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アジア読書日記
シンガポール
シンガポールの基礎知識
著者:田村 慶子 
 激動の2020年が終わろうとしている。もちろん今年のこの激動は、新型肺炎の感染拡大がもたらしたものであったが、個人的には、12年滞在したシンガポールでの勤務が終わり日本に帰国、当面は新しい仕事がない中で年金生活に入るという大きな変動があった1年である。久々の家族との同居生活。しかも、新型肺炎もあり、ほとんどの時間を家で過ごすことになるという日常生活の変化。そうした中で、新型肺炎によるシンガポール当局による各種規制の中で枯渇した日本語書籍を、帰国後は思う存分読める、というのは大きな気晴らしとなった。そしてその2020年の最後に読了したのが、図書館で見つけたシンガポールに関するこの国の専門家による概説書(2016年刊)であったのも、何かの縁である。

 今年のいつであったかは分からなくなってしまったが、シンガポールのJETRO主催で、著者による講演会を聴く機会があった。それも含めて、自分自身の12年のシンガポール滞在を総括する良い機会ということもあり、この本を手に取ったが、多くの既往知識に加え、今回改めて認識する情報もあり、今年を締め括る読書として最適であった。ここでは、そうした今まで余り意識してこなかった部分についての著者の報告をまとめてみる。

 この国の概要については、あまり新しい情報はないが、その中では、現在は南のリゾート島になっているセント・ジェームス島の歴史が面白い。現在、富裕層の別荘なども建設されているこの島は、19世紀後半以降、中国からの移民の入国に際しての「検疫センター」が設置され、戦後は英国、そして独立後も政府による政治犯収容の「監獄島」として1970年代まで使用されたという。コロナ隔離で、時間が十分にあった今年の4月以降、それまで行く機会がなかった(あるいは行く気にもならなかった)多くの島内の自然公園等を回ったが、その際この島を訪れ、著者自身の撮影による「見張り台」等を実際に見る機会がなかったのは、今から考えるとたいへん残念であった。

 第二次大戦前から日本の占領期を経て、戦後の独立運動に至る過程で、今まで私があまり意識しなかった二人の人物が紹介されている。一人はゴム事業で成功した富豪で、戦前から日本占領期にかけて抗日運動を率いたタン・カーキー。彼は、日本の侵攻前にジャワ島に逃れ、占領が終わるまで日本軍の捜索を逃れた他、シンガポールのみならず中国本土にも私財を投入して多くの学校を設立、そして戦後は1948年に中国に帰国し共産党政府の要職についたという。中国共産党とのつながり故に、彼の功績がシンガポールでは語られることが少なかったが、MRT新線の駅名に彼の名前が登場したというのは、シンガポール政府と中国との関係の変化を見る上でも興味深い。

 もう一人は、シンガポール共産党の若き指導者で、リー・クアンユーのライバルでもあったリム・チンシオン。まさにリーによる、独立過程での共産党との連携と、独立後の彼らの粛清を象徴する人物である。「もし、リムがリーと同年齢で、もっと政治家として成熟していたなら、シンガポールの政治史は変わっていたかもしれない」という著者の指摘は、歴史の偶然を物語っている。

 2011年と2015年の総選挙は、私自身も体験し、簡単な報告もまとめたが、その中で、野党労働党を支えた二人の人物、ジャヤラトナムとロウ・チャキアンについての紹介も新鮮な情報であった。前者は、1981年に初めて野党に議席をもたらした人物であるが、与党による激しい妨害活動にも怯まなかった「粘り強さと不屈の魂」は、記憶しておくべきだろう。もう一人のロウ・チャキアンについては、上記の2つの選挙を含めて、私も多くの情報に接したが、彼の「潮州語と華語を使った巧みな演説」を聴く機会はなかった。今年7月の選挙で彼は確か引退したと思うが、著者がこの本で何度か言及している与党PAPの政治手法の変化を促した野党政治家として、今後評価も変わってくるのではないだろうか。

 著者は、本の終盤、上記2つの選挙分析を含めた、シンガポールの喫緊の課題と、それを受けた変化について説明している。急激な経済発展に伴う格差拡大と社会階層の固定化(特に、発展から取り残されるマレー系について)、そして少子高齢化と高齢者社会保障問題等は、様々な機会に指摘されている。それに加え、「保守的で過激」な華人キリスト教徒(特に、メガ・チャーチの存在感)の増加が、「ピンク・ドット」といった性的少数者の運動と衝突する懸念についての著者の指摘は、今後注意する必要があろう。またこうした「メガ・チャーチ」が、女性の権利保護などを行うNGOの「同性愛擁護」に反対し、そのNGOを乗っ取ろうとした(2009年)というのも初めて聞く話であった。NGO活動の活発化については、著者は最後に「政府と柔軟に協力しながら、シンガポールが多様な価値が認められる民主的な社会に移行する大きな一歩を作り出している」と評価しているが、どの社会でも同じであるが、そうした変化の前には多くの障害が待ち受けているのも確かである。

 尚、リー・シェンロンの人物紹介で、最初の妻の自殺に全く触れていないのは、これを書いた場合の、政府からの干渉に配慮した、ということだろうか?

 ということで、既に認識している事項に加え、幾つかの新たな情報も与えてくれた点で、私のこの国での12年間の滞在が終わった2020年を総括する格好の作品であった。今後も著者のこの国についての成果はフォローしていきたいと思う。

読了:2020年12月31日