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アジア読書日記
インドネシア
バリ島ワヤン夢うつつ
著者:梅田 英春 
 世の中には、なかなか変わった人がいるものだ。しかし、そうした変わった人々の経験というのは、傍観者的に覗き見ると、とても新鮮且つ刺激的である。ましてや、それが実際に経験・体験された場所で覗き見ると、またいろいろ想像力が湧くものである。こうして、今回のバリ島での休暇の途中から読み始め、帰りの飛行機の中で読了したのがこの本である。

 別掲のボロブドール観光記やバリ滞在記にも書いたが、インドネシアの観光資源のひとつはガムラン音楽と共に演じられる民族舞踊と影絵である。バリ島では、私はケチャ・ダンスやレゴン・ダンスといった、呼び方は異なるが正直どこが違うのか分からない舞踊を眺め、影絵については、ジャワ島のボロブドゥールを観光した際に経験している。しかし、後者の影絵に関しては、インドネシアの中でもバリ島のそれが、特に民族習慣に根ざした伝統芸能として特に有名だとのことである。そして、そのバリの「影絵人形芝居」の世界に一人飛び込んだ日本人の若き音楽家の修行の日々を回想したのがこの作品である。

 国立音大の学生になったばかりの著者は、ある日大学図書館の視聴室でふと耳にしたガムラン音楽に衝撃を受ける。それは4台のグンデルとよばれる青銅製の鍵盤楽器により奏でられるバリ島の「グンデル・ワヤン」という音楽であった。一瞬にして「バリ熱」にとりつかれた彼は、1983年の春、この音楽を学ぶべく大学教授のつてを辿って英語もインドネシア語もできないまま初めてのバリに2ヶ月滞在する。そして、その後学生時代に、何度かバリを訪れると共に、日本でのガムラン公演などに関与した後、音大卒業と同時にバリ留学の奨学金を得て2年間の予定で再びバリに戻り、本格的なガムランとワヤンの勉強を始めるのである。

 当初はデンパサールの芸術大学で、最初の滞在で師事したフランス帰りのエリート教授につき勉強を始めるが、同時に、やはり最初の滞在時に見る機会があり、大きな衝撃を受けていた土着のワヤン一座が根拠としているトゥンジュク村という、デンパサールから車で1時間以上離れた田舎に通いつめながら、このワヤン一座の人形遣い(ダラン)であり、教授の父親であるラジェク老人を師匠とする修行の日々が始まるのである。

 すさまじい修行の様子が語られる。楽譜も、秩序だった教授法もない職人芸のガムラン修行。ガムランの演奏を耳で聞いて覚えるしかない。ガムラン奏者の「鬼軍曹」のヤシじいさんが登場し、著者がデビューする演奏で、彼が全く習っていない曲を突然演奏する、といったとんでもない罠を仕掛ける。またある時は夜始まったワヤンが、朝の5時まで延々と続けられる。私が学生時代、最初にバリの習俗ということで知った魔女ランダが登場するワヤン(「チャロナラン物語」−ランダとバロンの死闘!)の上演を見に行った時には、その前に上演された著者たちのワヤンが長引き、続いて行われた他の一座が上演するチャロナラン物語で、妖術師チャロラナンが魔女ランダに変身する夜12時前後を過ぎてしまったため、この場面がないまま終了してしまった(ワヤンの終了時は、宇宙樹カヨナンがスクリーン中央に立てられるそうである)、という。またデンパサールの北にあるタバナン州の王宮で、王の末裔の通過儀礼である削歯儀礼のために演奏する、という経験も語られる。丁度日本での坊さんの読経のように、ワヤンとガムラン音楽が、ハレの機会を盛り上げる行事として人々の生活の中に溶け込んでいる様子が感じられる。著者は、いったんメンバーとして認知された後は、この一座の上演に可能な限り加わり、あちこちの村での儀礼で演奏をしていく。ある時は、熱を出し、デンパサールの下宿で休んでいた著者のところに、突然一座が、演奏者が足らないと言って迎えに来て、大家がびっくりするということもあったという。

 演奏活動と並行して進められるワヤンの勉強風景も面白い。大学の授業は、教授の出身地のワヤンを教えるが、これが、著者が別に学んでいるトゥンジュク村のそれと色々違っていたという。他方、ラジェクさんからは、グンデルの演奏の他、彼の昼寝の合間を挟んで語られるワヤンの演目に関する知識を延々と聞き続けることになる。特に「マハバラタ物語」は、もちろんヒンドゥーの古典であり、ワヤンの重要演目であることから、彼はラジェクさんから多くの話を聞くが、これは原作とは異なる部分も多く、実際のワヤンの上演ではダランによる創作が付け加えられることもあるという。そしてある時から、ラジェクさんによる人形使いの伝授も始まり、また人形自体を製作する経験も積む。人形の軸になる水牛の角を買い付けるためにジャワ島のソロにわたる旅が語られるが、バスやフェリーの様子など、さすがに今のバックパッカーでは経験できないような、ワイルドな旅である。そしてそこで仕入れた材料を下に、今度は形や色等に苦労しながら、ワヤンの登場人物の一人(シワ神の兄弟とされるトゥアレン)の人形を完成させるが、これはこの本の表紙を飾ることになる。
 
 ダランというのは、「人形遣いであるだけでなく、ワヤン人形を用いて聖水を準備し、その聖水で人間の穢れをはらう、マンク・ダランとよばれる宗教的職能者(僧侶)でもあった。」そのダランであるラジュクさんが、公式の宗教行事である寺院のオダラン(祭礼)に出席しなかった、という話が語られる。「形を繕うだけの中身のない信仰表現」を嫌ったということのようであるが、パリサダというインドネシアの公的なヒンドゥー教評議会があり、この組織が1980年代以降、トゥンジュク村を含めた全国の宗教儀礼に介入していたようである。職人としての個人的抵抗ということのようだが、国民への管理を強化したスハルト時代の一面を見るような話である。またワヤンの最中に、近親者に呪いをかけてくれと依頼されたラジュクさんが断固断り、普通のワヤンを上演したというのも、こうしたダランに対する民衆の信仰を物語る挿話である。子供の通過儀礼であるサプ・レゲールでの上演を、それを行わなかったために多くの災難が襲った17歳の子供に行い、「人喰い神カラと『象徴的に』対決し、『子ども』を救う」ダランを、著者は一心不乱に観察している。
 
 著者の大学の先生であり、ラジェクさんの息子であるスマンディさんが始めた、「笑いを前面に押し出した」新しいワヤン運動である「ワヤン・ボンドレス(仮面劇の道化役)」に著者が参加した話も面白い。このワヤンの人気が上昇し、テレビ出演も行ったことから、そこでは珍しい日本人の著者の存在も広く知られるようになったというが、同時にいろいろな批判も浴びたという。

 こうして著者の2年間にわたるワヤンのワイルドな修業が終わり、1988年日本に帰国した後の後日談がエピローグで語られる。仕事の合間に、この経験を博士論文等で文章化したり、またしばらくの休養の後、日本でグンデルの演奏やワヤンの上演にも取り組んでいったという。その矢先の2000年ラジェクさん危篤の報が届けられ、死に際には間に合わなかったものの、再びバリを訪れ、葬儀で当時の師匠や仲間と再会する。そして2006年再びトゥンジュク村を訪れた時には、ラジェクさんの孫のワワンと一緒に演奏する。そして最後は2008年9月のバリ調査訪問時の、一座への参加。留学から帰国して20年、ワヤンに対する著者の情熱はまだまだ衰えることなく続いていくのである。

 まずは、音楽大学在学中にガムランに瞬間的に魅せられ、そこから言葉も生活基盤も全く出来ていないにもかかわらず、その世界に単身飛び込んでいったという著者の人生選択は、常人にはなかなかまねのできないものである。そしてその修業もまたすざまじい。80年代のバリの寒村での生活は、想像するに余りあるが、そこで習得した知識や技術は、このバリの影絵人形芝居に関わる日本人としては、極めて貴重なものであることは明らかである。確かに、このガムランと呼ばれる音楽は、その金属音を中心とした響きが、所謂「ワールド・ミュージック」の中でも独特である。そしてその音楽を理論的に分析すると、いろいろ奥深いものであることも、この本では説明されている。そうした世界に飛び込み、それと生涯関わっていこうという著者の姿は、自分と全く異なる世界で、異なる感覚を抱いて生きている姿であり、それ故に私にとっては驚き且つ新鮮である。バリでの休暇で、こうした著者の経験を覗き見ることで、益々私のリゾート感は深まっっていったのである。

 しかし、一方で、この影絵人形芝居やガムラン音楽に人生をかけるというのは、私の想像を超えた世界である。冒頭に書いたが、最近のバリ滞在時を含め、私も過去に何度かこれに関連する舞踏や演奏に接してきた。しかし、確かにこうした「民族音楽・舞踏」は観光資源として、一時的な滞在時にその場所の文化体験の一環として触れるのは楽しいが、その後も日常的に接するところまでいくかというと、実際はなかなか難しい。例えば、私も最初のバリ旅行時に見たケッチャ・ダンスの印象もあり、このガムラン音楽のCDを現地で購入したが、このCDは現地からの帰国直後に10分ほど聴いた後は、2度と聴こうという気にならなかった。また、昨年ジョグジャカルタで影絵人形芝居を見る機会があったが、この時も、ステージ前面と、ダランや演奏家(この時の楽団には、4人の女性コーラス隊(?)も加わっていた)のいる反対側の両方を行ったり来たりしながら眺めていたが、30分ほどで飽きて移動してしまった。今回も、以前から気になっていたバロンとランダのDVDを購入し、まずは一回通して見たが、これも今後何回見るかは疑問である。

 もちろんこうした人形芝居や音楽は、まさに著者が体験したとおり、この土地の人々の生活に根を下ろし、また土着の人格の中で継承されていく習俗、文化そのものである。なかんずくインドネシアは、ASEAN最大の人口を有する国家であると共に、国土も多くの島から構成され、またその島が其々民族も、言語も、宗教の異なるという、政治・経済・社会的には難しい課題を抱えている。他方、それ故に、他のASEAN諸国とも多かれ少なから同じとは言え、この国でも文化的な複雑性が至るところで垣間見られる。特にバリは、宗教的にはヒンドゥーであるが、それが土着信仰と混合した独特の文化・習俗を作り上げていったというのは、よく語られるとおりである。その意味では、まさに著者も自分の体験を、こうしたバリの民族学的研究という観点からのフィールド・ワークであることを意識して、この作品の中で残そうとしていることは間違いない。これは、まさに私が学生時代に中村雄二郎の「魔女ランダ考」を読んで以来、この島に抱いていた幻想である。中村の作品は、当時山口昌男とも親交のあったこの哲学者が、所謂中央と辺境の両義性のせめぎ合いから構成される文化の構造性という観点からバリの習俗を分析したものであったが、あくまで旅行者としてバリを訪れただけのこの学者の本では、こうした文化の背景にある人々の生活そのものに立ち入った記述や分析があった訳ではなかったように記憶している。その意味で、今回のこの音楽家による本は、著者の修業記とは別に、レヴィ・ストロース等にも通じる、バリの習俗に関する貴重な文化人類学的な一次資料と考えることもできる。

 快適なリゾートでもあるこの島には、まだこれからも何度か訪れる機会がありそうである。その意味で、この島に関連する他の「文化人類学的」観点での作品、例えば著者がこの本の中で言及している、生涯をバリの音楽に捧げたアメリカ人コリン・マクフィーや、1930年代にこの島に魅せられ島に移住し民族誌を著わしたメキシコ人のミゲル・コバルビアスといった名前も含め、今後も時折、関連の本も眺めていきたいと感じているのである。

読了:2010年8月14日