アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
思い出の昭南博物館
著者:E.J.H. コーナー 
 先日読了した森村誠一の「南十字星の誓い」の種本となった戦争中のシンガポール博物館、植物園の保護に奔走した英国人植物学者による回想録である。森村の作品と同様、以前から気になっていたが、既に絶版となっており、通常の書店では見つけられなかったが、アマゾンで検索したところ、中古で見つけ、ようやく調達できた。

 1941年の日本軍によるマレーシア上陸と翌年2月のシンガポール陥落を経て、日本軍の統治下に入り、昭南島となったこの島の文化遺産を、まずは日本軍による破壊、略奪から守るため、そして1944年以降は、今度は日本の敗戦色が強まる中、群盗らの略奪から守るための闘いが繰り広げられ、それが日本の敗戦後、英国に無事に戻されるまでが回想され、そしてそれから約20年の時を経て、その関係者が日本で再会したことが紹介されている。それは、森村の小説で描かれた、実際にその文化遺産の保持に奔走した日本人、英国人、現地華僑らの実話の部分である。そこには、森村の小説で登場した勇敢な若い日本人女性や、彼女を守り、次第にお互い特別な感情を抱くことになる華僑の青年も、そして彼らを襲う中国人暗殺団等は登場しないが、他方で、特に著者と同じ思いを持ち文化遺産の維持に貢献した多くの実在の人物について語られることになる。そこでは、森村が描いたとおり、日本軍によるシンガポール統治―それは占領直後の華僑虐殺から始まり、戦局安定時の日本軍や在留日本人によるこの地での能天気で勝手な振舞い、そして敗戦前後の混乱等―の中で、文化遺産を守り抜くために、国籍や戦争の勝者・敗者等には関係なく、多くの人間が協力したことが、改めて感動的に描かれるのである。

 日本軍の占領直後から、当然ながら著者は占領日本軍から「敵性外国人」として取り扱われるが、同時に占領直後日本軍司令部を訪れた著者は、元シンガポール総領事の豊田氏から通行証と腕章をもらうことができ、それがその後の著者の活動を支えることになる。そして森村の小説でも鍵になる人物として描かれていた当方帝国大学教授の田中館秀三との出会い。この風采の上らない、正式な任官辞令書も持たない、大法螺吹きの人物が、その後博物館等維持のために大活躍していくことになる。またこれは森村の小説でも使われているが、田中館は著者に向かって、著者によるマラヤの樹木に関する著作が「天皇陛下がお床のなかで読んだ唯一の本」と告げた、というのも、この男の法螺話だと思われるが、著者に対する思いやりを物語る暖かい逸話である。また、著者は、同邦人の多くが収容所席圧を余儀なくされる中、博物館で自由な研究を続けていることから同邦人からは裏切り者と見られ、他方で日本人憲兵からは厳しい監視が続くという板挟み状態になったという苦しい思いも綴られている。

 日本軍占領下での日常生活が語られる。放棄された家を捜索しての書籍などの文化遺産を回収するが、著者らも同時に食糧や家具を勝手に持ち去り、これを「逆奪」と揶揄している。敵性人抑留者の日本人管理官(昭南特別市政庁の朝日秘書官)との接触は、後者がそれなりに理性的・人間的な対応を行っていたことに安心させられる。他方、著者は、昭南神社の建立に2万人余りの英豪捕虜が動員され、また著者が研究地としていた森が破壊されたことを嘆いている。食糧調達のため訪れたジョホール・バルではパイナップル園で大量のパナップルを仕入れるが、街の破壊された様子と、道端に転がる多くの華僑の死体を目撃することになる。

 占領期間中、日本からは多くの科学者―昆虫学士、植物学者、地質学者等々―がこの地を訪れ、著者と接触したことも綴られているが、それらは著者にとっては、多くの日本人研究者たちがこの地での研究を維持しようとした良い思い出として語られている。また一時は日本軍に拘束されたが、その後裸一貫のクーリーからエビの養殖等で財を成し、著者と博物館を時折金銭的に支えてくれたタウケイという華人の話も、こうした暗い時代の美談である。昭和17年のクリスマスには、その華僑が差し入れたウイスキーや七面鳥等が供される「日英入り混じった、神道とキリスト教による奇妙なパーティ」等が開催され、田中館教授に加え、その後、文化遺産の保持に重要な役割を果たす、着任したばかりの郡場教授、羽根田教授らも参加して大いに盛り上がったこと等も書かれている。しかし、その田中館教授は、「実にダイナミックな人間であった」が、「彼と意見を異にするものの反感もかい」解任され、「心に深い傷を受けて、昭和18年7月、祖国に帰っていった。」彼はその後、1951年1月に67歳で逝去したという。そして彼の帰国後は、徳川家の出身である徳川義親侯爵が、この博物館等の保護の前面に出てくることになる。

 以降は、この徳川侯爵との日々が語られることになる。面白いのは、彼は戦前ジョホールのスルタンと「虎狩り」で親しくなり、占領後、そのサルタンとの関係維持を主たる任務として、勅任官待遇の軍最高顧問としてシンガポールに送り込まれたという。そして著者は、彼がそれまでも田中館教授の活動を陰で支えていたことが分かったという。彼は正式に博物館等の総長に任命され、著者を含め普通のスタッフにも非常に気さくに接したというが、面白いことに、その時彼は得意なマレー語を使ったという。それは彼がサルタンとの交流の中で習得したということであろう。著者は、占領直後の混乱の最中、「粉々になった破片を拾い集め城塞を築いたのは田中館教授だった。」そして「それが軌道に乗ったとき、城塞の発展と安定」をもたらしたのは徳川侯爵であったとして、「類まれなる武士(もののふ)であり政治家であるこの二人の日本人は、歴史が彼らを最も必要とするときにそれぞれ登場した」と最大限の称賛を送っている。シンガポールを象徴する石像の一つであるラッフルズ像を、二人の協力で博物館にいったん避難させた逸話も紹介されている。また私も滞在中何度も訪れたジョホール・バルにあるイスタナ・バルーの尖塔に侯爵と共に登った話も出てくるが、ここはシンガポール攻略前に山下将軍が、そこからシンガポールの地形を確認しながら最終作戦を練った場所であるという。そこにあった山下将軍が色々書き込みをした作戦地図が、日本軍敗北後失われてしまったのを、著者は残念に感じている。しかし、その徳川侯爵も、日本の敗戦色が強くなる1944年8月に帰国、著者が彼と再会するのは1966年と20年以上が経過してからであった。彼の帰国後の難局に当たってくれたのは、郡場教授と羽根田教授であったということになる。

 そして終局。連合軍の空爆も始まり、街が混乱する中、タイービルマ鉄道建設に駆り出されたインドネシア人人夫で、労働に耐えられない者や船で死んだ者たちが移送途上のシンガポールで降ろされ、街が死体と病弱者で溢れたという。悪化する治安や食糧事情の中で、何とか博物館を守り、生き延びた著者らの最後の苦難が語られる。日本軍の支配が続いていた時期は、当然彼らは「敵性外国人」として益々監視が強化されるが、日本の敗北後は、今度は郡場教授や羽根田教授が拘束されることになる。しかし博物館等は、そうした戦乱を生き延びて保存された。「国家も、政府も、そして民族も、繫栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問はけっして滅びない。私はこのことを、シンガポールで、日本人科学者との交流を通じて学んだのであった。」としてこの「昭南島物語」が閉じることになる。以降は、1966年の徳川侯爵を含めた関係者との東京での再会が語られることになる。

 この回想録読了後、改めて森村の小説をパラパラとめくってみた。田中館教授や徳川侯爵、そして郡場教授や羽根田教授等は、ほぼこのコーナーの回想録に従い好意的に描かれている。他方、回想録では、スイス領事館の推奨で私設秘書として博物館に勤務したが、スタッフへの対応を含め著者と対立し、結局は車で事故死するアルベンツ夫人の話は、小説では、彼女は偽装した中国暗殺団の手先だったという形で使われているのが面白い。

 こうしてこの実際の回想録とそれを基にした森村の小説の双方とも、この時代のシンガポールを生き生きと蘇らせてくれた。森村の小説評でも書いた通り、この2冊をシンガポール滞在時に読めなかったことを悔いると共に、是非今現在シンガポールにいる日本人には、この2冊を読んでもらいたいという想いを改めて痛感したのである

読了:2022年2月9日