アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
物語 シンガポールの歴史
著者:岩崎 育夫 
 「アジア二都物語」やアジア政治関連の作品で、今まで何冊も読んできた著者の最新刊は、中公新書の「物語―歴史」シリーズでのシンガポール通史である。このシリーズではアジアの他の国だけでも、タイ、フィリピン、ベトナムを読んでいるが、これらの国に比べても、200年の歴史しかなく、国土の小さいシンガポールについては、ほとんど書く内容が限られてしまうのではないかと予想していた。案の定、この新書で書かれている内容は、ほとんどが今まで多くの作品で紹介されてきたもので、その意味では新たな発見はほとんどなく、最大・唯一の収穫と言えば、既に滞在5年を過ぎた熱帯生活で、時間感覚を失いつつある中で、この国の最近の動きについて頭の中を改めて整理することが出来たことだけであった。しかし、そうした「復習」本であることから、読書は快適であり、久々に睡眠時間を削りながら、他の読了中の本を放り出して速読することになったのである。ここでは、そうした「復習」による頭の整理で重要と思われる部分を再確認しておくことにする。

 まず「シンガポールの曙」と題された序章では、一般的な植民地化が、「それまで自律的生活を営んでいた社会が、外部勢力に征服されて強制的に服従させられることであり、そこには必ず土地を奪われた者と、それを奪った者がおり、土地を奪われた者の間では、土地を奪った征服者に対する怨嗟の念が強い」こと、しかし、それにも関わらず、1819年のラッフルズによるこのほとんど無人島の植民地化は、ここに関連する旧所有者(スルタン)、新所有者(英国)、そして新住民(移民)の全てがそれなりの利益を得ることになったことから、そうした植民地一般の軋轢は生まれなかったことを押さえておけば充分である。

 1819年から1942年の日本による占領までの、英国植民地時代については、移民の民族棲み分け政策が取られたこともあり、移民にとってはこの国は「出稼ぎで働くだけの場所」となり、それがこの国の市民社会、あるいは市民意識発展の阻害要因になったということが重要である。移民たちは、自分たちの出身地毎に強く結ばれ、他方で異民族のみならず、多数を占めた大陸中国人の中でさえ、出身地が異なると接触は限られるような状態であった(「民族、言語、宗教によって分節された社会」)。その結果、戦後独立した際も、この国にとっては国民意識の創出というのが常に大きな課題となるのである。
 
 20世紀に入ると、中国本土の政治が流動化したことに伴い、そこでの動きに呼応して積極的に活動する「愛国華僑」と、母国の動きとは距離を置き、英国支配下の土地に根を降ろして上昇志向を取る集団(「海峡生まれ集団」)の二つが生まれ、それが戦後の独立運動の担い手となっていく。しかし、当然ながら、「二つの集団は生活・教育言語、それに政治志向がまったく違い、一つの街に暮らしていながら社会的接点がまったくなかった。」それが一体的な動きになるのは、1942年から45年の日本の占領を経た後のことになる。

 日本の占領時代は、「粛清と強制献金」、更には「恐怖支配と経済混乱」が支配したが、未来永劫続くと思われていた英国支配が絶対的なものではないことを、リー・クアンユーら一部の知識人に認識させることになる。また、ここで著者が触れていないこの時代のもう一つの教訓は、リーが自伝で述べているように、彼らが「銃口の前で人は黙る」ことを認識したことである。戦後この国を指導することになるリーは、まさにこの時代に自立意識を強めると共に、強権支配の効用を学ぶことになったのである。

 戦後の独立運動は、リーらの英語教育集団と華語教育集団が、共闘から対立に進んでいく過程である。これも既に何度も語られてきた話なので、ここでは繰り返さないが、まずは多数派である華人社会の支持を受けた共産党と共闘し権力を握り、次に反共であるマレーシアの力を借り共産党を弾圧、そしてマレーシアから見放された時には、かろうじて共産党の権力基盤を奪っていたことで、英語教育集団による「独裁」を確立する、という過程は、まさに綱渡りであった。しかし、これに勝利した後の国家建設は、まさにリーが「真っ白なキャンパスの上に自分の思いのままに絵を描く」ような世界となったのである。

 1965年の独立から1990年のリーの首相退任までが、「リー・クアンユー時代」となるが、この時代のキーワードは「生存の政治」である。食糧や飲料水といった生活必需品さえ自給できない小国が、如何にして生き残るか?それは、「経済活動を通じて生存をはかることであり、政府が決めたことを国民が一糸乱れず実行する体制」を作ることで、全ての政策目的がそれに集約されることになる。政府対抗集団の無力化、マスメディア管理、近隣諸国や米国を巻き込んだ安全保障体制、外資誘致による政府主導の開発経済、選別的教育制度とエリートの早期選別・育成、種族融和と英語化政策、そして最後に社会厚生としての持ち家政策。これらが、リー主導により次々と実行され、彼の自伝の中でもこの国の成長を促したとして自画自賛されることになる。

 1990年に、リーが首相を退任し、ゴー・チョクトンが第二代首相に就任するが、この時代は、まず冷戦終了という世界情勢を受けて、若干の「自由化路線」が取られるが、1991年の総選挙で与党批判が高まると、リーの主導により、再び野党弾圧が始まり強硬路線に戻ることになる。結局この時代も、「ゴー率いるリー体制」が続くことになり、1997年、2001年と続いた総選挙で、再び与党は圧勝する。「シンガポールと同様に政権党が圧倒的な強さを誇った韓国や台湾やインドネシアなどでは、90年代になると野党の台頭や政権交代が起こった」が、「シンガポールはアジアの民主化潮流に背を向けて、ただ一人歴史の時間が1970年代に逆戻りした」というのが、この時代の著者の総括である。その原因を、著者は、この国の中間層の持つ、「民主化の先頭に立つ『進歩的な顔』」と「現在の体制の維持を望む『保守的な顔』」の二面性で説明している。前者が許容されなくとも、後者が満足できればよしとする中間層一般の傾向を、リー率いる政権党が上手く操縦したということである。それは逆に言えば、リーらによる成長戦略が軌道に乗り、中間層全体の生活水準を上げることに成功したことが最大の理由であったことは疑いない。また、この時代、有能な閣僚や官僚を処遇するという名目で、彼らの給与が大幅に引き上げられることになったということは、再度確認しておこう。何度かにわたる引き上げで、例えば首相に給与は160万Sドルまで引き上げられたという(但し、国民の批判も考慮し、ゴーは最初の5年間は引き上げ分を返上した)。また、外国人労働者管理に関する現在の労働許可の枠組みや、リアウ地域開発、中国やインドへの積極投資の開始等、現在に繋がる経済政策が開始されたのも、この時代である。

 2004年、ゴーが退任し、リー・クアンユーの長男、リー・シェンロンが首相に就任し、現在に至ることになる。「リー王朝」批判が起こるが、「大半の国民は、リー新首相の誕生を納得とあきらめが入り混じった感情で受け止めた」という。しかし、この時代―そして2008年以降は、私もこちらに転勤し、つぶさに状況を観察することになるがー当初は残っていた強硬的な政治指導が次第に薄まっていく過程と考えられる。そして、それはリー・クアンユーの自伝ではカバーされていない、この国の最新状況である。

 著者はまず、90年代には「保守的な顔」が優先した中間層の中で、「進歩的な顔」がようやく息を吹き返したということを指摘している。90年代後半から「イスラーム知識人協会」、「行動・調査女性協会」、「シンガポール自然協会」といった市民社会運動が誕生し、これらはまず政府に対する政策提言を行うという、「穏健・非政治的」な「体制内」市民運動を進める。そして続いて「政治領域に足を踏み入れた」、知識人25人による「ラウンドテーブル」やその延長上にある「シンク・タンク」等も動きだしたという(残念ながら、現在まで私は聞いたことのない名前である。これから少し注意して見てみよう)。また治安面では、従来の共産主義運動や英語教育知識人運動家ら、イスラム過激派問題に映ることになるが、これはこの国が「マレー人もいる多民族社会であること、東南アジアのマレー世界の一部であることをあらためて認識させる契機となる。」

 経済面では、成長戦略の対象地域は引続きアジアであるが、内容的にはゴー時代のインフラ投資から、テマセック等の政府投資機関、あるいは有力政府系企業を通じた間接投資に移っていく。ただこれが「投資国で軋轢を招くことも少なくない」として、2006年のテマセックによる、タクシン一族の保有するタイ通信会社の買収が、タクシン失脚に始まる一連のタイ政治の流動化をもたらした例を挙げている。またカジノ問題については「道徳的是非よりも、生存のためにはあらゆる産業に参入して経済発展しなければならない、という命題が優先された」と説明されているが、まさにその通りであろう。ただその意思決定に至るスピード感は、さすが「独裁国家」である!また「イスカンダール開発」についても、「190年前にはシンガポールがその一部であったジョホール州との一体化が再び実現する可能性のあるプロジェクト」として紹介されている。その他、この政権下での水自給問題や少子・高齢化、そして外国人移民奨励策に触れられるが、特に最後の問題は、私の記憶にも新しい2011年の総選挙での大きなテーマとなる。

 こうして2011年の総選挙が「国民の静かな反乱」として紹介される。これは私自身も同時代的に観察した(別掲参照)ので詳細は省くが、この与党の「敗因」として著者は、@外国人移民奨励策が、シンガポール中間層の雇用機会を奪い、また生活コスト高を招いたという批判、A若い世代を中心とする与党の管理政治に対する不満、を挙げている。後者はネットの発達によるコミュニケーションの変化も強い影響を及ぼしているのは言うまでもない。そしてその後行われた2011年8月の大統領選挙、2012年5月のホーガン選挙区での補欠選挙と併せて、与党は実質的に「三連敗」することになる。こうして総選挙後、リー・シェンロン政権は、より「国民目線の政治」を意識せざるを得なくなり、それが外国人移民政策の見直し、閣僚・官僚の高額給与の見直し(それでも、まだ首相で220万Sドルという!)等、現在もまだ遂行されている政策となっていく。経済成長については、従来のような「トップダウン方式」は難しく、「国民の自発性や主体性に委ねる領域が増えることが予想される」が、「経済発展の看板を下ろすこともできない。」「国土や労働力の面で(周辺国に)太刀打ちできない」この国は、「産業構造や経済発展段階が近隣諸国よりも一歩どころか、二歩も三歩も先でなければならない」という宿命を持ち続けているのである。

 この本の最後は、「シンガポールとは何か」という総括である。これは、この国の特徴を改めて確認する上で有用なので、著者の主張を整理しておこう。

 まずこの国は固有の伝統社会がない実質無人島に人為的に創られたことから、「国家が社会を作ったもの」であること。これが強力な国家権力の源泉となる。更に「国家の原型がイギリス、社会の原型が中国、日常生活ではマレーシアとインドネシアの小世界、経済発展のためには日本、アメリカ、ヨーロッパとの大世界、安全保障はアメリカに依存、とアジアや世界の主要国とさまざまな分野でつながることで成り立っている国である。」そこから、@経済発展が最大の国家目標、A近隣諸国よりも進んだ経済発展の必要性、B国家主導の開発、C政治や民族は経済発展の手段、Dその結果としての民族文化の欠如、E欧米職に対する政治と経済の使い分け、そしてF国民の価値軸(アイデンティティ)が模索段階、というこの国の性格が規定される。

 この内、経済成長優先主義は、この国が降ろすことのできない御旗であるにしても、そこにおける社会意識の変化や文化への渇望は、もはや経済優先主義という理由で抑圧されるものではなくなっている。それが、2011年の総選挙後のリー・クアンユーの閣僚からの退陣という決断を促すことになる。それから「ポスト・リー・クアンユー時代に入った」と見る著者と異なり、私はまだ彼の影響力は残っていると思うが、しかし、それが修正を余儀なくされる状況に入っているのは確かだと思う。更に彼が物理的に存在しなくなる時期もさほど遠くない現在、この国は歴史上初めて国家が市民社会と本格的に対峙しなければならない時期を迎えようとしている。その意味で、この国が、近い将来に歴史上初めての大きな転換期を迎えようとしていることは間違いない。

 あとがきで、著者は自身の私生活に触れて、シンガポール人華人女性の妻に言及している。彼のシンガポール、あるいは東南アジア研究に対する動機はこんなところにもあったのかと、妙に納得してしまったのである。

読了:2013年6月13日