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アジア読書日記
シンガポール
シンガポール 華僑虐殺
著者:林 博史 
 同じく同僚から借りた、日本軍による占領直後のシンガポールの暗黒の歴史の検証である。1年半前に、ここシンガポールに居を構えた直後、数少ないこの地の博物館や観光地を最低限回っておこうということで、週末ごとにガイドブックを片手に市内を回った。しかし、すぐに、そもそも19世紀初めの英国人ラッフルズによる植民地化までは、寂れた漁村でしかなかったこのシンガポールの「歴史」は僅か200年弱であり、またマレー半島やインドネシアから見ても辺境であったことから、この地固有の文化といわれるものはほとんどないことが分かった。あえて言えば、植民地化以降大量に移民した中国人の文化とマレー文化が融合したプラナカン文化というものもあるが、これも衣装、装飾、料理といった日常性の文化の粋を出るものではない。その結果、博物館や観光地に行っても、そこではほとんど興味のある歴史に触れることはできなかった。しかし、そうした博物館の中で一際目を引くのが、そしてまた別に固有の展示やモニュメントとして町の至るところに目についたのが、1942年2月15日から1945年8月18日まで続いた日本による占領時期の苦難を示す展示であり、モニュメントであった。家の近所にある「国立博物館」やオフィスに近い地域にある「アジア文明博物館」、あるいは既にファミリーリゾート的なエンターテイメントが整備され、更に現在ユニバーサル・スタジオの建設が進んでいるセントサ島にある「Images of Singapore」という展示。これらすべてに共通しているのは、必ず日本軍の占領時期の苦難、なかんずく日本軍による残虐な支配に関する展示に多くのスペースを割いていることである。また別に私が訪れたところとしては、空港に近い、現在も監獄として使われているチャンギ刑務所の跡地。ここも日本軍による刑務所として使われたことから、小さい展示であるが数々の拷問や虐殺の歴史が示されている。

 言うまでもなく、シンガポールの占領は、第二次大戦の開始と同時に進められた東南アジア制圧のもっとも重要な作戦であり、他方、そこの植民地支配者英国にとっては、難攻不落と言われた拠点の最も驚くべき陥落であった。戦争初期のそうした戦略的な位置付けは、戦争マニアの間でいろいろ議論があるようであるが、それ以上に重要なのは、陥落直後からこの地で行われた日本軍による恐怖支配の実態である。既に掲載した戦後この国を一貫して指導し、86歳の現在も元気に飛び回り発言をしているリー・クアンユー上級相の回顧録でも、「同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」と回顧されているこの時期の日本軍支配の真の姿はどのようなものであったのか。その中でも、特に占領直後行われた華僑の大量虐殺の実際はどうであったのか。この本は、まさにそうした虐殺の歴史的な検証を行おうとするものである。

 著者は、日本の第二次大戦中の戦争犯罪やその裁判を専門的に追いかけている学者であるが、この作品でも、被害者側、加害者側、そしてこの犯罪を裁いた英国側の資料など、多くを使いながらできる限り客観的に、この戦争犯罪の実態を探ろうとしているように思える。特に南京虐殺などもそうであるが、政治的な意味合いが大きく、かつより客観的な資料が少ないと、議論は感情的なものになりやすい。日本軍の虐殺に熱い怒りと恥を覚えながらも作者はできる限り冷静にこの検証を進めていく。

 まず、日本軍によるシンガポール占領の説明。これは既に多くが語られている歴史的事実を整理しただけである。「アジアの植民地支配からの解放」という建前と、「重要国防資源獲得」という本音。真珠湾攻撃よりも早くマレー半島コタバルに上陸した山下泰文(ともゆき)中将を司令官とする第25軍が、55日間で1100キロを走破し、1月末にはジャホールを占領するという電撃的な攻撃。2月8日のシンガポール侵入から15日の英国軍の降伏まで僅か一週間であった。そしてそのシンガポール戦の最中から、その後の民間人の虐殺に連なる無差別殺人の兆しが出始めていたという。因みに開戦直前のシンガポールの人口は、中国人60万人、マレー人7.7万人、インド人6万人、欧米人1.5万人、その他共76.9万人であったという。そもそも日中戦争の開始以降、当然ながらシンガポールの中国系の間では抗日意識が強まり、義援金や義勇軍の組織化などでシンガポールの華僑系が積極的であったこともあり、日本軍も当初より彼らには警戒的であった。

 2月18日に、山下司令官から、シンガポール警備司令官に任命された河村少将に、「掃討作戦命令」が下される。その内容は、「21日から23日の3日間、元義勇軍兵士、共産主義者、その他日本軍の作戦を妨害したり、治安と秩序を乱す者は直ちに処刑する」という「異議を許さない」ものであった。取締り対象を、どのように選別するかの基準や方法もなく、またそれを僅か3日で行うという、そもそも全く常軌を逸した命令であるが、この計画自体は、後の証言によると、シンガポール攻略前から企画されていたようである。

 こうして、タンジョンバガー、チャナタウン、リバーバレー・ロード、アラブ・ストリート等、私自身も日常的にうろついている各地域ごとに担当を分けられた憲兵隊から、その地域の18−50歳の男すべてに出頭命令が下される。もちろん出頭しなかった者は、直ちに処刑するという厳しい命令である。各地域で、口頭での審問に基づき、いくつかの基準で、選別が行われていく様子が再現されるが、途中から軍参謀たちが躊躇なく多数の者を処刑しろと圧力をかけ始める。またこの「第一次粛清」に続き、28日からは近衛師団による「第二次粛清」がセラグーン、チャンギ、ジュロンといった郊外地区で始まることになる。

 これらの審問で選別された者は、直ちにトラックで輸送され処刑されることになるが、著者はその処刑が行われた場所の推定を行っている。最初の処刑地は、現在もともとの海岸が埋め立てられ空港敷地となっているチャンギである。続いてタナメラ(赤い丘)からベドック海岸でも大量の処刑が行われ、遺体は海に流されたという。またシグラップの谷と呼ばれる地域では、1960年代に大量の遺骨が発見され、処刑の舞台であったと推定されたが、この地域には、現在はパナソニックや日立の工場が立ち並んでいるという。その他、確認できる範囲でも、セントサ(当時ブラカン・マティ。1972年に「平和と安寧」を意味する現在の名前に変更された)島沖合や北東部のボンゴール海岸、ピアス・マックリッチー貯水池、ジュロン等が挙げられる。そしてシンガポールの対岸ジャホールバルでもこの地域の中国人が多数処刑されたという。こうして2月23日には、この粛清の終結が宣言され(但し、上記のように28日には「第二次粛清」が始まっている)、主力歩兵部隊は、他の地域へ移動し、シンガポールでは憲兵隊による恐怖支配が続けられることになる。

 著者は、この粛清の犠牲者数につき、多くの資料を精査しながら冷静に推定している。南京事件やアウシュヴィッツもそうであるが、虐殺の被害者の推定は困難きわまる作業である。シンガポールでの虐殺も例外ではなく、加害者側はせいぜい2000ー3000人と言い、被害者側からは5万人といった数字が挙げられている。著者自身は、結論的には、実際の数字はこの間にあるとしか言いようがないが、但しシンガポール側の数字は、「それに象徴されるほど、日本軍による粛清が非人道的であり、シンガポールの人々に与えた恐怖と悲しみと衝撃の深さを示している」と理解すべきと主張している。

 この粛清行為の理由は、前述のとおり、抗日意識が強いと考えられていたシンガポールの華僑に対し、最初に残虐な粛清を行い、その被害者を見せしめにすることにより抵抗を排除し、その後の統治を円滑に進めようとする狙いであった。しかし、それは結果的に大多数の住民の恐怖を惹起し、リー・クアンユーの回想のような英国時代への回帰を期待すると共に、その責任を明確にしない戦後日本の態度とも相まって、日本への長期にわたっる不信感をもたらすことになった。また、著者は、日本軍の主要な責任者たちのその後を追いかけているが、フィリピンでの戦犯容疑で処刑された山下を始め、多くは戦死したり、戦後責任を問われている。しかし、一人この華僑粛清を主導したと言われる作戦参謀辻政信という男は、終戦後中国に潜伏し戦犯裁判を逃れ、その潜伏記を出版すると共に、裁判の終了後帰国し、石川県選出の衆議院議員や参議院全国区で当選したという(但し最期はラオスで行方不明になったというのは、関係者により処刑されたことを連想させる)。その他、著者は、戦後の裁判記録を引用しながら、当事者の弁護論(例えば英国義勇軍である「ダルフォース」への対抗措置であった、といった議論)も検証しているが、それらは省略する。

 シンガポールで英国主導により行われたこうした裁判の様子が、シロソ砦の蝋人形館に残っているという。その他、「日本占領時期死難人民記念碑(血債の塔)」(1967年2月除幕式)。日本軍によるシンガポール上陸記念碑(ジャホールバルの日本人墓地)など、こうした日本軍による暗い歴史の遺産は、まだ島内至る所に残っている。私はまだこれらの場所を訪れたことがないが、今、それなりに生活自体は快適なこの地での暮らしが、こうした悲惨で、日本人の一人としてなにがしかの道義上の責任を負わねばならない過去の上に築かれているということを改めて痛感したのである。これから機会をみつけて、こうした遺産を訪ねてみたいと考えている。


読了:2009年10月31日