アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
リー・クアンユー回顧録(上下)
著者:リー・クアンユー 
 現在の住居に移り、船便を受け取った直後から読み始め、2か月かけて読了した。もちろん最初は、自分の勤務する国の建国の中心人物の回想を最低限勉強しておこう、ということで、出発前に中古本を購入したのであるが、実際に読み始めてみると、単なる勤務地の勉強という以上に、内容の濃いものであることが分かった。政治家の回想としては、以前にシュミットやサッチャーのものを読み、特にシュミットの作品は、単なる回顧録というよりも、明瞭な哲学・思想に支えられた政策決定過程の克明な記録であると共に、個人としての能力の高さに大きな尊敬を覚えたものである。その時にも、おそらく日本の政治家で、ここまで明瞭に自分の思考や政策を跡付けられる者はいないのではないか、と書いたと思うが、今回読了したこの「シンガポール建国の父」もそれに負けず劣らずすごい人物である。丁度私の父と同年代のこの男が、偶々政治的な闘争に勝利し、シンガポール建国と発展の中心人物となったのであるが、確かにそれに値する能力を持っていたことは疑いない。

 上下巻からなるこの原著は、上巻が1998年9月、そして下巻が2000年9月と、其々別のタイミングで発表されたものである。そのため、上巻は、ほぼ時間の流れに沿って1965年8月の独立までを扱っているのに対し、下巻では、時期的には独立以降を取り扱うが、むしろテーマ毎にまとめるというスタイルをとっている。そうした違いはあるが、全編を通じて、非常に分かりやすい記載になっているのは、ある意味で、著者の考え方が非常にシンプルで且つ一貫しているからであろう。それはあえて簡略化して言えば、反共主義と経済的合理主義である。シンガポールの戦中戦後の歴史は、著者の基本にあるこの発想に従って展開されることになる。

 長大な作品であることから、記載の細部には立ち入らず、むしろ今後の自分のシンガポール滞在にあたり留意すべきテーマ毎にポイントをまとめていきたいと思う。

 まず著者の経歴の概略である。私の父と同じ、1923年の生まれ。丁度、これを読了した翌週9月16日火曜日が、彼の85歳の誕生日である。祖先は中国系の客家で、19世紀半ば、ジャンク船に乗って広東省から移民してきたクーリーの一人。下巻に中国の指導者からシンガポール成功の秘訣を聞かれ、「教育のなかったクーリーの末裔である我々が成功したのだから、優秀な人材が残った中国が成功しないはずがない」と答えるくだりがあるが、まさにシンガポールの中国系移民全体がそうであるように、本土で食いっぱぐれてシンガポールに職を求めた移民の末裔である。父は、裕福ではあったが、社会的地位は低く、彼は、むしろ船会社で英国人と共に働いていた祖父の影響を受けて育ったと書いている。

 祖母の教育方針に従い成長し、シンガポールの名門ラッフルズ学院の中学校に入学。英国風授業を英語で受けた後、法律家を目指しラッフルズ・カレッジに進むが、ここでその後生涯を共にするチューと出会うことになる。常に成績で一番をとってきた彼が、彼女だけには成績で勝てなかった、といっているのは、老人ののろけであろうか。またこの時代に、多くの青年がそうであるように、初めて社会問題に対する意識が目覚めることになるが、彼の場合はそれがマレー系と中華系の民族対立という問題であったという。

 1941年12月8日、ラッフルズ・カレッジ在学中に日本軍の侵略が始まる。翌年1月、日本軍がジャホールに迫る中、彼はキャセイ・シネマ(我が家の近所である)で、日本人をおちょくった喜劇を見るが、実際の日本人はその逆で、勇気、力、そして軍事能力を持っていたとコメントしている。しかし、2月15日の春節(旧正月)にシンガポールが陥落(「英国史上、最悪の災難であり最大の陥落であった」チャーチル)すると、今度は日本軍による残虐行為(タナ・メラでの大量虐殺など)に大きな怒りを覚えることになる。アジアの一民族である日本軍が英国軍を打ち負かしたということで、それまで彼の中でも当然とされてきた「白人神話」は崩れたが、日本人の支配は英国人による支配よりも耐えられないものであるという感情が植えつけられることになる。こうして彼が18歳から22歳という多感な時期にこうした感情(「同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」)を持ったことが、その後、何度も繰り返される「戦争謝罪をしない日本」という批判になっていくのである。ただ、日本軍の占領下で、彼は日本語学校の一期生となり、その上で日本の会社で働き、また日本軍報道部で英語報道をチェックする仕事をしていたという。自分自身は日本軍の協力者ではなかったように、注意して書かれているが、こうした経験が公に日本を批判する立場を貫かざるを得ないような政治的・心理的要因になっているのではないだろうか?同時に、彼は、日本軍の支配から、人々は恐怖心により支配されるということも学んだとして、現在に至るまで続いている「違反行為はすべて刑罰で罰する」というこの国の方針に生かされることになる。

 戦後のシンガポールで、抗日戦線で名前を上げたマラヤ共産党が、英国の暫定支配する社会の中で混乱を拡大させていく様子が語られるが、当初は著者はまだ傍から見ているだけである。家族はオックスレイ・ロード(我が家から至近の位置である)に新しい家を見つけ、彼は労働者ブローカーのような仕事で小銭を稼ぎ、そしてチューに英国留学計画を打ち明ける。1946年9月、自身の23歳の誕生日に、彼は英国に向けて出発する。

 著者はまずリバプールに到着し、ロンドンに移動するが、知り合いもなく、また英国自体が戦後の混乱期にあった中でのセトルメントは、想像もできないくらい大変なものであったと思う。まずLSEに通い、H.ラスキの講義で初めて社会主義理論に接したりするが、すぐに大都会ロンドンでの孤独感とカルチャーギャップに耐えられなくなり、ケンブリッジに移動。そしてこの地方都市でようやく落ち着いて法律の勉強を進めると共に、チューを呼び寄せる算段を行う。著者に遅れること1年、1947年8月、チューがリバプールに到着し、12月、本国の両親らには内緒のままストラットフォードで結婚の届け出をするのである。

 この英国留学を通じて、著者の中の反英国意識が強まっていったとしているが、その要因は、そこで経験した人種差別意識であったという。そして、弁護士資格を取るため、ケンブリッジ卒業後、法学院に進むと共に、既にシンガポールを含むマラヤの中国人学生で進んでいた独立運動(但しイデオロギー抜きの非暴力運動)に参加し、また同時に英国の選挙運動も経験する。1950年5月、彼ら二人は弁護士の資格を得て、1950年8月、シンガポールに帰国する。そして、振り返って、この4年の英国留学は「満足感と喜びでいっぱいだった」と感じるのである。彼の英国贔屓は、人種差別意識は感じたものの、結果的に十分な経歴を与えてくれた英国でのこの原初体験から来ていることは間違いない。

 帰国後、英国人の法律事務所に職を見つけ、またチューの両親の了解を得て、正式に結婚。披露宴をラッフルズ・ホテルでやったというのは、いかにも上層階級の中国人家族の結婚という感じである。

 私生活が落ち着き、弁護士活動が軌道に乗ってくると、今度は英国人の植民地支配に対する不満が鬱積してくる。彼は民族政党の関係者と連絡を取り始める。こうして1952年、郵便局員の賃上げを巡るストライキに弁護士として関わり、初めて植民地政府との政治的な対立の現場に足を踏み入れる。そしてこのストライキの勝利で、弁護士としての彼の名声が高まり、労働者の中に基盤を見出すことになる。そしてそれから、彼の政治家への道が進んでいく。

 この過程の詳細は除くが、やはり注目すべきは、多民族・多言語社会のシンガポールで政治基盤を広げるために、中国語、それもマンダリンから始まり福建語やマレー語も必死で習得していったということ。そして、当初は、反英国民族戦線として共産主義者と連携しながら、彼らとは一線を画した運動を繰り広げていったということであろう。特に、英語支配層から隔離された華人社会の不満が高まり(時折暴動が発生していたという)、そこに共産主義勢力が支持基盤を広げている状況で、いかに華人社会から民主社会主義者として支持を得るか、というのが大きな課題であった。1954年11月、彼は同志たちと共に人民行動党(PAP)を立ち上げ、1955年4月の総選挙で、タンジョン・パガーから立候補し、代議士としてデビューする。以来、現在に至るまで、彼が率いたこの政党が事実上の一党独裁政党としてシンガポールに君臨することになるが、この回顧録の政治的部分の記載は、如何にこのPAPが現在の位置を確保することができたのかの回想であるといってもおかしくない。

 PAPは、民族主義政党として共産主義者も参加したが、それは其々の勢力が最終的な党の覇権を握るための便宜的な手段と考えたからであった。英国植民地主義に対する戦いの一方で、共産主義グループのカリスマ、リン・チンシオンらとの党内闘争も激しくなる。共産主義グループはPAPを隠れ蓑に、植民地政府と対立する暴動を陰で扇動。著者は、合法的な反政府の論陣を張りながらも、政府与党の英国人とも連絡を取り、対立が先鋭化しないよう腐心していく。言語政策が議論になった際も、時の政府提案の所謂「三言語政策」を支持しながら、華人社会とその他の民族の間の微妙な位置を維持するのに成功する。

 こうしたシンガポールでの植民地政府と共産主義者それぞれとの戦いに加え、マレーシアとの関係が、新たな問題となる。マレーシアでは、スルタンの家系で、英国留学の経験もある「親英国派で反共産主義者」のラーマンが民族主義政党を率い、英国と独立に向けた協議を続けていた。一方シンガポールも独立を目指すが、英国はシンガポールがより共産主義に脆弱であることから、マレーシアと統合した形での独立を望んでいた。PAPの中でも、完全な独立を目指す共産主義者とマレーシアとの統合による独立を目指す著者らとの意見対立が亢進する。著者は、この対立では同じ英国留学生であるラーマンをうまく使っていく。PAPの共産主義者たちは反政府暴動を扇動し、それに対し政府は取締まりを強化し、暴動の首謀者たちを逮捕する。しかし、この強硬策が華人社会を中心に益々反政府意識を強めていった。こうした中で、著者らは、いかに華人社会の支持を獲得するかにエネルギーを集中していく。1959年5月の選挙でPAPが第一党になると、党内共産主義者との覇権争いが益々激しくなる。彼は第一党党首として首相に就任するが、彼はその時35歳であった。

 1960年5月、シンガポールの華人に対する恐怖感から、ラーマンがシンガポールをマラヤ連邦から除外するという方向に転換すると、反共主義者ラーマンを使い、共産主義者を牽制していた彼の立場も難しくなる。彼の戦略は、基本的に、PAPに対する華人社会の支持を得るために共産主義者と手を組むが、マレー連邦に帰属することで反共のマレーシアの力を借りて共産主義者を押さえ込み、彼らの暴発を促すというものであったが、そのマレーシアが彼に圧力をかけ始めたのである。共産主義者は、PAPの対立政党を暗黙のうちに支持し、シンガポール独立を掲げる。彼は、英国植民地関係者を必死に説得しながら、ラーマンに対し、マレー連邦にシンガポールを含めるよう説得。その結果、1961年12月、シンガポールを含めたマレー連邦が樹立され、更に翌年9月、シンガポールでの国民投票により、それが最終的に承認される。彼は共産主義者によるシンガポールの分離独立の動きに勝利したのである。

 しかし、今度は、このマレー連邦は、スカルノのインドネシア及びフィリピンの反発を受ける。偶々発生したブルネイでの暴動とそれに対するインドネシアの支援が明らかになり、そして1963年1月、そのインドネシアは「マラヤは植民地主義と帝国主義の道具」だとする対決政策「コンフロンタシ」を宣言する。スカルノの反マラヤ・アジテーションが激しさを増す。面白いのは、マレー人が、ジャワ文化に対して劣等感を持っており、ラーマンは、スカルノの攻勢に大きな恐怖感を持っていたという指摘。この地域の歴史的感覚の一端を示しているように思える。

 1963年の総選挙でも勝利した彼は更なる権力基盤強化に邁進する。シンガポールの華人社会のドンの市民権を剥奪し、マラヤ共産党代表者を追放する。一方でインドネシア工作員は爆弾テロを行い、揺さぶりをかける。ラーマンは、マレー人至上主義に基づく「多民族のマラヤ連邦」を掲げ、マラヤ全体での華人の権利確保を目指す著者の期待を裏切っていく。特にマレーシアの政党幹部が、マレー感情を鼓舞し、シンガポールの華人支配を非難し、これがゲイランサライでのマレー人と華人の大規模な衝突に発展すると、ラーマンは、「解決策はシンガポールの分離しかない」と漏らし始める。シンガポールの分離独立は、かつての共産主義者の主張であるが、資源のないシンガポールがマレーシアから分離して生存することはできず、またマレーシアの華人を見捨てることになるということで潰した経緯がある。独立により、マレーシアの反共主義を利用して抑えてきた共産主義者の復活も懸念材料である。他方、インドネシアは、逆にマレーシアから独立すれば、断絶しているシンガポールとの通商を再開すると申し入れてくるが、彼はこの提案は公式に拒否する。こうしてマラヤ連邦におけるシンガポールの位置の見直し=分離が技術的な部分も含め議論されていく。マレーシアからのPAPとリー批判も激しくなる。この過程で登場したのがマハティルであるが、彼もPAPは「華人びいきで共産主義に起源を発し、反マレー」であると演説する。著者はそれに対抗し、マレーシア議会で、マレー語で演説し、シンガポールが目指すのは多民族が平等な権利を持つ社会だと主張するが、マレーシアには届かない。この演説をきっかけに、ラーマンはシンガポールをマラヤ連邦から追放する決断をする。著者も、分離は避けられないと考え、分離した場合の懸案にひそかに対応する。PAP内部でも分離に反対する勢力があり、彼らへの説得も必要であった。そして何よりも分離に反対する英国に知られずに、この準備を進めなければならなかった。そして1965年8月9日午前10時、ラジオを通じてシンガポール独立宣言が読み上げられ、同時にマレーシア議会においてもシンガポールの分離が決議される。後に、ラーマンは自分の著書に「マレー連邦の成立と分離の双方に貢献したリーへ」との皮肉に満ちた献辞を記載して著者に贈ったという。(以上上巻)

 下巻では、独立以降、シンガポールが辿った道を、テーマ毎にまとめると共に、外交を中心に、著者が接してきた各国の指導者に対する印象を中心に記載している。

 1965年8月、42歳で独立国家シンガポールの首相になった著者であったが、問題は山ほどあった。最大の懸念は、国の安全保障で、特に英国軍がいつまでシンガポールに駐留してくれるかという問題であった。英国の経済力の衰退で、かつての帝国を維持する財務力がなくなっているのは明らかであった。またマレー人中心に構成されている国軍は、いつ何時マレーシアの急進主義者の意向を受けて、クーデターを企てるかもしれなかったという。また経済面では、「対決政策」をとるインドネシアや、シンガポールを経由しない直接交易を模索するマレーシアに囲まれている環境で、如何に経済活動を維持、発展させていくかというのが重たい課題であった。

 そこでの回答はまず国軍の創設であったが、面白いのは、この過程でイスラエルが協力を申し入れ、国内モスレム系の反発を受けないように、内密で支援を受けたというくだりである。人口の少ないシンガポールの国軍創設は、同じ環境にあるイスラエルの国民皆兵方式が適合するとして徴兵制度を導入する(著者は、イスラエルと同様、女性の徴兵も考えたようであるが、これはさすがに同僚の反対にあい、諦めたという)と共に、国民意識の高揚のための施策をとったという。

 1968年10月、インドネシアの特殊部隊が、オーチャードの銀行を爆破し、市民3人を殺害。スハルトの圧力にもかかわらず、犯人を法律通り絞首刑にしたため、インドネシアとの関係が緊張する。またマレーシアでの、マレー系と華人の民族対立も、国内で緊張を高める。こうした環境で、訓練場所のないシンガポールは、台湾やフィリピンの協力を得ながら、90年代に向け強力な国軍を育成することに成功したという。

 英国軍の撤退は、時間の問題であった。著者は、当時の労働党政権のウイルソン首相、ヒーレイ国防相らと密接にコンタクトを取るが、英ポンドは切下げを余儀なくされ、彼らがポンド建てで英国に積んだ準備金も目減りする。虚々実々の交渉が行われた後、英軍は1971年12月、シンガポールから撤退するが、それまでに著者らは軍事面、経済面でのある程度の準備ができたという。

 経済基盤の育成については、ウィンセミウスという経済顧問が大きな役割を果たすことになる。彼の提案は、@共産主義の根絶やしと、Aラッフルズの胸像の保存であった。前者はともかく、後者は象徴的な政策であるが、これは欧米資本を呼込むために、欧米に対する敬意を示す、という提案であった。マレーシアとの共同市場育成という期待が持てず、インドネシアが敵意を抱く中、彼らは欧米資本に依存する経済政策を確認する。また英国撤退による経済面での打撃を回避するため、同じ経験を有するマルタを訪れた際、「援助慣れした」経済労働者の姿に接し、「自助精神の育成」を確信したという。英国軍事施設の民間転用も進める。セントーサは、英軍グルカ兵の駐屯地、フォート・カニングは日本占領までの英軍本部、チャンギは英国の軍事空港であったという。基地周辺に英国が作ったゴルフ場も引き継ぐことになる。

 著者は、シンガポールのおかれた不利な立場を克服し、経済成長を行う最良の方法は「米国多国籍企業と共に歩むこと」であると確信する。当時の新植民地主義的な懸念を無視して、積極的な誘致策と雇用の創出を図るというアイデアは、ある意味では、その後、そもそもの宗主国である英国が、戦後の経済停滞から脱却するために採用することになる政策である。著者らは、言わば隔絶された都市国家で、これを本国に先駆けて実行したと言えるのである。EDBが設立され、工業団地のインフラ整備と企業招致を進めるが、後にはその金融部門が独立しDBSになったという。外資の直接投資は、1968年に進出を決めたテキサス・インストゥルメントが突破口になった。他方日本の投資活動は鈍く、特にシンガポールの狭い国内市場がネックであったというが、米国企業の成功を見て動き始め、85年のプラザ合意以降は急増、90年代半ばには東アジアの製造業投資で最大の国となった。ドイツのカメラ会社ローレイの失敗といった事例も産業競争力について考えさせてくれる例である。

 続いて、私の仕事に関係する金融センター創出の歴史が語られる。言うまでもなく参考にしたのはロンドン金融市場であり、1968年から85年にかけて非居住者の預金利子収入に対する源泉徴収を撤廃することにより「アジア・ダラーのオフショア市場」としてインターバンク資金調達から証券、デリバティブに至るまでの取引市場として成長することになる。当然人的、物的インフラに対する欧米金融機関の信頼が必要であり、それの育成が政府の役割であった。他方、スレーター・ウォーカー証券、BCCIやブルネイ国立銀行に関わる事件のように、不法行為や詐欺から市場を守った例や、95年のベアリング事件や97年の通貨危機への対応も語られる。更に、政府系投資会社であるGICの設立経緯や、運用拡大の過程といった、実務に関連する情報も語られている。設立当初にロスチャイルドを顧問に指名したことや世銀のウォルフェンソンを投資顧問として迎えたというのも面白い。国内の銀行の国際競争力をつけるために、外国銀行への規制を緩和し、競争を通じて体力をつける政策をとったというのも、現在の日本の国内金融市場の規制緩和の議論の参考になるだろう。

 労働組合(全国労働組合評議会―NTUC)との関係は、1966年の戦闘的なストを裁判所と結託し違法行為として弾圧した後は、「国の進歩という果実を平等に分かち合う」という精神による御用組合化の歴史である。日本の組合制度から多くを学んだ、という指摘が興味深い。

 「公正な社会」と題された章では、社会インフラの形成過程が語られているが、ここではまず年金(CPF)を使って持ち家政策を進め、都市住民の政治的支持を獲得した、というのが注目される。現在私の仕事でも関係のある「多目的基金」の成立である。今、町の至る所に見られる高層の公営住宅(HDB)への入居の初期には、飼っている豚と共に移ったとか、エレベーターが怖くて階段を使う人も多かった、という挿話は、今後ネタとして使える笑い話である。またシンガポール・テレコム上場時に市価の半値で全成人に株を売却。譲渡を防ぐボーナス配当を付けた結果、現在も全労働人口の9割がこの株を保有している、というのも、今後確かめてみたい話である。

 「共産主義者の自壊」と題された章では、50−60年代に華人の心をつかんでいた共産主義者が如何に破綻していったかを綴っている。著者は、それが60年代半ばからの国民意識の変化―シンガポールが自分たちのものであることに気づき始めたーによる、と見る。大衆から浮き上がった彼らは転向が相次ぎ、創設者であるリム・チンシオン(1996年死去)には、著者の配慮により脱党し海外留学の機会を与えられる。かつてPAPが共産主義者と連携していた際に、その仲介役となったプレンこと、ユー・チュイップとの1989年の会談は、勝者と敗者の体面として描かれている。

 こうして「独裁権力」を固めたPAPは1959年から、(この本が書かれた時点で)40年間、11回連続で総選挙に勝利してきた。その理由を、彼は共産主義者から学んだ「支持獲得のための組織的ネットワーク」とそれによる中間票の獲得である、とする。民族共同体の指導者やコミュニティーセンターの取り込みといった彼の政治活動が語られる。HDBの高層住宅が広がると、ここで組織された住民委員会が地域の基盤となった。1968年を転機に、英国軍撤退のマイナスを克服し経済成長と低失業を達成し、総選挙で連続して勝利していったという。ただ1981年の総選挙で、野党労働党のジャヤラトナムがPAP候補を破って当選したのはショックだったようだ。1984年に、彼は党資金の偽証申告等で告発され立候補資格を失うが、これは著者の裏工作の結果であろう。法律家協会会長となった弁護士フランシス・ショーについては、アメリカ大使館からの指示でPAPと対抗しようとしたという嫌疑で弾圧し事実上追放するが、これは当時のアメリカでさえ、PAPと著者に必ずしも全幅の信頼を置いていなかったことを物語るエピソードである。また著者は、多くの名誉棄損訴訟について語っている。相手は、国内の政治的対抗者のみならず、欧米のマスメディアにも及ぶが、汚職や政府の私物化(王朝的世襲政治!)といった彼に対する一般的な批判を、ことごとく名誉棄損訴訟で押さえつけていった。このあたりが、まさにこの国が「明るい北朝鮮」と揶揄される理由であろう。裁判官が政府と結託している、という議論に対しても、著者は反論を行っている。1999年、シンガポール大学のアメリカ人講師が、シンガポールの「反体制者の巧妙な抑圧」を批判した際も、編集者、出版社、著者を訴えるが、これらのケースで明確なのは、彼の徹底的に戦い抜くエネルギーであり、手法はともかく、それは確かにすごいの一言に尽きる。

 1983年、著者は「大卒男性が自分と同じ優秀な子供が欲しいなら教育レベルの低い女性と結婚すべきでない」という爆弾発言を行った(「大結婚論争」)。この国の発展は人材が全てである、という確信からの発言であったというが、これが強制的に行われるならば、ナチスの優生政策とほとんど変わらない思想である。実際、さすがにこの発言の直後は、PAPの得票率は12%減少したという。

 現在のシンガポールでも大きな課題になっている「少子化対策」の走りとも言えるこの議論の結果、社交クラブが開設され、高学歴男女の「お見合い」が組織され、また大卒女性の第三子が優先して学校を選べる制度(これは当の大卒女性から不人気で、後に廃止された!)を導入したりするが、やはり高学歴女性の結婚が遅れたり、子供を回避する流れは変えられていないようである。また欧米諸国が60年代以降アジア移民の受け入れ方針を緩めた結果、シンガポールからの「頭脳流出」も進む。これに対抗し、シンガポールはアジア他国の優秀な人材を招聘する政策を採用し、この流出を埋め合わせたという。面白いのは、99年1月までは、シンガポール男性が外人妻と結婚した場合は、妻を連れてこの国に入れるが、シンガポール人女性と結婚した男性は正式にこの国で雇用されていなければ入国できなかったという制度。さすがにこれは変更されたようである。またマレーシアやインドネシアは、ブミプトラとプリブミによる特権があり、この人材招聘は効果がなかったという。

 言語政策は、この国の大きな問題であると共に、著者が巧みに糸を解きほぐした分野であるのは確かである。1959年にPAPが政権を取った時に共通語・国語として選んだのはマレー語であったが、一方でビジネス言語としては英語が適しているのは明らかであった。しかし、言語に関する論争を避けるために、公用語はマレー語、中国語、タミール語、英語の4つ全てとする。しかし、次第に英語教育が広がると、中国語教育にこだわる華人社会から中国語の地位をあげる運動が盛り上がる。南洋大学が、この運動の中心になったが、結局卒業生の就職難に直面し、最終的にシンガポール国立大学と統合。南洋大学の旧キャンパスは南洋工科大学となったという(現在のローカル・スタッフの一人はこの大学のMBA取得者である)。彼らの言語政策のポイントは、民族言語を残しながらの斬新的な英語化ということで、それが現在の英語ベースの多言語社会シンガポールに至っている。また中国語についても標準中国語化を進める運動を行い、徐々に方言を駆逐していったというのも面白い。

 「清潔な政府」の章は、汚職との戦いについてである。アジア社会のみならず、政治権力のあるところではどこでも存在するこの問題に対応したのは「汚職行為調査局(CPIB)」という組織で、そもそもは英国植民地時代に設立されていたという。独立後は特に高官の多額わいろ収受を中心に取締り、60年代から80年代まで3人の大臣が罪に問われることになった。また汚職を避けるため公職の給与を引き上げる政策をとった。野党が、首相の給与の高さを批判した時に、彼はマルコスら他のアジア諸国の指導者が、見かけ上の給与は低いが彼よりもずっと裕福だ(その理由は裏金である!)と反論したという。また1995年には、彼と息子(現首相)であるリーによる不動産取引での価格割引が、この組織の調査対象になったこともある、としている。結果的にシロと判定されたというが、もちろんこのあたりは割り引いて考えなければならないだろう。

 「緑のシンガポール」は、この町の景観の整備過程であると共に、過去からの生活習慣を変革していった歴史についてのコメントである。「トロピカル・ガーデン・シティ」というコンセプトと、そのためのつば吐き、ゴミのポイ捨て、騒音、無礼な振る舞いといった生活習慣からの脱却である。シンガポール川やカラン水路の浄化という環境整備も課題であった。1970年の旧正月での事故を契機とした爆竹の禁止もこの国らしい措置である。公共の場での喫煙禁止と1992年施行のチューインガムの禁止も有名である。欧米の新聞記者たちは、こうした次ぎ次ぎの規制を「過保護国家」と揶揄したというが、彼は「この成長した過保護国家を誇りに思う」と取り合っていない。

 こうした社会生活の管理化はまだ微笑ましいが、次の「マスコミの管理」になると、やや議論があるところだろう。特に著者は「自由奔放な採点係としての役割をマスコミ、特に英字紙から追放することで実現した」と誇示しているが故に尚更である。PAPの政権獲得以前からストレート・タイムスは、英国の利権と結託しPAPに批判的であったので、政権獲得後、政治的圧力をかけて飼いならしたとする。またウォール・ストリート・ジャーナルやエコノミストについては、批判的記事の掲載をきっかけに販売部数削減という措置をとり屈服させたという。日本のように、新聞が侵略戦争に加担し、その反省から反政府的言論が一定の社会的支持を得ている国と異なる、開発独裁型の国でのマスコミの在り方について考えさせる部分である。「誹謗中傷に対し断固たる態度を取らないと、国民は政府を畏敬しない」という著者の権力的発想は、国家建設の過程では必要であったのだろうが、そろそろその役割を終えているような気がする。

 その他、シンガポール航空を独立採算に乗せる方針で成功させた事例や、ラッシュアワーの交通渋滞緩和のための税金導入(1975年)、「マレー人集落」の近代化、IT技術の奨励、死刑判決における陪審員制度の廃止や鞭打ち刑の維持、ナイア大統領の不祥事(1985年)等、独立後の各種の政策決定についてコメントして、下巻第一部は終了する。

 第二部「生存空間を求めて」では、シンガポールを巡る国際関係及びそこで接した多くの外国政治家についての印象が述べられている。しかし、この書評も随分長くなってしまったので、以降については、より要約した形でコメントしていこうと思う。
 まず隣国マレーシアとその政治家たち。「常に緊張が続いていた」マレーシアとの関係は、独立時の対応を含めラーマンとの愛憎共存する個人的関係が語られ、また1965年から始まるマハティールについても、多くの対立を経ながらも基本的に尊敬の念をもったコメントが述べられている。

 インドネシアは、まず「カリスマ指導者」たるスカルノとの関係。特にマレーシアに対する「対決政策」の中でシンガポールが微妙な位置関係にあり、これを巡る各種の駆け引きがスカルノとの間であったようだ。そしてシンガポール独立直後の、スハルトによるクーデターと「対決政策」の終了。反共主義者スハルトとは著者はウマが合ったようで、その後バタム島の共同開発やASEANの強化などを連携し進めていくことになる。しかしスハルトの妻が死ぬと、娘たち一族の腐敗が急速に進み、サマーズ始め米国クリントン政権はスハルトの排除を望むようになる。1998年スハルトは辞任し、その後ハビビ、グス・ドゥール、メガワティ(スカルノの長女)、ワヒドと指導者が変わっていく。著者は、彼らの困難を理解しつつも隣国インドネシアの今後の展開を注意して眺めている。

 タイとの外交関係では、著者が、タイ外務省を評価しているのが面白い。ベトナムの社会主義化以降、反共ASEANを作る上で、シンガポールはタイと共通の利益があった。タイの指導者は変わっていくが、官僚機構と「暴力的な直接対決を避ける」タイ式政治手法が決定的な危機を避けてきたと見る。フィリピンについては、2国間で外交課題がなかったこともあり、マルコスからアキノ夫人まで率直な個人的感想を語っている。マルコス政権末期、後継者について意見を述べた際マルコスが彼に囁いたというコメント(「あなたは本当の友人だ」)は面白い。ブルネイとは、先代のスルタンとの個人的関係から始まった両国関係が「深い信頼と好意に裏つけられた最良の関係」を作っていると自画自賛している。

 ベトナム、ミャンマー、カンボジア等、アジアの第二ティアー諸国との関係は、ある程度距離をとったものである。ベトナムは、戦争への協力を理由に、シンガポールに無償援助を望むが著者は拒否したという話が語られる。人物としては1993年の書記長であったド・ムオイを評価している。ミャンマーについてはネ・ウィンの軍事政権に対して、「軍人には経済運営はできない」と手厳しい。カンボジアでは、シアヌーク、ラナリット、フンセンらとの接触が語られるが、「カンボジア国民の近代史はあまりに残酷だ」と述べる。

 アジアの近隣諸国との関係の最後に著者はASEANの発展について回顧すると共に、1997−8年のアジア通貨危機についても触れている。マハティールの対応を批判したソロスとの面談で、彼は「マハティールは戦い続ける」と断言したという。いずれにしろ、この危機の原因は余りに急速な市場開放にあったというのが彼の認識である。

 1965年10月、シンガポールが22番目のメンバーとして参加した英連邦は、非常に価値ある「会員権」であり、これを通じ多くの国の指導者と親しく付き合うことができたという。英連邦アフリカ諸国の指導者は、それでもクーデター等でどんどん変遷していった。1971年1月にはこの首脳会議がシンガポールで行われるが、それを含め1989年のクアラルンプール会議まで彼は首相としてこれに参加して多くの首脳と接することになる。首脳に対するコメントで面白かったのは、英語とフランス語を使い分け、舌鋒鋭く議論するカナダのトレドーと大統領専用機を浪費するバングラデッシュのラーマン首相についてのコメントくらいか。英国の首相とは、マクミランからブレアまでの付き合いが回想されているが、ヒースとは個人的な関係を強め、キャラハンは「大英帝国的な世界の見方から抜け出せず」日本の投資の重要性を理解しなかったと評されている。サッチャーは英国に「最大の希望」を与え、ブレアは「異例の若さで権力の座についたことについて有頂天にならず」政策の実現に集中していたと評価している。

 その他、アジアの指導者や、「英国を追いかけて」彼が接近しようとした欧州の指導者との関係が述べられる。フランス大統領の中では、「政治的潮流や異なる社会や文化の本質に対する洞察力に最も恵まれていた」ミッテランを称賛している。シラクとは保護貿易を巡る論争はあったが、「自由に心おきなく反対意見を戦わせることができた」と気を使っている。ドイツの首相ではやはり「知的な言論人」シュミットと「メディアは過小評価する」が「鋭い政治感覚を持つコール」が印象的であったとする。これは1996年、コールの故郷であるラインラントのシュパイエルでの接待が効果的であったのかもしれない。ソ連との関係では、崩壊前の滞在中に、夫妻の個室での会話が盗聴されている可能性があったという話が面白い。後は「ゴルバチョフのようなまともな品格のある人物があの邪悪なシステムの中でトップに上りつめたのは、まさに偶然としかいいようがない」とのコメントくらいか。

 米国との関係は面白い。1961年、CIAによるシンガポール情報部員の買収事件を含め、当初米国はPAPに対する不信を隠そうとしなかったという。しかし、著者は、アジアでの共産主義の拡大を止められるのは米国だけであると認識し、ベトナム戦争も支持し、1966年には駐ベトナム米軍がシンガポールで休暇を過ごす計画に合意する。しかし他方で米国は、小国シンガポールには関心を示さなかったという。そうした中で、著者は1966年短期休暇をとりハーバードに留学し、アメリカ文化の集中講義を受けたという。このハーバードでの学者たちとの接触が、その後の彼の米国との関係における大きな資産になったという。しかし、ベトナムでの失敗から米中国交回復までの米国の模索を、かれは米国の権力の失墜という観点からややシニカルに見ている印象がある。そしてレーガンの時代になり米国は自信を回復した。レーガンの「天性の楽観主義」がこの復活に寄与したと考える。また、レーガンが著者に対し、中国との関係を重視するが、それは台湾や東南アジアとの関係を超えるとこはないと明言したことも彼は評価している。天安門事件の後始末で、彼が米国の意向を中国首脳に伝えた裏話なども披露されている。そして米国との関係の最後を、米国民主主義とアジア型統治体制についての議論で締めくくっている。ハンチンソンのシンガポール批判も引用しながら、著者はアメリカ型とは異なるアジア型統治体制があるという議論を展開する。それは管理国家シンガポールの根幹にある問題であり、米国型の人権主義には最終的には理解できないものであろう。

 続いて著者は日本の印象に移る。著者の日本人観は明確である。その印象は「過去60年の間に何度か変化した」と言ってるが、占領中に行った「信じられないほど残虐」な蛮行が彼のトラウマで、戦後生まれた日本は「平和的で非軍事的ではあるが、決して本気で悔い改めない謝罪しない国」である。それでも著者は1943年から1年間日本軍報道部で働いていた。その時「何度となく深々と頭を下げ東京の皇居遥拝をさせられた」天皇と戦後会談し、また彼の葬式にも参加したという。「日本は途上国の評価付けを、自国にとっての経済価値で行う」が、「天然資源のないシンガポールは当然位置付けが低い。」しかしシンガポールの発展のためには日本の投資が必要である。著者は、こうして戦争中の日本軍の残虐行為への怒りと、戦後の経済協力のパートナーとしての期待をうまくバランスさせている。佐藤や田中から中曽根、竹下、海部、村山まで多くの首相経験者についてコメントしているが、それぞれまずまずの評価であるのは、代々にわたり日本がこの国への直接投資を推進してきたからであろう。

 日本の工場労働者の質の高さと巧みな管理方法については、著者は英国風のやり方と比較して敬意を払っているように見える。しかし、他方でシンガポールに進出した日本企業でのローカルスタッフの処遇には苦言を呈している。最後に彼は「旧日本軍時代のつらい経験を持ち、日本人の特質に潜む恐ろしい一面を知りながら、それでもいま私は日本人を尊敬し、立派だと思う」と述べているのは外交辞令であるが、同時に「文化の異なる多くの民族によって構成される世界に適合するには日本人はさらに変わらなければならない」と述べているのは、間違いなく本音であろう。

 韓国、香港、台湾についてのコメントは省略し、最後に中国に対する印象を書いておこう。中国は、シンガポール華人の故郷であることから、共産主義の勝利と共に、シンガポール華人の間にそれに同調する動きが高まり、著者らはそうした動きをマレーシアの反共主義を使いながら最終的に弾圧した歴史がある。それ故、中国との国交回復の動きは遅れ、1971年にようやく始まったという。1975年には華国鋒との面談の最中に、突然毛沢東と会うことになったが、この時すでに毛は「精神的にも肉体的にも衰弱していた」という印象を語っている(直後の報道陣によるインタビューでは意図的に何も言わなかったという)。1978年11月にはシンガポールを訪れたケ小平と初めて会談し、当時副首相であったこの小柄な男の明快な論理に感銘する。そして80年台に入ると、著者はほとんど毎年中国を訪問するようになり、1985年9月の印象的な趙紫陽の対談から江沢民や李鵬など最近の指導者に至るまで頻繁な接触を行ってきたようである。今、これを書いている2008年10月後半にも、著者や息子で首相のリーシェンロンらは中国訪問の真っ最中である。「今後50年の間に、中国は三つの移行を完了させなければならない。計画経済から市場経済へ、農村ベースから都市ベースへ、共産主義から市民社会への移行である」が、それが一直線でいかないことを著者は認識している。但し「中国は2050年までに、経済近代化の目標を達成する潜在力を持っている」とし、「近代的で、自信を持ち、信用のおける国である」と見ているのは、日本に対すると同様の外交辞令であろう。

 1990年11月、31年勤めた首相から彼は引退する。後継者としてのゴーチョクトンの指名、家族のこと、そして最後に自分の闘争の歴史を振り返り、著者はこの長い自伝の筆を置く。しかし200年9月にこの下巻が公表されてから8年経った今も、著者の権威は健在である。この調子だと、晩年の上級相としての回想録も出すのではないかという勢いであるが、それを可能にしている心身の堅固さには驚くばかりである。丁度、この下巻を読み終えた直後の9月半ば、85歳の誕生日直前に狭心症の発作を起こし病院に担ぎ込まれたが、直ちに回復し、その直後には、王立戦略研究所での自分の名前を冠した会議室の開設式典に参加するためロンドンに飛んだというのには驚いた。

 戦後のシンガポールは、こうした人物により設計、指導され、建設されてきた。西欧からの独裁批判にもかかわらず、戦略的に国内外の政策課題を彼が巧みに処理してきたことは間違いない。この国に住み仕事をしている今、その手法に対する好き嫌いは別にしても、基本的に認識しなければならないこの国の特徴は、この本で十分理解させてもらったと思う。

                           読了:2008年9月12日