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アジア読書日記
インドネシア
インドネシア
著者:水本 達也 
 シンガポール赴任に伴って、今年はまずシンガポールに関する文献を中心に読み進めてきたが、取りあえず主要なものは処理したこともあり、これからは他のASEAN諸国の勉強に入ろうということでまず手にしたのが、この本である。著者は1968年生まれの時事通信記者で、2001年から2005年末までジャカルタに特派員として駐在している。まさに著者の滞在時は、1998年の通貨危機を契機としたスハルト独裁の崩壊を受けた「民主主義への経過期間」であり、政治的な混乱が発生すると共に、社会的にも2002年10月のバリ島自爆テロや2004年12月のスマトラ島沖地震と津波といった大事件が続発した時期である。著者は、「政治や経済のグローバリゼーションが主権国家そのものを希薄にしていく今日、民主化と国家統一の両立を迫られている国家は、国際社会でどのような立ち居振る舞いをするのか」といった観点から、この多民族海洋国家の最新の姿を描いている。出版は2006年12月。著者がこの国を描く視点は4つ。まずはこの国の社会や治安の根本問題を映し出すバリ島自爆テロをはじめとしたイスラム過激派問題、次に民主化に軸をおいたスハルト後の政治過程、3つ目がアチェや東チモールに象徴される民族問題、そして最後に「ASEAN」の盟主としての外交手腕。これらを見た上で、最終章で今後のこの国の問題を総括している。

 まずイスラム過激派問題。2002年10月、バリ島のクタとジンバランで発生した爆弾事件は、東南アジアのイスラム系テロ組織ジェマ・イスラミア(JI)が企てた事件であった。その実行犯として逮捕された約40人は、ちょうど先月インドネシアで死刑が執行された3人を含めほとんどがインドネシア人であり、事件発生後も、「これはアルカイダの犯行」、「国内にテロリストは存在しない」という主張を繰り返していたメガワティ政権の虚構を暴くことになった。しかし、著者は、こうした虚構に依拠せざるを得ないこと自体が、インドネシアの難しい宗教問題を示唆しているという。即ち、伝統的な「非同盟外交」を維持しながら、テロ国家という非難を回避する必要と、国内のイスラム勢力を敵に回せないという2つの極を揺れ動く、この国の難しさを物語っている、というのである。

 バリの爆弾事件は、一方でJIの名前を有名にしたが、他方この事件でアルカイダの関係者が逮捕されたことから、JIはアルカイダの下部組織のように見られているが、実はJIの方が活動の歴史は長く、その過程での苦難はアルカイダの比ではないという。著者はJIの創始者の一人で、バリ事件に連座して逮捕されたバシル師に獄中でインタビューし、彼の考え方を伝えている。

 イエメン移民の末裔バシルは、特段変った経歴の持ち主ではない。18歳で兄が活動していたモスレム青年運動に参加し、そこで盟友となるスンカル師と出会い、イスラムの純化という理想に共感したという。しかしインドネシアは独立の際、「イスラム教に立脚した政教不可分の『イスラム国家』ではなく、近代的な法体系と社会制度を持つ『世俗国家』」を選択した。このため新国家は、「イスラム教徒の(義務と権利の)一部を犠牲にしたうえで統一が保たれるという誤った姿」(バシル)になったのである。こうしてスカルノ時代には共産党に加え、イスラム勢力も反政府武装闘争を行うことになる。

 スハルトは、共産党をクーデターの主要敵として弾圧したため、共産党壊滅後はイスラム運動が唯一の反政府勢力となった。他方で、スハルトは、公認のイスラム政党を組織し、いわばその御用政党の中に宗教を抑え込んだ。それに反対する急進イスラム運動は激しく弾圧されたという。急進イスラム勢力は、アフガン義勇軍の経験から軍事技術も蓄積し、その結果1993年に「ジハード」を任務とする「ムジャヒディン」の集団としてのJIが誕生することになる。

 誕生直後からJIは、海外のイスラム急進派運動と連携を強めたが、特にフィリピンのモロ・イスラム解放戦線(MILF)とは密接であり、MILF支配地域の軍事基地を軍事訓練に利用していたという。2001年1月、ミンダナオ島で警察の手入れが入ったが、押収されたのは、そこの民家に滞在したJIのメンバーで、爆発物専門家のアルコジが、シンガポールの米軍基地襲撃のために準備したTNT火薬であったという。また2002年5月に逮捕されたファルクのように、インドネシアに滞在し影響力を高めたアルカイダのメンバーもいた。

 1999年、スハルト政権の崩壊を受けてスンカルとバシルは潜伏先のマレーシアから帰国し、本国での活動再開を企てたが、帰国直後にスンカルが心臓発作で死亡。運動は、穏健派のバシルと急進派のハンバリという2つの勢力に分裂し、後者がキリスト教教会等を狙った爆弾テロに傾斜していくのである。

 インドネシアの問題は、米国のアフガン侵攻等に際し、一般イスラム教徒の募金活動が行われるなど、反米親モスレム意識が強いことから、政府もあからさまなモスレム運動弾圧ができないことである。最近では、バリ爆弾事件の首謀者3人の死刑が執行されたが、当地の新聞も、これに反対し、3人を殉教者として称えるインドネシアでのデモを報道していたし、これをきっかけに新たなテロが発生するという警告も出されていた。またバシルにも厳しい刑罰は科されず、結局2006年6月恩赦で出所したという。世界最大のモスレム人口を擁する国であるが故に、モスレム宗教勢力との距離感が難しい実情を物語っていると言える。

 第二章は、「民主化の果実と代償」と題され、戦後インドネシア、なかんずくスハルト退陣後の民主化を巡る政治指導のありようを整理している。

 まずスハルト時代の評価の難しさ。1965年共産党のクーデター計画を弾圧してスカルノから権力を奪い、一方で数10万人の反対派を虐殺し、自らが最高顧問を務めるゴルカル党と弾圧装置としての国軍を使い独裁体制を築いた側面と、他方で外国資本を積極的に導入し経済開発でそれなりの成果を収めた側面、いわゆる「開発独裁」の評価が常に付きまとうのである。

 1997年のアジア通貨危機でこの経済成長政策が破綻したことで、スハルトは退陣に追い込まれたが、後継者として副大統領から大統領に昇格したハビビ、そしてその後ワヒド、メガワティと続いた夫々の政権が、国民の政治参加、国軍改革、地方分権、法制度確立、汚職の撲滅といった根本的な制度改革を標榜したものの、いずれの政権も「スハルト時代」を裁くことができず、改革は中途半端に終わったという。そして結論的には、「1999年10月のワヒド政権から2004年のユドヨノ政権までの5年間、振り子のように左右に揺れながら、激動と混乱のなかで理想とされた文民統治の限界を思い知らされる過渡期」になったという。

 著者は、各政権の試みと限界を追いかけていくが、詳細は省き、大きな特徴だけ記載しておくと、まずワヒドは、イスラム宗教指導者として、「若い頃から帝王教育を受けた彼の性格は、民主化の結果として脆弱となった大統領の地位を受け入れられず」、その勘違いが「無用な誤解と対立を生みだした」という。4つの政治勢力が拮抗する中、妥協の産物として成立したワヒド政権は、民主化に基盤を求めようと試みるが、結局のところ経済政策の失敗と稚拙な人事政策とテロなどの社会不安の拡大で民意が離れ、そして最後は2001年7月、無理やり実行しようとした非常事態宣言に反対する他政党が仕組んだ大統領解任決議を受け退陣することになる。

 ワヒド政権成立時に、多数化工作に失敗したメガワティが大統領となる。スカルノというカリスマは、65年のスハルト政権による権力奪取にも関わらず衰えていなかった。そしてスハルト退陣後、2回の結婚を経て主婦生活を送っていたスカルノの娘であるメガワティが政治舞台に担ぎ出されたのも、この亡き父親の神話故だったという(何故兄ではなかったのか、というのは個人的な疑問)。そのせいか、メガワティは、「支持者たちの弱くて勝手な庶民感情を理解できず、政治的な駆け引きも、不思議なほど苦手だった」という。結局、政治的決断力を持たないメガワティも、国軍の過去の残虐行為を含め、過去を清算できないまま、バリ島テロや燃料・公共料金の引き上げによる国民の不安が高まる中、ユヨドノに政権を譲ることになる。

 ユヨドノは、バリ島爆弾事件やアチェ津波の復興対策等で頭角を現し、メガワティらの妨害を跳ね返し大統領に就任する。ユヨドノは、メガワティが導入した国民による直接選挙で選ばれた初めての大統領であるという。この章はユヨドノが就任した段階で終わっており、その後のこの政権の評価には触れられていないが、彼も就任早々スハルト裁判の終結を宣言するなど、この国の過去の清算には、まだまだ時間がかかりそうなことを示唆している。

 続く章は、民族紛争問題である。多民族国家インドネシアは、まず東西5100キロ(北米の東西に匹敵)、南北1900キロという空間に分散する海洋国家で、ジャワ人45%を筆頭に約300の民族集団がある。宗教もイスラム教87%、キリスト教10%、ヒンドゥー教2%、仏教0.3%とイスラムが主流であるが、それが実は穏健派から急進派まで、また土着宗教と融合した宗派を含め相当に多様であるという。こうした宗教・民族・文化的多様性が、海洋国家による地理的な分散により、常に国家統一に対する遠心力として働いてきた。1998年のスハルト政権崩壊でもっとも危惧されたのが、こうした地方の独立気運の高まりであり、実際翌99年、東チモールが事実上独立、マルク諸島では宗教紛争が激化、アチェやイリアンジャヤ州(パプア)でも独立要求が高まったという。

 著者は、こうしたインドネシアの多様性を、植民地時代の歴史を遡りながら説明しているが、興味深いのは、この国における日本の占領時の評価である。他のアジア諸国と同様、1942年の日本軍によるこの国の占領は、まずはオランダ支配からの解放と捉えられる。シンガポールでは、その後の日本軍による残虐行為により、リー・クアンユーらが、「まだ英国支配の方が良かった」と言い始める訳であるが、インドネシアでは、こうした占領時の日本軍の支配に対する批判が少なかったようである。更に戦後のスカルノによる独立戦争で、捕虜となっていた日本の軍人が義勇兵として多くスカルノ軍に参加してオランダ軍と戦ったことも、こうした良好な対日感情の背景にあるのかもしれない。

 また独立時にスディルマン率いるインドネシア国軍が、最後までオランダ軍に屈服しなかった(オランダ軍に拘束されたスカルノの投降命令拒否)ことから、文民政権を超えた国軍の権威が確立され、また独立直後のアチェを始めとする少数民族の独立運動の弾圧に貢献したことも加わり、その後の縦横無尽の横暴を許すことになったという。もちろん、それは逆からみれば、この国の独立時点から、少数民族の独立運動は、それほど一般的であったということを物語っている。

 こうした背景のもと、著者は東チモールとアチェの動きを追いかけていく。アチェにとっての不幸は、東チモールが国連等へのアピールを通じ先に独立を勝ち取ってしまったため、インドネシア政府もこれ以上の分離を許容できなくなってしまったということと、2004年12月の大津波により、この地域の社会的インフラが壊滅してしまったことである。結局アチェでは2005年8月政府と独立運動の間で和平協定が調印され、12月に武装解除が行われる。また東チモールでは独立時のインドネシア国軍やそれに支援された民兵組織の残虐行為に対する追及が行われるが、インドネシア側で唯一有罪となったのは「東チモール人」の民兵隊長一人だけであったという。


 第四章は、インドネシアの外交を振り返る。確かに私はあまり意識していなかったが、スカルノは第三世界のリーダーとしてバンドン会議を主催するなど、所謂非同盟外交の盟主を任じていた。その伝統は、スハルト時代もそれなりに生き続け、外交に関わる人材は、それなりに有能であったようである。つい先々週シンガポールの病院で亡くなった、スハルト政権からハビビ政権まで外相を務めたアリ・アラタスの話も出てくるが、その際当地の新聞でも、シンガポールを含めたアジア各国の首脳が弔意を表するなど、その人望の深さが示されていた。

 2005年12月のASEAN高官会議での、ASEANサミットの議論から、この地域を巡るインドネシアとマレーシア、日本と中国の対抗関係や、欧米豪州を含めた思惑が渦巻くことが示される。そうした中で、そもそも1967年8月、「反共連合」として発足したASEANの本部がジャカルタに置かれるなど、インドネシアのリーダーシップが目立っていたという。スハルトが、昭和天皇の葬儀で滞在した東京で、中国外相と電撃的に会談し、翌年ASEAN諸国として初めて中国と国交を回復したり、92年に非同盟諸国会議の議長となり、94年にはAPEC議長として域内貿易の自由化を目指すボゴール宣言を取りまとめるなど、外交舞台で目覚ましい実績を残したという。

 しかし97年の通貨危機で、そのリーダーシップは一変する。安定したリーダーの不在、東チモールやアチェ問題を巡る国連やオーストラリアとの軋轢。そして米国同時テロに対するイスラム国家としての対応も欧米を刺激するものであったが、バリ島爆破で、状況はインドネシア側に決定的に不利になる。欧米の干渉を極力抑えながら、非同盟主義の原則を維持するためASEANを強化する。こうした戦略から出た具体策が、2020年までに「ASEAN共同体」を作るというインドネシアのイニシアティブであったという。ただその中でインドネシアが担当するASEANの安全保障に関しては、相対的に小さい軍事力しか持たないシンガポールがやや警戒感を抱いているという。

 その他、インドネシアの北朝鮮外交が、日本の拉致被害者曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんとの面会(とその後の日本への帰国)を実現した話や、ユヨドノ政権になってからの中国への接近などが説明されている。

 最終章は、「脱スハルト」をキーワードとしながら、今後のこの国の展望を語っている。民主化の結果として手にした直接選挙で選ばれた初の大統領であるユヨドノの支持率が低下しているという。アチェの停戦による治安面の改善、外交指導力の復活、また直前はともかく年初までは経済もまあまあ順調であった。ところが民衆レベルでの生活は改善されず、生活の隅々に張り巡らされたシステムとしての汚職は、それなしでは人々が生活できないという実生活上の必要性がある。それはいわば「資源再配分システム」として機能していたが、秩序が崩れた結果、皮肉なことに「汚職までもが『民主化』された」という。産油国でありながら、国営石油会社プルタミラの杜撰な経営や汚職もあり、今や石油輸入国となり、国際価格高騰に苦しめられる。また豊富だった森林資源は違法伐採が横行し、急速な環境破壊が進行している。パプアでは次の独立運動の芽が育ちつつある。2005年8月、独立60周年式典の報告を行いながら、著者は「この多様な集団の誰もが希望を託せる『りっぱな国』」の「共通の輪郭がはっきりするまでには、まだしばらく、時間がかかるかもしれない」と具体的な方向を示せないまま、この本を結ばざるを得ないのである。

 先に読んだリー・クアンユーの自伝では、スカルノのインドネシアは、シンガポールとマレーシアに反目する「対抗政策(コンフロンタシ)」を取り、シンガポール国内でのテロ支援も行なう危険な国家として登場する。他方、同じイスラム国家でも、マレーシアのラーマンが、インドネシアのジャワ文化に対する劣等感を持っていた、と書かれているが、ASEAN諸国の中で、この国が圧倒的な存在感を持っていることは疑いのないところである。スハルト時代になり、「反共連合」としてのASEANの設立を含め、この3国間の対立は緩和されるが、それでも例えばリー・クアンユーがインドネシアの動向に常に注意を払ってきたのは明らかである。それは例えば、欧州であればスイスとドイツとの関係に似ているようにも見えなくはない。即ち、スイス人は、隣人である大国ドイツの状況を常に注意して見ているが、ドイツ人はスイスの動向にはほとんど気にかけないという一方通行の関係である。しかし、アジアの2国間関係で決定的に異なるのは、1億数千万人の人口と多くの天然資源を有するインドネシアの発展が、人口5百万人に満たないシンガポールよりも大きく遅れてしまったことである。しかし、そうであるが故に、私の大家がそうであるように、インドネシアの富裕層が、シンガポールを自分の資産の運用場所(場合によっては「避難場所」)として使うというのも、またドイツとスイスの関係に近いものを感じる。スハルト以降の政治的混乱が、ますますこの国の発展を阻害しているのは間違いないが、しかしそれでもASEANの「政治大国」であることは間違いない。まだ私はこの国は、休暇でバリ島に何回か滞在しただけの個人的関係しかないが、今後業務でより関与していくであろうことは間違いない。そうした観点から、この国の政治・経済・社会に関する当地の情報に注意を払っていくことにしたい。


読了:2008年12月13日