アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
週末シンガポール・マレーシアでちょっと南国気分
著者:下川 祐治 
 出張で、当地とマレーシア・ペナンを訪問した日本からの同僚が持参し、置いていった文庫本を、彼らに同行したペナンで読み続け、帰国便待ちの空港で読了した。私と同じ年の生まれで新聞記者上がりのフリーライターによる、それらの地域の「バックパッカー」安旅行記である。この歳になって、ひたすら数ドルの差にこだわる旅行は、あまり私の趣味ではないし、書かれている内容も、この地に住む者にとってはさして新鮮ではないので、出張の合間の気分転換に読み飛ばす類の本であるが、ところどころコメントを加えておきたい記載があるので、そうした部分だけ、ここでは書き留めておこう。

 シンガポールについての記述は、ブギス近辺にあった日本人街が「売春婦先導型の経済」で発展したという話から始まる。これを持ってきた女性の同僚が確かに一歩引くような内容である。そしてバックパッカーにとっては魅力のない町であるシンガポール。ただ著者も年齢と共に、オオハッカというムクドリの一種の鳴き声(「カラスであったらリー・クアンユーに一斉駆除させられていただろう」)に耳を傾ける余裕ができてきたようである。その他は、窓のある安ホテルをゲンランで探したり、ホーカーズやバス移動の話の合間に、リー・クアンユーや独立の逸話を交えているが、取り立てて面白い記述はない。

 プラナカンについて。この地域の華人は「商売ができる場所を求めて移住したグループ」と「スズ鉱山の労働者としてやってきた人々」に分かれるが、前者がプラナカン(海峡華人)であるとしている。そして彼らがマレー系と結婚し混血が進んだというが、他方でマレー人とは宗教故に、混血は実際には進まなかった(タイでは約7割に中国系の血が入っているという)という説も紹介している。プラナカンにスズ鉱山労働者(あるいは港湾労働者)が含まれていないとは思えないし、庶民レベルで宗教性が結婚の制約になったというのも考えにくいが、一応踏まえておこう。そして阿片窟があったと言われるシンガポールのパヤ・レバー近辺のプラナカン建築を紹介した後に、マレーシア・マラッカのそれを訪れているが、マラッカは既に観光都市となっており、著者が期待している、かつての怪しげ香りがなくなっているのは当然のことである。そして私がこの新書を読み終えたペナンへ。英語が通じるので楽な場所とのこと。シンガポールの台頭に加え、英国の植民地政策の比重が自由港から、内陸のスズ鉱山やパームオイル・プランテーション経営に移るにつれてペナンが衰退していったとされる。著者がその悲哀を感じたフェリーターミナルは、私も今回の滞在時に横を通り過ぎたが、現在のそれは、むしろ本土との交通が二本の橋に移ったことで、寂れていったと思われる。ただここで著者が紹介している金子光晴の「マレー蘭印紀行」は、いつか目を通しておきたい。

 コタバルを始めとするマレーシア北東部は、私にはまだ未踏の地であるが、マレー系中心の社会と言うことで、かつてインドネシア・ジョクヤカルタで経験したように、「ビールを探すのが難しい」場所であることもあり、余程のことがない限り、あえて訪れることもないだろう。もちろん今回のペナンでの会議でも、公式の食事は、夜も含め全てアルコールはなしであった。公式行事終了後、改めてビールを求めてホテル近所に繰り出していた訳であるが、こうしたマレー系中心の地方では、それも難しいようである。

 マレーシア東岸に沿った長距離バスでの移動。礼拝のためのトイレ休暇というのは、私のクアラルンプールやマラッカへのバス旅行ではまだ経験したことはない。そしてクアラルンプールへ。ブミプトラ政策の恩恵で林立する高層ビル群が、振興予算で立派な施設が出来上がっている沖縄と重なるという感覚はあまり理解できない。今や、ジャカルタやマニラを含めて、東南アジアの都市での高層ビルなど珍しくもないし、那覇の高層ビルとクアラルンプールのそれはおのずと趣は異なる。もちろん、原住民の風貌が、沖縄と東南アジアで似ているというのは、私も常々言っていることであるが・・。

 第二次大戦中、マレーシアに侵攻した日本軍が、ある種のトラウマを抱えていた、として、1871年の宮古島と石垣島の帆船が台風で遭難し、台湾に漂着したが、北部の華人地域に漂着した船は救助されたが、南部に漂着した船の船員は先住民に虐殺されたという逸話が紹介されている。その先住民がマレー系と同じマレー・ポリネシア系であったために、マレー人=野蛮人という先入観が植えつけられ、日本軍の支配時も、マレー系は、華人系とは明らかに差別されて扱われたという。この難破船の話は初めて聞くものであったが、日本軍はむしろマレー半島では、華人系を中国国民党や共産党の支援勢力として厳しく取り扱ったのであり、マレー系を特に抑圧したということはないというのが私の認識である。この点は、もう少し他の文献も調べてみる必要があるが、ややあれー、という記載である。英国からの独立後のマレー系と華人系の対立と、それがブミプトラ政策に繋がっていったことは言うまでもない。「マレー・ジレンマ」はもちろん現在もこの国に大きな影を落としている。2015年に始まったナジブ前首相への反対運動(黄シャツ)とナジブ支持派(赤シャツ)の対立にも、この華人の不満があったとされる。そしてこの「数万人の抗議行動も、何の成果も得られずに終わっている」と結ばれているが、そうではなかったことは、その後のマハティールの復活劇が物語っている。そして最後はエアーアジアを中心とした東南アジアLCCの軽い与太話と、この地域の在住者が寄稿したレストランや観光ガイドでこの文庫本は結ばれる。

 ということで、暇潰しに軽く読み流す、当地バックパッカー旅行記であった。

読了:2019年3月9日