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アジア読書日記
シンガポール
タックス・ヘイブン
著者:志賀 櫻 
 5月末に急逝した母の納骨のために帰国する飛行機内で読み進め、この法事を終えた後の日本の自宅で読了した。世界の税務当局と多国籍企業や富裕層が熾烈な戦いを繰り広げている世界についての新書で、私の現在のシンガポールでの仕事にも大いに関係するテーマであることもあり、このシンガポールのセクションに掲載させてもらう。著者は、1949年生まれ。東大在学中に司法試験に合格し、その後大蔵省、財務省、金融庁と典型的な官僚エリート人生を歩んだが、在職中はロンドン大使館勤務なども経験し、OECDなどの活動にも関与してきた。OECDは、今月末にシンガポールで金融フォーラムを開催し、私もそれには出席する予定であるが、経済予測や途上国支援等の活動に加え、その「租税委員会」を通じて国際的な脱税やマネー・ロンダリングといったクロスボーダーの金融犯罪に対する規制強化にも取り組んできたという。そうした活動に官僚として関与した著者は、金融犯罪や、犯罪にならないとしても国際経済を揺るがしてきたいろいろな投機活動が、ほとんど何らかの形でタックス・ヘイブンを利用しており、その結果として税の不公正や国民の資産の無駄使いが行われてきたとして、この実態を説明しようとしている。その試みは、まさにその「タックス・ヘイブン」の一つとも言えるシンガポールの金融業界で働いている私のような人間に、どのような示唆を与えるのだろうか?

 著者はまずタックス・ヘイブンの特徴として、後述するOECDレポートを引用し、@まともな税制がない、ないしは名目的な税金を課すのみ、A情報交換を妨害する法制があること、B透明性が欠如していること、C企業などの実質的な活動が行われていることを要求しない、という4つを挙げているが、現在ではその内のA、Bが重視されているという。またこのタックス・ヘイブンを舞台に行われる悪事としては、a)高額所得者や大企業による脱税・租税回避行動、b)マネー・ロンダリング、テロ資金への関与、c)巨額投機マネーによる世界経済の大規模な破壊を挙げている。前者は、確かに現在の国際課税を巡る議論を考える際には重要な指摘であるが、後者は金融関係者にとっては常識である。

 OECDは、1998年に「有害な税の競争」という報告書を公表し、これを受けFATF(Financial Action Task Force)という国際機関が、上記b)のマネー・ロンダリング問題に取り組むと共に、2009年にはグローバル・フォーラムによるタックス・ヘイブン・ブラックリストの作成が行われたという。また、国際金融システムの安定化をモニターし、提言する機関として、1998年に国際決済銀行(BIS)が事務局を務めるFSF(Financial Stability Forum)という組織が設立され、2009年のG20によりFSB−Financial Stability Boardに格上げされているというが、これはc)に対応するための国際協力機関である。

 こうした国際機関の活動を通じたタックス・ヘイブンの実態とそれに対する規制の枠組みが説明されていく。まず具体的なタックス・ヘイブンのリストであるが、それは@「椰子の茂るタックス・ヘイブン」=旧植民地や英王室の属領(ケイマン、ブリティッシュ・バージン・アイランド(著者はこの背後にはMI6がいると推測している!)、ジャージー、ガーンジー、マン島等)、A「先進国の群小オフショア金融センター」=国自体がタックス・ヘイブンになっているもの(スイス、ルクセンブルグ、ベルギー、オーストリア、香港、シンガポール等)、そしてB金融市場やその周辺がそのままタックス・ヘイブン的な機能を持っているもの(シティ、ウォールストリート、デラウェア)の3つであるが、A、Bを「タックス・ヘイブン」と見なすかどうかについては、様々な議論があることは明らかである。例えば前述の国際組織により、何度か「タックス・ヘイブン」としての名指しが行われているが、例えば2009年公表のグローバル・フォーラムによるタックス・ヘイブン・ブラックリスト(当時新聞記事となったのを私も記憶している)では、香港やマカオが除かれている。その背後に中国の政治力があったことは明らかである。またバハマの扱いを巡り、英国が強硬な主張を行い会議が紛糾したということもあったようであるが、これは英国によるシティの権益保護という思惑からであった。更に当初は「最悪の地域」と名指しされていたコスタリカ、フィリピン、ラブアン島、ウルグアイが、交渉の最後に将来の情報提供を受け入れ、このカテゴリーから外れるなど、「口約束」で済まされた部分も多かったという。これは「12カ国以上の国と租税情報交換協定を締結」することでブラックリストから外れることができるという規定があるためで、日本政府はこの相手方となることに積極的であることから、日本政府とこの協定を締結するタックス・ヘイブンも増えているという。しかし、そこで情報協定を結んだからといって、それらの国や地域を経由する金の情報が直ちに公開されるかどうかは保証の限りではない。そしてその後、国際社会がこの問題に対する関心を失うことで、このリストの実効性が失われてきている、というのが著者の見方である。このあたりは、まさに国際規制を巡る各国の利害と思惑が衝突する生々しい現場の実態である。

 こうしたタックス・ヘイブンを利用した脱税/節税事件と当局との係争の具体例が幾つか説明されている。また欧州でのプライベート・バンキングを巡って、2006年、リヒテンシュタインのLGT銀行の社員が、顧客名簿をドイツ連邦情報局(BND)に売り渡した事件なども紹介されている(この名簿に経済界の大物も含まれていたことから、大スキャンダルとなると共に、ドイツ税務当局からリヒテンシュタインに一層の政治的圧力が加えられ、リヒテンシュタインが窮地に立たされたという。)が、この銀行は、現在のシンガポールにおける私の仕事で接触のある先である。この事件が彼らの業務のシンガポールへのシフトを促している、と勘繰れないこともない。また2008年に、アメリカの租税当局(IRS)が米国民の租税回避を阻止するためUBSに対し口座情報の開示を求め、抵抗した同行の米国幹部を逮捕し、UBSが白旗を挙げた事件もまだ私の記憶に新しい。そしてこれは、まさに現在私も対応を余儀なくされている米国居住者の海外資産の一層の管理を意図したFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)と呼ばれる、新たな米国金融当局とグローバル金融機関の契約問題にまで進んでいる。

 更に脱税/節税は、多国籍企業ではクロスボーダー取引を巡る企業内取引の増加により一層規模が拡大している。この本を読了した直後の日経新聞でも、グーグル等の企業がアイルランド法人を作り節税している話や、アマゾン等のネット企業が、例えば日本では課税されず、またそれに挑んだ日本の税務当局が敗訴した例等が紹介されていたが、これはまさに移転価格税制を巡る多国籍企業と税務当局の戦争の最前線である。税務当局からは、@タックス・ヘイブン対策税制、A移転価格税制、B過小資本税制といった対策が打ち出されているが、著者によると、この内のBは実質的に機能しておらず、戦いの前線は@、Aを巡る議論になっているという。しかし、この内の@も、法人課税がゼロであればともかく、海外子会社の実効税率を調べ、それが一定の課税率よりも低い企業の所得を、本国の会社の所得と看做す、ということで、その調査の手間暇がかかり実効性が低いことから、実質的にはAが主戦場になっている、というのは私の業務経験からも実感できる。しかし、この分野は、一方で貿易取引の拡大支援の観点からの「二重課税排除」も考慮せざるを得ないことから、対象国同士の「税金争奪戦」になってしまうことも多いという。それぞれの国の課税当局は、多国籍企業に対する課税では、相手国税務当局と戦わざるを得ず、それは当然時として各国の政治力も反映した外交問題となることも多いのである。

 続いて説明されるマネー・ロンダリング/テロ・犯罪関係資金によるタックス・ヘイブン使用についても、国際的な監視は強まっているが、これは善悪が明確な分野であることから、方向性についての議論は少ない。1991年に破綻したBCCI事件や2005年、アメリカにより凍結されたマカオのバンコ・デルタ・アジアの北朝鮮の秘密ドル口座凍結事件などは記憶に残っている。こうしたブラック・マネーと実際に遭遇する機会はほとんどないが、これは私の日常業務でも、常にチェックするよう指示されている分野である。

 タックス・ヘイブンの最後の問題として著者が言及しているのは、そこを経由して運用されるヘッジ・ファンド等により、頻繁にグローバルな金融危機が引き起こされていることで、ソロス・ファンドのポンド投機やLTCM破綻やサブプライム危機、リーマンショック等々が説明されている。但しここではタックス・ヘイブンは、そうした資金が還流するために経由する受け皿に過ぎず、危機の本質的な問題ではないことから、著者の説明もただの経済危機の歴史素描の域を出ない。ただこの問題も、もちろんリーマン後は運用会社の規制強化という形で、私の業務に直接関わってきていることはいうまでもない。

 こうしたタックス・ヘイブンが関与する色々な問題に対処するため、著者は最後にもう一度、タックス・ヘイブンの規制手法につき整理している。まず「椰子の茂るタックス・ヘイブン」への対策は、先進国が一致団結してかれらの国際経済とのつながりを断ち切るしかないという。国際社会ではこれらの地域との情報提供を約束させるような協定を結ぶことで、批判を弱めようとしているが、「(日本のような?)情報収集能力もない政府に情報を出す約束をさせるだけでは事態は好転しない」というのが著者の見方である。またスイスやリヒテンシュタインといった「先進国の群小オフショア金融センター」には「名前を明示して国際社会を挙げて批判するのが効果的」という。それは中国といえども、マカオの北朝鮮秘密ドル口座凍結を回避できなかったことでも明らかである、というが、これはむしろマネー・ロンダリングという観点から論じられるべき問題であり、一般の節税/脱税案件の場合は、実効性はもう少し異なってくるだろう。そして「ロンドン、ニューヨークの巨大オフショア金融センター」への規制、特に伝統的に近隣のタックス・ヘイブンを利用してきたシティに対する規制は、著者によればもっとシリアスな問題である。特にそれまでも何度か言及されてきたが、著者は自身の国際会議での経験から、タックス・ヘイブンへの規制に際して、自国の利益に反する場合はあらゆる手段を弄して妨害するのが英国のやり方であると感じているようである。

 その他技術的手段としては、ボルカー・ルールのように、巨大金融機関の信用創造を抑制し、マネーの膨張を規制する他、ヘッジ・ファンドの戦略手段である、@レバレッジ、Aショート・セリング、Bデリバティブの規制に対する強化することであるとするが、これらは、程度の差はあれ既に色々規制が試みられている手法で、金融界にいれば常識的な議論である。そして最後に金融の国際化を受けた数々の新税制。国際通貨取引に課税する「トービン税」、税収の使用目的から論じた「国際連帯税」、EUで検討されている、金融機関に課税され、金融機関救済のために使用される「金融取引税」、そして非居住者や国籍離脱者の租税回避のため水際で課税する「出国税」等。かつて国税庁の関係者から、「いかに税金を美しく取るかというのが、税務当局の美学である」という言葉を聞いたことがある。しかし実態は国内の「マルサ」のように、その世界は厳しい戦争の場である。そしてクロスボーダー取引の拡大と共に、その戦争は地球規模で拡大している。テロや犯罪資金への規制が国際協力により撲滅されねばならないのは言うまでもないが、企業取引や富裕層への課税は、道徳的な是非が明確ではないことに加え、国家経済や国家間「税金争奪戦」も絡んでくることから、解決は簡単ではない。かつて大蔵省主税局長が国会答弁で、アンダーグラウンド・エコノミーについて質問され「わからないからこそアンダーグラウンド・エコノミーなのであって、わかっていれば国税当局がとっくに課税している」と平然と答えたという笑い話(?)が披露されているが、タックス・ヘイブンも、実態が分からないからこそタックス・ヘイブンなのだ、というのが著者の見解のようである。確かに、そこを経由した金が消えてしまう、ということにより、著者が言うような課税や金融秩序に対する危機がもたらされてきたことは間違いない。しかし、スイスやリヒテンシュタインのように、そうしたタックス・ヘイブンであることにより存在している国や地域にとっては、これは国家存立に関わる問題である。そして言うまでもなく私が現在生活しているシンガポールも、オフショア金融センターとして、低い個人所得税・法人税率や無税による相続など、各種の税制メリットを武器に世界の金を集め、それにより国家経済を支えている国の一つである。そこではタックス・ヘイブンと名指しされ、国際的な批判を受けることを回避しながら、しかし実質的に世界の資金を呼び込むような戦略が巧みに取られている。その意味では、このタックス・ヘイブンを巡る規制も、その他の国内的な税務問題と同様、基本的には、税務当局と課税対象との間のグローバル・ベースでの「いたちごっこ」の世界になっている。残念ながらこの本を読んでも、タックス・ヘイブンの実態は依然謎のままであるが、他方でそれを取り巻く規制当局と市場との戦争の現在の姿を知る上では、そしてそれを、そのタックス・ヘイブンの一つで働いている私が、業務上どのように使っていくかを考える上では、それなりの示唆を与えてくれた作品である。これからしばらくこの本もネタにして関係者との議論を広げて見たいと考えている。

読了:2013年6月29日