アジア・ドイツ読書日誌と
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アジア読書日記
シンガポール
アジア・シフトのすすめ
著者:田村 耕太郎 
 国立シンガポール大学リークアンユー公共大学院兼任教授である著者は、この大学院で開催された公開シンポジウムを聴講した際に何度も顔を見たことがあり、また例えば小池真理子東京都知事が来訪した際の講演会でも、都知事に同行している姿を見ることもあった。しかし、結局、私の滞在時には、個人的に話をする機会がないままに終わってしまった。そして当時、元参議院議員であるということだけは、その際にも聞いていたが、どのような経緯でシンガポールに流れてきたのか、またそこの大学院で何をやっているのかは知らないまま帰国することになった。今回、ブックオフで、この2015年1月出版の新書を見つけ、ようやくそういった彼の経歴と、考え方等を初めて知ることになった。

 まずこの機会に、新書の帯で記載されていない彼の経歴をネットで検索してみた。それによると、1963年7月鳥取県生まれの彼は、早稲田大学、大学院で学んだ後(その時代にフランスに留学している)、先ず山一証券に入社し、Ⅿ&A担当としてそれなりの実績を上げたということで、公費留学生としてイェール大学等でⅯBAを取得している。その後、義父が社主である新日本海新聞社に入社、そして37歳で系列紙の大阪日日新聞取締役社長に就任したが、2002年自民党から参議院議員に立候補し当選、2010年まで務めることになる。しかしその最後に時期―自民党長期政権の末期―に、小沢一郎の民主党に移ることになったが、2010年の選挙で落選。再び一民間人に戻りランド研究所の研究員などを務めた後、2014年に現在のシンガポール大学での職を得たのを機会に、家族でシンガポールに移住したということである。大学関係以外に、自身の調査・コンサル会社も経営している。この経歴から見ると、それなりの野望を持ち得る家系で育ち、参議院議員を経験し、その後は、それまでの留学経験等を生かした活動を続けているということが分かる。著作もこれ以外にも、同じような国際ビジネスに関連するものを多く出版している。そしてこの新書では、その国際ビジネスを、今後のアジアの成長を取り込む形で進めることを推奨し、そのために自分が移住したシンガポールがそうした戦略の拠点として最適であることを繰り返し主張することになる。

 その議論は、私から見ると、非常に分かり易いが、他方で至極初歩的なものである。資源に恵まれない日本が生き延びるためには国際ビジネスが必要であることは、今も昔も変わらない。そしてそうした感覚の育成のための投資や人脈が必要であることは、近代の日本人は意識的・無意識的かを問わず常に理解していた。その重点を今後はアジアにシフトすべし、という議論も、その手法の問題を除けば、かの「大東亜共栄圏」の発想と同じものである。その意味で、「アジア重視」という考え方は別に新しいものではない。そして、その戦略のためシンガポールを拠点とすべしという主張は、そこでの在住者にとっては耳に優しいものである。

 しかし問題は、当然東南アジアの指導者たちは、過去の経験を踏まえ、欧米・中国・ロシアなどを天秤にかけながら、自国の利益を最大限まで引き出そうとしていることである。シンガポールを含め、東南アジアには日本ファンが多いのは事実であるが、それは旅行やアニメといった文化への好みの問題で、政治・経済といった実利がかかる世界では、現在のウクライナを巡る東南アジアの対応がそうであるように、単純な支持や否定といった反応があるものではない。更に近年は、それに加え中国の政治・経済的台頭があり、以前と比較しても圧倒的にこの地域と中国との距離が縮まっている。それ故に、外交にしろ、企業ビジネスにしろ、日本の夫々の関係者は日夜知恵を振り絞りながら、この地域との関係構築・発展に懸命な努力を続けている訳である。こうした人々は、もちろん著者が主張している様な一般論は十分踏まえながら、個々の対応を考えている。最近、若手官僚の退職が増えているというのは、日本の指導層の問題ではあるが、著者が言うように、彼ら官僚や企業関係者の国際感覚が鈍っているという訳ではない。もちろん著者が尽力している、シンガポール大学での東南アジア地域研究や国際官民交流プログラムは、非常に貴重な機会ではあるし、著者によるそのプログラムの発展・拡大は期待してやまないが、それだけが今後の日本の国際関係のすべてである訳ではない。その意味で、著者による、シンガポールの位置付けとそれを念頭に置いた「課題先進国」日本の今後についての提案には共感するが、それは現在の日本の指導層も十分分かっているものであり、その他諸々の要因も考慮しながら、具体的な諸策を検討・実施することが現実的な課題であるということになる。例えば、著者は、議員時代の経験を踏まえ、日本の地方活性化のため「(国をまたいだ)二地域間居住」といった提案をしているが、こうした具体的な施策がもう少しあったら、この著作も注目されていたのではないだろうか。

 シンガポールと東南アジアの今後の成長性については全く同感であるし、そこと日本の今後の関係強化を促す著者の提言もその通りであるが、他方では誰もが分かっている課題を一般的に綴った著作であるという印象は捨て去ることはできない。その意味で、この著作は「シンガポールと東南アジア入門書」である。ただ、この著者と、滞在時にもう少し立ち入った話をする機会を持てなかったのはたいへん残念であった。

読了:2022年8月21日