シンガポール リー・クアンユウの時代
著者:竹下 秀邦
アジア経済研究所の「アジア現代史シリーズ」の一冊として1991年に刊行された作品である。この本は、3年前こちらに着任する前に仕入れ持ってきてはいたが、定価4500円(実際にはネットで中古を購入したのであるが)という本の厚さと、到着直後にリー・クアンユウ(この本では、全て「李光耀」という中国語表記で統一されている)の自伝で、シンガポールに関しては凡そのイメージを作ることができ、またその後は刻々と新しい情報が入ってくることから、この本のことはほとんど忘れていた。しかし、今年に入り、震災の影響で日本に帰る機会が減り、アジア関係の本が枯渇した際にふと思い出し、今回いっきに読了したのである。既に3年超に渡りシンガポールを観察してきたことで、むしろここで書かれている戦後から1990年代初めまでのこの国の歴史を、ここでもう一度復習しておくという意図であったが、実際には復習に留まらない、この国とその指導者に対する新たな認識を持つことができたのであった。またこの本は前述のリー・クアンユウの自伝の公刊前の作品であることは重要である。著者は1935年生まれのアジア経済研究所研究員。この本の出版当時は、既に大学の教職に移っていたようである。
今年5月の総選挙を受け顧問相という立場での閣僚を辞任した後も、リー・クアンユウは相変わらず元気である。最近も大学のシンポジアムで、「二つの選挙(5月の総選挙と7月の大統領選挙。双方とも支配政党である人民行動党の退潮を示したという論調があるーシンガポール通信掲載「シンガポール総選挙」を参照)を経て国民の政治意識が高まった」と述べた女子学生に対し、「何をもって政治意識というのか。国の政治状況を認識しているというのならば、階層間の分裂、経済状況、多様な層にもたらされる機会を知っていなければならない。あなたの場合は選挙に興奮しただけのこと」と切り捨て、「シンガポールが、民主党と共和党が論争を続ける米国のような状況になった場合、シンガポールはありきたりの国になってしまう。」と危機感を露にしながらも、粋健康なところを示している。彼のコメントの背景には、成熟と共にシンガポールの若い世代が、リーらが激烈な闘争を経て作り上げた今のこの国の過去の苦労をすっかり忘れてしまっているという危機感がある。実際、彼は今年に入ってからも「Hard Truth」というインタビューを基にした過去の困難を忘れさせないための本を出し、去る9月16日の彼の88歳の誕生日には、その中国語版も出版されたところである。
リー・クアンユウら建国世代の苦難。まさにそれがこの本の主題である。しかし、同時にその苦難の歴史は、同時にある時期からは、彼らが、彼らに対する批判勢力を冷酷且つ徹底的に葬ってきた権威主義支配の歴史でもある。こちらに到着直後、彼の自伝を読んだ時にも感じた印象であるが、自伝ではまだオブラートに包まれてコメントされていたこの戦いが、この第三者、しかもこの権威主義的手法に批判的と思われる著者により描写されると、その激しさが一段と強調されることになる。実際、この本を読んだ後、私自身がネットで若干なりともこの国や指導者についての批判的なコメントを掲載することさえ、場合によっては直ちに政府による名誉毀損訴訟の対象となり、国外追放の憂き目にあうのではないか、という懸念が頭をよぎったくらいである。もちろん、現在、彼らの政治闘争の過程で、時には連携し、また時には敵対してきた同種の権威主義国家の隣国マレーシアでさえ、先週ナジブ首相が、権威主義政治の主要な道具のひとつとして使われてきた治安維持法の廃止を検討することを明らかにする等、この国を取り巻く国際環境は大きく変わっているので、この程度のことで、一介の非力な外国人を直ちに摘発するということはないであろうが、それでもそうした不安が残ることは否定できなかったのである。
そうしたこの国と指導者の対応であるが、時代的には、まず政権を握る過程での権力闘争時期と、政権をとってから実質独裁を固めるまでの過程の二つに分けられる。またその中で、印象的だったのは、内外政治環境の変化を受けて、彼らが時に大きな政策変更を短時間で決断してきたということである。まさに独裁であるが故に可能であったこの突然且つ正反対の方向への政治的転換が、結果的にこの国の安定と成長を促してきたことは間違いない。そんな訳で、ここでは、かつてのリーの自伝を補足するという意味で、この二つの時代の特徴と、劇的な政策変換のいくつかを中心に見ていくことにする。
出発点は、1945年9月5日、マラヤ再占領のための連合軍のシンガポール到着である。日本の軍政の前後での大きな変化は、日本軍が「マレー人(そして著者は書いていないがインド人)を味方につけ、華人には敵対する政策をとってきた」ため、種族対立の意識が強まっていたことである。そしてこれが、「マレー人による政治運動や華人主体のマラヤ共産党による武装蜂起、マラヤ連邦の独立、マレーシアの結成、シンガポール独立など、あらゆる政治的事件の背景をなす」ことになるのである。
英国軍政下でまず行われたのは日本の戦争犯罪の裁判で、ある日本人証人によると、これは@オーストラリア特攻隊によるシンガポール港襲撃事件に伴う日本軍憲兵による審問の際の拷問、Aタイ=ビルマ鉄道建設に伴う捕虜虐待、Bシンガポール陥落直後の華僑大虐殺事件の3つが最大のテーマであったという。AとBは既に多くの読み物に接してきたが、@は新しく知ることになった事件である。
軍政の特記事項としては、マラヤ共産党の動きとシンガポールの地位である。前者は、第二次大戦中は、抗日戦線として英国の支援を受けたマラヤ共産党が、戦後直ちに大規模な反英闘争を始めることなく、むしろ英国に対する一定の武装解除にさえ応じたこと、そして後者は、戦後のマラヤ復興計画の中でシンガポールは「マラヤから切り離され別個の直轄植民地とされた」ことで、これがその後のマレーシア結成に至る紆余曲折を生むことになる。しかし、この時点ではシンガポールは、「マラヤの一次産品の輸出港に過ぎず(中略)マラヤと離れて独立する経済的条件が欠如している」状態であった。
軍政時に、シンガポール及びマラヤで政党結成の動きが出るが、最も活発だったのは言うまでもなくマラヤ共産党で、これが1948年3月、穏健路線から武装闘争へと転換する。当然植民地当局も対抗し、同年6月マラヤでのヨーロッパ農園主殺害事件を機に非常事態が宣言され共産党員の大量逮捕となる。この非常事態は、軍政期の「機関条例宣言法」に基づいていたが、その後マラヤとシンガポール双方で「非常事態条例」として整備され、それがシンガポールでは1955年治安維持法となり、60−70年代にシンガポールが強力な一党支配体制に転換する際の最大の武器となると共に、冒頭に書いたとおり、今まさにマレーシアではこれの廃棄が提起されているのである。
共産党が地下に潜った後、1955年2月、植民地政府は新しい憲法を制定。この憲法の下で選挙がおこなわれ、それまで結成されていた幾つかの穏健政党から候補者が立つ。そして人民行動党(以降「PAP」)も、1954年11月、この選挙に向け結成され、この選挙では僅か3議席を獲得しただけであるが、「急速に有権者数を拡大させた華人社会の支持」を受け、その後の絶対権力掌握に至るのである。
ここで著者は、この本の主人公であるリー・クアンユウ(李光耀)の生い立ちからPAP結成に至る過程を追いかけているが、重要なことは、まずその後リーの盟友となった人々がゴー・ケンスイ(呉慶瑞:数ヶ月前に逝去して、新聞を賑わせていた)やトー・チンチャイ(杜進才:後のPAP委員長)等、ラッフルズ・カレッジ卒業の英語教育組で、彼らが留学先のロンドンで始めた「マラヤン・フォーラム」という学生組織の仲間たちであったということである。またその後リーにとって大きな課題となるマレーシア問題に際してリーを助けた初代大統領「トゥンク(プリンス)」アブドルラーマン(以降「ラーマン」)とも、ロンドンで知り合って以来の友人であったという。まさに戦後の宗主国ロンドンでの人間関係が、戦後のシンガポールを作ったと言えるのである。
帰国後弁護士として活動したリーが、反英運動や労働争議の弁護から始まり、連戦連勝の「過激な左翼弁護士」として名を挙げ、それに目をつけた地下に潜った共産党がリーを担ぐことになる。同時に、リーの方でも、共産党に対する華人社会の支持を取り込むという利用価値があったことから、両者の連携としてPAPが成立するが、ある時期からリーが英国植民地政府、マラヤ独立後はラーマンのマレーシアの反共政策に乗り、いっきに党内共産党勢力を駆逐していくことになる。
1956年以降は、マラヤと共に英国からの独立交渉が進められていくが、マラヤのラーマン政権と比較しても、シンガポールのマーシャル労働党政権は基盤が弱く、英国も交渉相手として信用しない。他方、ホクリー暴動や「10月革命」と言われる中華学校や労働組合の連携争議とその弾圧など、国内情勢の不安定化もあり、PAPの立場が強まると共に、PAP内部では次第に共産党シンパの勢力が強まっていく。1957年以降の政局は、これらの駆け引きを通じて、リーらの穏健派が巻き返していく過程になる。特に1957年8月、PAP内部の左翼勢力が突然警察に拘束された事件は、共産党からは「リーが裏切り、警察を使って反対派を排除した」と非難されるが、これは「党の歴史において最も重要な岐路であった」と説明されている。そしてリーに率いられた英国との独立交渉も順調に進んだこともあり、1959年5月の選挙でPAPは51議席中43議席を獲得し、ついに政権を獲得すると共に、党の支配権も穏健派が完全に握ることになるのである。
面白いのは、この時外部の観察者から見ると、この選挙結果は、「リー・グループら少数の反共英語教育組が、華人社会という絶対多数を支持基盤にしようとして親共産主義者・華語教育組と手を繋いだばかりに、逆に取り込まれ、ついには政権に押し上げられた。乗りこなすことの絶対に不可能な『虎』に乗ってしまった」という印象であったということである。実際、この直後の報道は、海外メディアも含め「共産党政権誕生」、「極左政権誕生」という論調であったという。しかしリーら穏健派はこの「虎」を見事に乗りこなしていくことになる。
共産主義者との軋轢が決定的となるのは、「マレーシア連邦」を巡ってである。そもそもPAPは結党以来マラヤ連邦との併合を党是としてきたが、これはシンガポールは単独では生き残れないという問題と、華人の間に広がる共産主義の一層の拡大を防ぐためには反共マラヤの力が必要と言う理由からだった。他方、共産主義者は、マラヤの反共主義から一線を画すために、シンガポールは単独で独立すべきと主張していた。
この問題は、マラヤ側から見るとややデリケートな問題であった。即ち、シンガポールの100万人にものぼる華人人口―しかもその多くは左翼や中国至上主義者であること―を考えると、統合後の人口構成は華人がマレー人より多くなってしまうという問題があった。しかし、1961年、丁度補欠選挙で反PAP政党が勝利し、共産主義者の影響力が強まったタイミング(この選挙の敗北で、リーは華人の支持を獲得するには福建語が必要と悟り、必死で勉強することになったという)で、マラヤのラーマン首相が新たなマレーシア連邦はシンガポール、ボルネオ、ブルネイ、サラワクを加えた広域圏で検討するという演説を行うことになる(しかも、演説のこのくだりはオリジナル原稿にはない即興であったという)。この提案に、リーのみならず、戦後の経済低迷から、この地域からの名誉ある撤退を考えていた英国も早速賛同する。もちろんシンガポールの共産主義者はこれに反対。PAPの中で対立してきた共産主義者は脱党し、社会主義戦線(バリサン)を結成する。これ以降、PAPに穏健派として残ったリ−たちとバリサンとの間で10年に渡る激しい戦いが繰り広げられることになる。
実際、バリサンの結成で、議会での与野党議員数が拮抗すると共に、労働組合の51支部の内35支部が「敵側」に回り、またPAPは党員の80%、幹部党員の30%を失うなど決定的な打撃を受けた。しかし、党組織はやられたが、政府はPAPが支配していた。そこでPAPが握る政府は、「併合による独立」を主張して成立したので国民の支持は失っていないとして、以降リーらは政府を基盤に戦いを進めていく。党は今や有名無実化し、「結党当初からの留学仲間が作るごく少数からなる上意下達の政党と化していった」のである。
マレーシア加盟問題を巡りバリサンとの激烈な覇権争いが続いていく。詳細は省くが、この戦いの一つの里程標が1962年9月の国民投票でのPAPの勝利であるが、ここではそれまでは共産主義者の影響が強かった中華総商会の支持を得たことが大きかったと分析されている。そしてこの国民投票での勝利を受けたPAPは、治安維持法を使った反対分子の大規模な摘発を始める。またインドネシアの暗黙の支援を受け同年12月ブルネイで発生した武力反乱の指導者とバリサンが接触していたことも、政府の取り締まり強化の絶好の材料とされたという。
1963年1月、インドネシアによる「マレーシア対決政策」が宣言され、情勢が一層緊迫すると、リ−らはこれを理由に「冷蔵庫作戦」という新たな反対派の大量逮捕を実行していく。リーの言う「空手チョップ」が発動されたのである。ただ、PAPが勝利したマレーシアとの統合路線も簡単に進んだ訳ではなかった。特に両国で共同市場を作るにあたっての財政による補償・資金配分問題の交渉は難航することになる。しかしイギリスの仲介と最後はラーマンとリーとの関係で何とか玉虫色の決着を迎え、1963年9月16日、偶々リーの満40歳の誕生日に親連邦国家マレーシアが誕生する。この年6月で、連邦の総人口は10.7百万人、内シンガポールは16.6%の177万人であったという。但し、その後も、連邦参加に伴い、PAPはマラヤでの政治基盤の創出を試み、またマラヤの与党連盟党もシンガポールでの支部拡大を目論んだことから、マラヤとの新たな軋轢が生まれることになる。また政策的にも、PAPの「非種族主義路線」は、マラヤ与党の「マレー種族主義」と真っ向から対立していた。リーはこうしたマラヤでの活動については、ラーマンとの関係にも配慮し慎重に進めたようであるが、それでも両国で種族間の抗争が激化したこともあり、特にクアラルンプールでは蔵相の陳修信が反リーの急先鋒となり、次第に連邦内でリー逮捕という圧力が強まっていったという。そしてそうした事態を憂慮したラーマンは、1965年6月ロンドンでシンガポールの分離を決意、帰国後リーらと秘密協議を進め、8月9日ついにシンガポールのマレーシア連盟からの分離が行われるのである。まさにその後、この日がシンガポールのNational Dayとなる。著者は、この僅か2年弱に終わったマレーシア連邦時代の経済(特にインドネシアの「対決政策」によるインドネシア市場の閉鎖とマラヤ市場を巡る攻防等)と政治(バリサンとの継続的な対立とマラヤ与党との駆け引き)を総括しているが、これは省略する。
このシンガポール独立の重要な点は、これが「そのための(公開)交渉も、闘争も、国民投票もなく、また選挙民への呼びかけも全くないまま突然やってきた」ことである。シティーホールでのリーの独立宣言の発表も、数人が集まっていただけのパダン(広場)からは「抗議も拍手喝采もなく」迎えられ、多くのシンガポール人はラジオでこの事実を知らされ大きなショックを受けたという。
独立以降のシンガポールの政策で特記されるのは対外関係である。基本的にマレーシア連邦の対外関係を引き継いだものの、マレーシアと異なり「アメリカ主導の防衛機構である東南アジア条約機構(SEATO)には共感を示さない」非同盟外交をとることになった。特にマレーシアが支持していたアメリカによる北ヴェトナム爆撃に対しては批判的で、また英国の基地撤退問題に関連して、リーは「マレーシアがアメリカ軍を代わりに引き込むなら、シンガポールは自国基地をソ連に提供する」と述べる等、むしろ彼は「反米」的なスタンスを取っていたという。しかし実際には、この2年後の1967年に英国軍の全面撤退が決定されると、同年10月リーはアメリカを訪問し、ヴェトナム戦争への支持を表明、「イギリスに代わりアメリカに東南アジアの安全を保障させ、また同国の資本・技術を引き込むことに舵を切り替える」のである。この独立とそれ以降の外交政策での急転換は、まさに独裁体制を固めていただけに可能であったと言える。また別の大きな問題であったインドネシアとの国交再開は、同年9月の反共産主義クーデターである9・30事件によりインドネシアで右寄りの外交転換が行われることで解決し、1966年8月以降貿易が再開されることになったという。その他、独立後のシンガポール・ドルの成立やその通貨や経済のポンド・英国離れ、そして輸入代替型産業構造の輸出志向型工業への転換、国内での公企業の促進等、現在のシンガポール経済を支える基本政策の開始が説明されている。また政治面では、バリサンの衰退と長期安定政権の成立(1968年4月の選挙での議席独占)、そして英国軍撤退に向けた補償の獲得と雇用確保、そして国防軍の創設などを経て70年代の相対的安定期に入っていく。
この時期の説明として興味深いのは、リーが、党内からの人材発掘に限界を感じ、それを官僚組織や中華総商会などの外部組織に求め、それなりの安定した人材供給ルートを作り上げたという点である。同時にライバルを競わせる手法もそれなりに機能したと評価されている。
政党や労働運動が政府の弾圧で低迷する中、1973年11月、タイでタノム政権を倒した学生運動の影響を受け、シンガポールでも一時学生運動が盛り上がったが、やはり翌年初めまでには抑えられる。そしてその結果、PAPは70年代を通じて議席を独占し続けるが、同時に野党や政府批判者への締め付けは容赦なく行われ、特に1976年12月の選挙後は、多くの野党指導者たちが様々な理屈で告発・逮捕されたり、高額の罰金を受け、その結果政治活動を諦める者も多かったという。また政府に批判的なメディアも例外ではなく、特に国内の英語系の新聞のみならず国外の出版物に対しても様々な形で圧力が加えられたのは、リーの自伝で本人が誇らしげに語っているところである。まさに、このあたりは、リーによる反対派弾圧手段のオンパレードという感じであるが、これ以上書くと私の個人生活も危ないので、この辺で抑えておこう。またこの時期に、大学改革と併せて、英語と華語を中心に置く新しい二言語教育が確立されたというのも、現在私が同僚として働いているこの国のスタッフが育ってきた教育環境として見ることが出来る。
70年代に経済発展については、余り特記すべきことはない。オイル・ショックを契機とした外資依存の一層の傾斜と地場資本の停滞。もともと工業に対する関心が低いところを、外資主導で生産性の高い産業、有望産業を誘致し雇用を確保。政府は為替や賃金政策でインフレを防止しつつ、低コスト住宅を供給し、低賃金でも生活が出来る環境を整えるというこの国の経済政策がこの時代に確立したことを見ておけば充分であろう。
これを受けた80年代は、第二世代指導者の形成時期との位置付けである。1981年には補欠選挙で野党議員が当選するが、むしろその後一定数の野党議員を確保する制度が導入されたというのは、PAPの余裕を示しているとも言える。そして1984年の総選挙では、現在の首相であるリー・シェンロン(李顕龍)ら第三世代が登場する。ここでリー・シェンロンが、景気低迷に見舞われた経済再建の委員会を託され、中央備蓄基金(CPF−年金)改革などを通じ、その任務で成果を上げたというのは注目される。彼がその後第三代の首相となったのは、一応単なるネポティズムではない次世代指導者の選択を行った結果であったということだろうか。もちろん80年代になっても、野党の人気者に対する圧力やメディアの統制、GRCと呼ばれる複数選挙区の導入による野党地盤の切り崩し、そして「マルクス主義者の計画」という名目でのキリスト教関係者の告発等、PAPの支配を守る数々の政策は取られている。リーの政権移譲に向けた「制度的仕上げ」の一つである大統領制度の変更は、当初はリーの大統領就任のためではないかと言われたようだが、結局リーが大統領に就任することはなかった(この点は、最近発表されたロシアでのプーチンの大統領復帰という茶番に比べればまともである)。
ここで面白いのは、著者が、キリスト教関係者の摘発などの強硬措置は、リーがやや性格が弱いと考えていた第二世代の指導者、ゴー・チョクトン(呉作陳)らに「空手チョップ」を教育するためのものであったと位置付けていることである。しかし、結局ゴーはソフトな姿勢と集団指導的な道を取ることになり、首相から引退したリーもそれを見守ることになるのである。そして89年以降、「首相李光耀の最後の仕事」として、アメリカ軍の実質駐留の実現と水資源の安定確保(インドネシアとの「成長の三角地帯構想」は、経済協力ではなく、実は水資源の確保が主目的であったというのが、著者の見方である)という2つの積年の課題に目途をつけ、最後に1990年10月の中国との国交回復を花道として、その55日後に首相を辞任することになるのである。
こうしてこの本での戦後シンガポールの歴史は、まさにリーの首相退任と共に終わる。リーを継いだゴー・チョクトンは、就任後初となる1991年8月の選挙で野党議員の増加と得票率の低下という試練を受けることになり、それを受け、ここでは最後に、このポスト・リーの時代の課題を総括することになる。そこで課題として挙げられているものを列記すると、人口問題、種族問題、国家理念の形成等であるが、我々はそれから20年経った今、この国がそれなりにこれらの問題を克服したことを知っている。同時に、実はこうした同じ問題が、21世紀の今、別の環境下で繰り返されていると考えることもできる。しかし、この20年、引続き李光耀の権威は維持され、それが大きな社会の重しとなって、この国は、こうした問題の顕在化を抑えてきたことは間違いない。その意味で、今後物理的に李光耀が存在しなくなった時、まさにこの国が本当の試練を迎えるのであろうというのが、この約10年前に書かれたシンガポール現代史を読んだ上での率直な感想である。夫々の転換期に、それなりに正しい判断を行ってきた独裁者の退場が、現在、日本や欧米で明らかになりつつある非効率的な民主主義への退行をもたらすのか、それとも現在及び将来の指導者たちが「空手チョップ」に頼ることなくこれらの問題を処理することができるのか。自分が現在住んでいるこの国の将来は興味津々である。
最後に、日本の戦後賠償問題(「血債問題」)について、全く本論とは異なる一章を割いて説明している。ここでのポイントは、様々な経緯はあったにしろ、1967年9月に調印されたシンガポールとの戦後補償協定が、これをもって「同国及びその国民がこの問題に関していかなる請求も日本国に行わない」として、将来の民間ベースの請求も放棄することを約したことである。これは日本のその他のアジア諸国との協定に比べて、格段に日本に有利なものになっているということである。著者はこの理由を色々推測しているが、いずれにしろ、この規定により、マレーシア等でその後提起されている民間ベースの補償要求のような公式の戦後補償は、この国からは提起されることがなかったのである。もちろん占領時代の日本軍の行動は、「道徳的」には我々が忘れてはならないものではあるが、この公式の協定の存在を勘案すると、その後も機会あるごとに繰り返されているリーの日本軍政批判自体は、彼なりのいろいろな思惑を秘めた上でのコメントであると、確信を持って言えるのである。
読了:2011年9月21日