で稼いだ資本を使い、パイナップルなどの食品加工や、海運、銀行業等からなるコングロマリットを築いた資本家も現れたという。こうした初期の貿易商社や資本家が現在どうなっているかは、現地に行った後に是非調べてみたいテーマである。

 都市下層民は、夫々の出身地別の相互扶助組織に支えられていたというが、シンガポールは、日本人にとっても東南アジア最大の「からゆきさん」の街であり、中心街から少し北東へいったミドル・ロードと呼ばれる地域が19世紀末から日本人街になったという。
 
 こうして発展してきた二都であるが、幕間劇として、1940年代の日本軍による占領の時代が挿入される。日本軍は、真珠湾攻撃と同じ1941年12月8日、香港のカイタク空港とシンガポールの空港を空爆、その数時間前にマレーシア北東部のコタバルとタイのパタニに軍隊を上陸させ、シンガポールの英国軍の予想に反し、北からシンガポールに迫り、1942年2月15日にシンガポールは陥落する。香港がクリスマスの12月25日に陥落したのと同様、シンガポールのそれは中国の旧正月にあたっていた。こうして日本の占領下の4年が始まることになるが、この間いったん避難民で溢れたシンガポールの人口も、日本軍の強制送還や移住政策もあり減少、モノ不足とインフレにより住民生活は破壊される。また政治的にも日本が過酷な軍政統治を行い、イギリス協力者、共産主義者、中国政府協力者の処刑を行った他(チャイナタウンにその恐怖政治の石碑がたっているという)、生活の日本語化も強制したという。この結果、同じ支配者(抑圧者)でも、イギリスには「反発」と「まぶしさ」を憶えても、日本には「恐怖」と「嫌悪」の感情しか残らなかった、という。この歴史は、これからのこの地で生活していく際に忘れてはならないものであろう。

 この恐怖と不安の幕間劇は1945年8月に終わり、戦後の復興と独立の動きが始まる。戦前に植民地支配の補助集団としてイギリスが育てた現地人の中から独立の中心となる「墓掘り人」が生まれる。シンガポールでは、英国留学組のリー・クアンユーがその人であった。但し、シンガポールの場合は、その自由貿易の基点としての性格から、直ちに独立運動が高揚することはなく、むしろ英国の帰還による経済的利益の享受を歓迎するという傾向のほうが強かったことには注意する必要がある。実際英国は、1946年、シンガポールをマレーシアから切り離し、マラヤ連合と別の植民地とする。その結果、マラヤ連邦は1957年に独立するが、シンガポールはしばらく植民地のまま留まることになる。

 しかしシンガポール内では、リー・クアンユーら英語教育グループの民族主義者と、華語教育グループで中国的なものに愛着を感じる共産主義勢力との間で、壮絶な政治闘争が繰り広げられたという。1963年9月の総選挙でリー・クアンユーの人民行動党は、共産主義勢力に勝利し、同時にマレーシア連邦の12番目の州としてイギリスの植民地から離脱する。しかし統合直後から、今度はマレー人が主導する中央政府と、華人が主導するシンガポール州政府の間で軋轢が発生し、種族暴動等も経て1965年8月、シンガポールは時のマレーシア首相ラーマンから「追放」され、「都市国家シンガポール」が誕生することになる。この分離が、必ずしもシンガポールが望んだものでなかったことには注意が必要である。イギリスの後ろ盾を失い、且つ周辺地域とのパイプを切断された「都市国家」は生存そのものが懸念されたのである。こうして戦後のシンガポールは、中継貿易の基点という第一幕から、工業化による発展という第二幕に移っていくのである。

 シンガポールの工業化は1959年以降開始されるが、当初のマレーシア市場を想定した輸入代替型から、マレーシアから分離・独立して国内市場を失った1965年以降は、輸出志向型へ転換する。しかも、香港が繊維産業や食品加工、雑貨製品等の軽工業に重点を置いたのに対し、シンガポールは「中東と日本の石油輸送の中間に位置し、かつ周りを海に囲まれているという地理的優位を生かし」、造船業や石油精製等の重化学工業の育成に注力した。そしてその資本を「世界の有力企業を誘致して工業化の担い手とする」戦略を採用したのである。インフラを整備した工業団地を作り、そこに欧米日の有力企業を誘致する政策は成功し、1970年代の製造業投資の8割が外国資本を占めるという成長のスタイルを確立する。こうしてシンガポールの産業構造は、1960年の、商業32%、製造業11%、金融・サービス14%という構成から、1980年には、商業22%、製造業29%、金融・サービス20%へと転換したのである。

 以上のとおり、シンガポールの産業化を担ったのは主として外国資本で、シンガポール人企業は伝統的に貿易や金融を得意としたという。しかし、そうした中でも巨大企業を形成する人が登場する。その一つが、ホンリョン・グループで、グループの創始者で1929年福建省から来た「貧しい典型的な移民クーリー」であるクエック4兄弟が、工業化の開始と同時に日本企業と合弁で始めたセメント会社があたり、不動産、ホテル、金融などから構成されるコングロマリットとなっていったという。私がオフィスを構えるビルの向かいに立つ45階建てのホンリョン・ビルがこのグループの本拠地である。またその他に、リー・コンチェン一族の所有するOCBC(華僑銀行)グループ(銀行を中核に、保険、新聞、食品、ビール、すず、ゴム、機会、ホテル、不動産等)、UOB(大華銀行)グループ、OUB(華連銀行)グループがあるというが、これらは全て、これまでの私の短い現地滞在で既に目に付いた名前である。

 私がこれから飛び込むシンガポールの金融市場の発展についても見ておこう。言うまでもなく、これはオフショア市場としての発展であるが、1968年に政府がアジア通貨勘定による「アジア・ダラー市場」を開設したことで始まり、外資系銀行により進められた。東南アジアの開発本格化と共に、銀行数は1970年の地場11行、外資系26行から、1989年には地場13行、外資系123行と、外資系が急増する。しかし他方でOCBCグループ等に象徴される地場銀行は引続き国内市場では強力であるという。また香港と共通する特徴としては、周辺国の華僑が中国投資を行う場合に、直接投資を行うと差し障る場合にこうしたオフショア市場を利用するケースが多いという。こうした地域投資センターとしての姿を物語るのが、スハルト時代にインドネシア最大の企業グループに成長したサリム・グループで、この福建省からのクーリー移民である創始者サリムはスハルトに取り入って巨大コングロマリットを形成し、香港、中国、欧州等に投資を広げたという。シンガポールでも「成長の三角地帯(マレーシアのジョホール州とインドネシアのリアウ州との経済圏構想)」と呼ばれたバタム島投資等を行うが、スハルト退陣後糾弾され、現在彼はシンガポールで亡命生活をおくっているという。

 こうした工業化を経て、20世紀最後になるとシンガポールでも工場労働者や商店員といった中間層が社会の中心勢力となり、またこうした中間層を中心に「シンガポール人意識」が生まれてくる。移民社会から定住社会への移行が行われたのである。著者は、近代化した二都の社会を描いていくが、これは、多言語社会という点を除けば、一般の先進資本主義社会と同じである。貧富の格差は当然存在し、英語教育を受けた高級官僚、政治家、医者、弁護士、企業の上級管理職らが社会の上層を占めるのはどこでも同じである。言語については、シンガポールの公用語は英語、華語、マレー語、タミル語の4つであるが、国語とされているのはマレー語という「政治的虚構」があるのは面白い。生活水準の上昇で、少子高齢化も進んでいるという。福祉国家の実現により、政治アパシーが広がり、「現状満足派」が増加しているのは、この本では掘り下げられていないが、シンガポール政府の管理政策が浸透していることを物語っている。

 こうした社会が、これからどこへ向かうのか?政治的には、第三世代でリー・クアンユーの長男であるリー・シェンロン首相(第二代首相はゴー・チョクトン)の率いる人民行動党政府の支配は磐石であるという。そして世界の政治が民主化と国家機能の縮小に動く中、シンガポールは政府の強大な指導力で政策を進めるスタイルを取っている。多くの人が言うように、この国は、「明るい北朝鮮」として、政策が正しければたいへん効率的な政策運営を行うことができる。また安全保障上は、かつての宗主国英国に替わり、世界の警察官である米国を後ろ盾にすると共に、ASEANにより近隣諸国との円満な関係を維持・強化しているが、この政策は現在までのところ成功しているように思える。他方、管理国家と権威主義に嫌気を感じた海外への移民もあるようで、1986−88年のように、海外への流出者が流入者を上回ったこともあったという。またこの都市が「文化や芸術への配慮がない」という指摘も、「住み易さ」の反面としての「刺激の欠如」を物語っている。

 ASEANの今後の展開は、今後の私の課題の一つであるが、この拡大について、現在は、「ASEAN+3」の中国案と「ASEAN+3+インド」の日本案が対立しているという。当然、日本は中国の影響力の拡大を阻止する枠組みを作りたいところであろうが、これに中核的ASEAN諸国がどう反応するかがポイントであろう。他方、著者は、グローバル化の反動としての「宗教と民族アイデンティティの覚醒」が及ぼす影響にも言及している。そもそも民族的、文化的な自己主張は行わないことがこの都市国家の「優位性」でも「欠点」でもあったが、これらの要素が政治的影響力を増した時に、「根なし草」として国際社会で認知されないというリスクを抱えているというのである。

 シンガポールは香港と共に、「イギリスがアジアに創ったヨーロッパ近代化と都市化のモデル都市」、「近代世界と繋がったアジアの窓」として、「近代ヨーロッパを軸にするグローバル化をアジア各地へ伝播・浸透させる歴史的役割」を担ってきた。この結果、これらの街は「ビジネスに最適な町」として引続き欧米人を引き寄せている。実際、私がこの3月まで在籍した企業も、こうした利点を巧みに利用し、地域としてのシンガポールのポジションを上げてきた。

 しかし、そこで私も主張していたとおり、そうした「グローバリズムの窓」ということと、「宗教と民族性」を持った周辺各国でのプレゼンスの上昇というのは異なった問題である。やはりシンガポールの国家原理とそこでの行動は、「他のアジア諸国」とは異なるのである。即ち、「根無し草」であることは、欧米のみならず周辺のアジア民族国家にとってもこの都市の「利用価値」を高めているが、逆にこの都市が自らの政治手法や文化をアジア周辺国家に押し付けると、それは大きな反動となって返ってくることになるのである。これを認識しないと、恐らくシンガポール自体も国家戦略を誤ることになるのではないだろうか。約一ヵ月後に始まろうとしているこの都市での課題の幾つかを認識させてくれた作品であり、今後滞在中に何度も立ち返る原点になるような気がする。

読了:2008年3月27日