プライベートバンカー
著者:清武 英利
偶々友人が持っていたことから拝借し、さっと目を通した。先日読んだ、「タックスヘイブン」と同じ、シンガポールへの日本人富裕層の資産逃避をネタにしたルポである。この地で暮らす彼らの「寂しい」生活や、それを追いかける国税関係の人間の暗躍、そして何よりもそうした富裕層の資金の取り込みを狙う「プライベート・バンカー」のグリーディーな仕事振りなどが紹介されているが、この本での私の関心はただ一つ、シンガポールでのBank of Singaporeのスキャンダルの真相である。
2年ちょっと前、日本への一時帰国からシンガポールに舞い戻った時、知合いからこのプライベートバンクのスキャンダルについて耳にした。野村證券OBが取り仕切っていたこの銀行のジャパンデスクで、彼の片腕が、顧客資金を横領したのみならず、この顧客を殺した、そしてその野村證券OBもスキャンダルの責任を取らされて間もなく解雇されるだろう、というのが、その時聞いた内容であった。しかし、そこまでの事件であれば、さすがに情報統制に神経を使う当局も、新聞ネタになることは抑えられないのではないか?しかし、実際にはそのスキャンダルの真相は、その後公に語られることはなく、私も、恐らく尾鰭背鰭がついた作り話であったのではないか、と考えるに至った。そして先に読んだ橘玲の小説も、この事件の噂をネタに使ったフィクションで、事実をそのまま踏襲している訳ではない、と感じていた。
そこで出てきたのがこの本である。そこでは、この犯罪の首謀者が実名で登場している(梅田専太郎)のである。また、あとがきによると、著者は、この事件を、本の中では「桜井」と偽名で紹介されている、この銀行のジャパンデスクを牛耳っていた男への取材の一問一答も紹介されている。そして著者は、「現代ビジネス」というウエッブ(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49354http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49354)でも、この事件の関連記事を寄稿している。本よりもこちらの方がこの事件を生々しく伝えているので、こちらを引用しておく。
(記事引用)
彼(富裕層顧客)は、シンガポールの新聞「聯合早報」オンライン版のコピーを手にしている。記事にある2015年9月15日のシンガポール裁判所の判決は、日系の新聞も報じない事実である。
カンボジアにあるゴム農園の購入を巡って、一人の銀行職員が(元病院長の)書類を偽造し大騒ぎとなっている。実に100万米ドル(約141万シンガポールドル以上)をプノンペンの銀行口座に流そうとし、最後は牢獄でゴールを迎えることになった。
日本国籍の被告・梅田専太郎は、3件の文書偽造で詐欺罪となり、裁判官から禁固3年を言い渡された。41歳の被告はシンガポールの永住者であり、Bank of Singapore(シンガポール銀行=BOS)のエグゼクティブディレクターだった。その職務は、日本市場を開拓し、クライアントのポートフォリオを管理することだった。彼は2013年12月24日に解雇された。
シンガポールには報道の自由がないこともあって、この資産家詐欺事件はいまだに謎に包まれている。殺人未遂疑惑は結局、藪の中だ。だが、「犯行直前に密告があった」という証言はほかにもある。BOSに近い人物は「梅田の共犯者が、元病院長を殺害する計画を立てながら直前になって恐ろしくなり、BOS幹部のところに駆け込んで告白した」と話している。
(以上)
こうして見てみると、やはりこの横領事件は、資産逃避先としてのシンガポールの評判を大きく傷つけるものであり、当局も相当気を使い情報統制を行うと共に、殺人未遂事件は立証しなかった、と考えることができる。しかし、金融機関で元本に手をつける横領は簡単に足がつくのは、この世界で生きた人間にとっては常識である。それをあえて実行し、更にその犯罪を殺人という計画で隠蔽しようとした犯人は、いったい何を考えていたのか。そしてその横領を防げなかった組織も大きな問題である。ジャパンヘッドの責任者は、その管理責任を問われ退職。そして聞くところでは当局からプライベートバンカーとしての資格も剥奪されて、現在は、当地で「プライベートバンクの紹介業」を行っているが、それも当局が目をつけているのではないか、と言われている。しかし、このシンガポール三大銀行の一つの傘下にあるこの金融機関は、なんら制裁を受けることなく引続き通常の業務を続けているというのも、いかにもシンガポールらしい。
来年からは、日本―シンガポールの協定に基づき、金融機関間の口座情報の交換が始まることもあり、日本の富裕層のシンガポールからのマネーフライトが始まっているという話もある。もちろん、GDPの約20%を金融業からの収入に依存するシンガポールが、どこまで真剣にこうした情報交換に応じるかは分からないが、少なくとも富裕層側にそうした懸念が生じていることは間違いないようである。逃避先の一つは中東ドバイ。日本の富裕層にとっては、シンガポールも退屈な町ではあるが、それでも日本との近さや、周辺の観光地など、気晴らしのネタはいくらでもある。ドバイの生活がどのようなものかは、まだその地の経験のない私には分からないが、少なくとも、この地よりは娯楽が限られているような気がする。それでも、富裕層の資産は、安住の地を求めて地球を飛び回る。そしてそれを狙う税務当局や民間のハゲタカたちも順次活動の拠点を移していく。橘の小説ほど、ストーリー展開の面白さはないが、それと同様、シンガポール金融界の影の部分と、その将来を示唆するルポと言える。
尚、冒頭で語られている、私も時々行くことがある焼き鳥屋の紹介は、やや作り話が入っているというのが、当事者の話であった。
読了:2016年8月17日