インドネシア経済史
著者:宮本 謙介
久し振りにアジア関係で読んだ本格的な研究書である。最近アジア関係で読んだのは、ほとんどが新書であり、それは気楽に読み、概略を頭に入れるにはそれなりに有意義ではあるが、どうしても深みには欠けているものがほとんどであった。それに対し本書は、インドネシア経済の専門家によるアカデミックな研究書であり、出版が2003年ということで、我々が日常的に見ているこの国の経済の最近の情勢については触れられていないが、それまでのこの国の経済発展の歴史についてはマニアックとも言える細かさで議論を進めている。特に古代から中世に至る記載は、こういう研究をしている人間もいるのだと、改めてプロの作業を敬服する思いで読み進めていた。もちろん、そうした時代は、余り我々の直接的な関心には乗ってこないが、少なくともオランダが植民地化してからのこの地域の産業・貿易の発展は、現代のこの国・地域を理解する上で、十分参考になるものである。そんな訳で、ここでは古代からオランダによる植民地化までの時代は簡単に眺めて、植民地化以降の主要な動きを中心に見ていくことにする。
インドネシアの概要は省略するが、この国は私が職務上担当しているアセアン諸国の中で、最大の人口と地理的支配権を有する大国であると共に、3000以上の島(無人島を含めると1万数千)と約250の民族集団と多数の言語を有することで、支配権力の浸透は常に課題を抱え、東チモールの独立のように分裂の危機を常に内包している。そしてジャワ島の中東部に居住するジャワ族が人口の約4割を占めることから、経済面でもここが中心になるが、交易の対象となる商品の原産地はそれ以外の地域にも広がることになる。こうした中で、著者は、17世紀から始まった西欧列強による植民地化の下での「モノカルチュア経済」が、独立後の開発工業化時代にも大きく影響を残した、という視点からこの国の経済史を眺めていくことになる。
先史時代から中世まで、この国の考古学的研究に基づき説明されているが、ここではまず「ジャワ原人」(130万〜50万年前のヒトとサルの中間的存在。)の発見という、小学校で習った記憶のある懐かしい記載が目を引く。初期農耕社会から、紀元前の時期に青銅器などの製造技術が定着。またこうした金属器文化の普及は、「インド、中国との交易以前に、かなり大規模な交易関係が東南アジア全域で成立していたことをうかがわせる」と共に「社会の階層化や地域の政治的統合を促す要因にもなった」とされる。スマトラやヌサ・トゥンガラ諸島で見られる巨石文化はこの時代のものであるという。
有史以前から「マレー・ポリネシア諸民族」がモンスーンに乗って移動する航海術を習得していたとされ、「この航海術でアフリカ東海岸のマダガスカルから太平洋のイースター島まで広範囲で移住していた。」他方、インド人の東南アジア来航も紀元前2世紀頃には始まっていたようで、その後インド商人が「黄金諸島」に金を求めて航海したという。また交易の発展と港市の形成は、それに「食糧を供給する後背地の開発が不可欠」ということで同時期に定着農耕による米生産が進歩し、8世紀頃までに定着したとされている。特にジャワの水田は、「火山物質が流れ込む肥沃な沖積平野で発達し、水牛による犂起こしが普及すると、水牛の排泄物を肥料として有効に利用」し広がったという。またその上に君臨する新興支配層は、支配の権威化にインド文化、仏教=ヒンドゥ教(バラモン教)といった外部文化をも利用したが、その際カースト制度は導入されていないことから、著者は、これらは「社会制度としてよりもむしろインド文明の威信を支配者が正当性の根拠として利用した」に過ぎないと見ている。
この地域の最古の国家が、東カリマンタンや西部ジャワで発見された碑文から5世紀頃これらの地域に成立していたことが認識されているが、最初の本格的な国家は7世紀にスマトラ、パレンバンに近い地域に成立したシュリーヴィジャヤ王国という海洋王国であったという。この国は「十分な交易商品と歳入をもって制海権を維持し、マレー人商人の海賊行為を抑えると共に、外国商人を引きつけた。」唐代に、海路インドに向かった僧(義浄)がこの王国に立ち寄り(672年)、半年に渡りここでサンスクリット語を習ったことが彼の旅行記に書かれているそうである。ただ中国に宋朝が成立した10世紀以降、朝貢記録に頻繁に現れるスマトラの王国「三仏斉」という王朝については、その位置や性格について不明な点が多いという。一方、シュリーヴィジャヤ王国も一部に権力を及ぼしたジャワではシャイレーンドラ王国が成立し、8−9世紀にボロブドゥール寺院を建設する時期に最盛期を迎える。その後幾つかの王朝がジャワに成立するが、重要なことは、この頃から東部ジャワが「群島南部から供給される香辛料の交易拠点として重要性を増し」、そこの港湾都市がより交易の中心となっていったという点である。これ以降この地域は「香料諸島(モルッカ諸島)とマラッカ海峡(インド・中国交易の要衝)」として成長していくのである。面白いのは、10世紀にエジプトにファーティマ朝が成立しカイロが建設されると、「インド洋と地中海を結ぶ紅海ルートの安全が確保され、東南アジアの香辛料が地中海市場に流入される条件が整う」ことになるが、これがまさにその後の西欧列強によるアジア植民地化に繋がることになったという説明である。
15世紀に入ると、明朝の「対外膨張政策」により、胡椒、クローブ(丁字)を主要商品とする東南アジアでの交易が一層活発化する。言うまでもなく鄭和の大航海は、この時代のエネルギーの象徴である。そして16世紀には、ポルトガルによる、1510年のインド・ゴア、11年マラッカ、22年のモルッカ諸島テルアナへの進出という、西欧列強の進出が始まり、以降この地域は列強の熾烈な植民地獲得競争の舞台となっていくのである。しかし、列強の進出前に、この地域の交易の活発化によりアチェ、バンテン、マサッカルといった都市が有力港湾都市として栄えると共に、インド、ペルシャ、アラブからのイスラム商人の影響でイスラム教が普及すると共に、商業用語としてマレー語が広まっていったことは、その後の国家形成上、重要であった。これらの港湾都市の人口は10万人を超えており、著者は、17世紀のバタヴィアの人口が3万人弱であったことを考えると、この時代のこれらの都市の強いダイナミズムが理解できるとしている。
香辛料の大量購入を主目的の一つとするオランダによるこの地域の植民地化は、以下の過程で行われた。まず1602年に「世界最初の株式会社」として東インド会社が設立され、1619年にバタヴィアが建設される。そして1623年の「アンボイナの虐殺」による英国の駆逐、1656年のアンボン占領によるクローブ取引の独占、そして1641年から1684年にかけての、三大物資集散地であったマラッカ、マカッサル、バンテンの占領という過程で進んでいく。この貿易独占により、東インド会社は、本国での対スペイン戦争の費用を捻出する上でも大きく貢献したが、他方で、ずさんな会計処理や恣意的な高額配当などにより会社の収支は17世紀末には赤字化することになったという。
オランダ支配期のこの地域の大きな変化は、中国人の存在感の高まりであろう。オランダは、胡椒等の仲介貿易の仲介に中国人を登用したのみならず、後背地での綿花等の輸入商品の販売、そして何よりも徴税請負を中国人有力者に利用したことが彼らの商品流通過程での支配力を強化することになった。更に17世紀後半には、アヘンの販売とその徴税請負が彼らの大きな収入源となる。また1680年以降は、オランドの支配が「海上交易よりも領土支配による農産物の獲得に重点を移していった」ことも特筆される。ジャワの直轄地域では「義務供出制度」が導入され、各地の現地首長を通じて、当初は米、綿、胡椒等が、そして18世紀初頭からはコーヒー、砂糖等が大規模に収奪されることになる。
この中で、コーヒーは、オランダがそれまではアラビア半島のモカから輸入していたが、これがオスマン・トルコの支配で不可能となったため、18世紀初頭に西部ジャワに豆を移植し、その後20年で世界の主産地の一つになったという。ジャワ・コーヒーの起源である。また砂糖も、鄭成功の領有で台湾を失ったオランダがジャワでの砂糖生産の拡大を企て、中国人債務移民労働者を大量動員したという。18世紀末までに、これも世界の主要産地の一つとなり、欧州のみならず、日本や中国にも輸出されていたそうである。
著者は、こうしたオランダ支配の中心都市として発展したバタヴィアの姿を、人口構成の変化などの実証資料等に依拠し描いているが、中国人の登用も含め、既に見た植民地支配全体の構造の縮図と言えるので、詳細は省略する。また16世紀末から17世紀前半にジャワ中・東部の内陸部を中心に広範囲の支配を実現したイスラム王朝―マラタム王国の盛衰を細かく見ているが、これも内乱や王位継承戦争をきっかけにしたオランダの植民地支配拡大の歴史の一例である。
18世紀末、欧州でナポレオン戦争が勃発し、オランダ本国がフランスに占領されると、その隙をぬって英国がジャワに侵攻、1811年7月ジャワを占領する。シンガポールから移動した若干30歳のラッフルズが総督代理に就任し、「自由主義的」改革を進めることになる。その中心が、「直轄領に導入した地税制度」で、これは「それ以前のような現地人中間支配者を介した労役徴発や義務供出を廃止して、農業の『自由化』を図るものであったが」、それはラッフルズの意図から離れ、住民の村落結合と村落行政の整備を促進したという点で、後のジャワの農村社会に大きなインパクトを与えることになったという。因みにラッフルズは5年の統治を終えて本国に帰還した後、「ジャワ誌」という自然・風土から社会制度、文学、音楽に至るまでカバーした1000頁を越える本を出版したという。ラッフルズの東南アジアでの功績は、シンガポールの植民地化よりも、こちらの方が重要なのかもしれない。
1816年、ナポレオン戦争後、欧州での交渉で何とかジャワでの権益を維持したオランダのジャワ支配が復活する。しかし本国も植民地政庁も、其々の戦争で財政は危機に瀕しており、それを打開するためジャワでは「短期間に最大限の収益をあげうる」「強制栽培制度」が導入される。そして結果的には、この制度により、プランテーション体制に移行する1870年代までに膨大な利益を上げ、「本国政府の財政危機を打開したばかりでなく、19世紀後半になって本格化する産業革命の財源としても『貢献』した」という。しかし、同時にこれはジャワの農村社会を大きく再編成することになる。このジャワ農村社会の変貌の議論はやや分かり難いが、大まかに言うと、米などの自給作物と強制栽培の砂糖キビ等の輪作の一般化、強制栽培での労働力調達による水田などの土地の「共同的占有化」、そして農民の「賃労働」への依存と「農村の貨幣経済化と輸入工業品(特に衣類)の流入促進」等の変化であったという。
1860年以降、東南アジアの植民地全体で「自由主義」植民地政策が本格化していくが、ジャワもその例外ではなかった。即ち「列強は、各地域の社会的・地理的特性を生かした商品開発、独自の労働力管理システムの導入を図り、これに応じて各国・各地域に特定の一次産品(農産物・鉱産物資源)に特化したモノカルチュア経済が成立」し、それが私的資本によるプランテーション経営を軸とする体制に移行していくことになるのである。そのためにジャワではプランテーションへの土地貸与を可能にする法体系の整備や運輸・通信インフラの整備(バタヴィアー現ボゴール間の鉄道の敷設とその延長)、民間資本の進出と金融資本の支配強化等が行われる。この時期、砂糖プランテーションンの集荷・輸出基地として、バタヴィアよりもスラバヤやパレンバンが成長したという。相変わらず著者は、この変貌の詳細を、都市労働者構成や農産品構成や農村部の土地所有等いろいろな側面から見ているが、詳細は省略する。また中国人有力者への請負制度、なかんずくアヘンの請負制度も20世紀初頭には廃止されるが、こうした華人有力者の中から、「自由主義」期の民間企業の発展を担う新たな有力商人層も誕生してくる。その先駆が、後に「砂糖王」と呼ばれた黄仲涵(ウイチョンハム)財閥であった。更に20世紀に入ると民族意識も次第に高まり、また鉄道や製糖業の労働者も増加してきたことから労働運動・争議も発生するようになる。特に後者は、第一次大戦後の急激なインフレや、輸入米の不足などで米価が高騰し都市労働者の生活が直撃されるとピークを迎えることになったという。あるいは東部スマトラでは1870年代からタバコ生産が急速に拡大するが、ここに集められた中国人クーリーたちの暴動も発生し、本国でもその労働状態を告発するパンフレット等も出回ることになったという。しかし、これについては根本的な解決はなされることはなかったようである。またこの時期、石油とゴムの生産が拡大したことも、産業面では特記される。
1929年の世界恐慌は、この地域でも輸出品価格の暴落を通じて深刻な影響を及ぼすことになる。特にジャワの砂糖及び外島でのゴム、石油、錫等が大きく打撃を受ける。こうした中、1909年バタヴィアに領事館が設立されて以降、日本の経済進出が進む。
ここで面白いのは、「1899年に日本人はヨーロッパ人と同等の法的地位を与えられており、他のアジア外国人(主に中国人とアラブ人)とは異なり、植民地内の自由移動や土地・鉱山開発権の獲得も可能であった」という点。オランド植民地当局が日本人に与えたこうした特権の意図や背景は余り説明されていないが、その後のインドネシアでの日本の存在感の高まり、特に日本からの輸出の急増を受け、恐慌後は日蘭の貿易摩擦にまで至ったことを考えると、これは今後調べてみる価値はありそうである。またこの時代、従来からのプランテーション関連産業を出発点に、バティク産業等の輸入代替型の製造業も成長したというが、その資本の多くが、日本を含む非オランダ系の海外直接投資により調達された(1929−39年の海外直接投資の61%が非オランダ系)というのも、日本のこの地域へのコミットが早くから行われていたことを物語っていて興味深い。そしてこうした歴史から、日本の「大東亜共栄圏」構想上、インドネシアは「軍事戦略上の重要な構成要素」と位置付けられ、1940年9月の仏領インドシナの進駐から始まる南進政策の中で1942年3月に日本軍が支配下に置くことになるのである。しかし、この日本軍の占領下では、まず日本にとって最重要な戦略物資であった石油生産施設は、オランダが降伏直前に破壊したことや、その後の復旧も計画的でなかったことから十分に機能せず、また農業生産は、日本軍がジャワを食糧供給基地として位置付け、商品作物生産を制限し食糧作物への転作を促し、且つその収穫物を強制徴収するという状態であった。それにより、この地域が戦前に有していた国際分業での位置と群島間の地域交易が完全に破壊されたとしている。この日本の「資源収奪的で、占領地域の経済建設等の明確な開発プランは全く欠如した」占領政策により、インドネシア経済は大きな混乱に陥り、この負債が独立戦争からスカルノ政権時まで引き継がれることになったという。
1945年8月17日の独立宣言からオランダとの独立戦争を経て、1949年12月の連邦共和国としての独立により、ようやく経済再建が可能となる。まずは「ベンテン(保塁・砦)計画」という、モノカルチュア経済から脱却し、国家の保護のもとに民族資本(プリブミ資本)を育成しようという政策が取られる。しかし、この制度下では政治的コネによる利権転売や政党企業の勃興等が横行し、外資や中華系資本に対抗できる民族資本家の育成に失敗すると共に、その後のスハルト時代のクローニー資本主義の端緒が芽生えることになったという。「共和国の慢性的な赤字財政は深刻」であり、また「多民族社会のインドネシアでは、各民族間の政治的・経済的な利害対立が、事あるごとに表面化」し、それが1956年末からのスカルノによる「議会制民主主義」から「指導される民主主義」体制への移行と、それによる「大統領と軍部(陸軍)への権力集中」となっていく。ナシュティオンという将軍は「軍の政治・経済分野への進出を正当化する『二重機能論』を定式化」し、軍所有企業の設立が始まるが、これは後のスハルト軍事政権のイデオロギー的基礎となる。
この「指導される民主主義」体制下で、オランダ資本の農園等が次々に接収され国営(軍管理)企業になったが、その際、農園の労働組合は、当初この動きを反植民地主義の行動とし容認するが、60年代以降農園経営での軍部の既得権益が拡大すると、軍と労働者の対立が次第に先鋭化していく。
この時期、軍の管理下におかれた国営基幹産業はほとんどが経営不振で、生産は減退、外貨不足も深刻であった。一方スカルノはそうした国内的な危機から視線をそらすため、1963年9月、マレーシア対決政策を宣言し、英国資産の接収を行うが、これはアメリカ等の経済援助停止、シンガポールとの通商関係の断絶による国際貿易への打撃など負の効果が大きく、通貨増発による悪性インフレや土地改革を巡る共産党と反共組織との対立激化とも相俟ってスカルノ失脚の伏線となる。またこの時期、ナショナリズムが高揚し、華人に対する抑圧が強まる中、かろうじて生き残ったのは軍人(=官僚)との強力なコネクションを持つ華人企業、あるいはそうした華人企業と提携した一部の地場企業だけであった。
1965年9月30日のクーデター(「9・30事件」)で、スカルノは退陣、共産党勢力は一掃される。「経済的側面から見れば、1960年代の共産党と傘下勢力の伸張は、経済の中枢を担った軍(=官僚)勢力、その保護の下に国際的な資金ネットワークを持つ華人資本家の既得権益に挑戦するものであり、『9・30事件』は軍主流派と結んだ資産家層・中産階層の勝利という側面を持ち」、他方「スカルノに近いプリブミ資本はほぼ例外なく没落した」という。その意味で、著者は、経済面においては、スカルノ政権からスハルト政権への連続面に注目すべきとしている。
こうして、スハルトによる「開発独裁」型の経済運営が本格化する。経済面では「外国援助の大規模な受入れのために、外交政策を西側陣営寄りに大きく転換」、政治面では「国軍を統合し、(中略)軍は国内の治安維持と政治安定を第一の任務として、陸軍が行政の末端まで配備され、諜報機関も肥大化する」という独裁体制をひくことになる。
この体制で、経済政策をまず担ったのは、バペナス(国家開発企画庁)のテクノクラート官僚群(「バークレイ・マフィア」)で、彼らはIMF流の市場志向の経済再建策を強力に進めることになる。他方で、1970年代に入ると、「政府部内では、石油収入に依拠して民族資本を蓄積し、国家の直接的介入による民族経済の建設を中心に据えるべき」とする「民族派」が台頭し、80年代前半まで、この二つの潮流が確執を繰り広げることになった。後者が依拠したのが国営石油会社のプルタミナで、この資金調達は主として日本の政財界との密接なつながりで実施されることになったが、このプルタミナが1975年2月に債務焦げ付きで問題化し、「日本を中心とする海外からの資金調達に絡む腐敗・汚職の規模の大きさ」を示すことになったという。また「民族派」への日本のODA支援を象徴するのが、私が社会に出た時代、ファイナンスの一端に触れたアサハン・プロジェクトであるが、これは「現地社会に開発効果をもたらさない巨大プロジェクトで、日本の援助政策の内実が問われる契機となった」というのが著者の評価である。更にこの時代、1974年1月の「マラリ事件」等の反華人、反日暴動などが勃発するが、これも日本と結びついた「民族派」路線の結果としての貧富格差、軍人と華人資本の結託などに対する民衆の不満の現れであったという。こうした日本との関係がその後どのように展開していったかについては、少し調べてみる価値がありそうである。
スハルトの下で、「少なくとも資源(石油)収入が潤沢であった1970年代半ばから80年代初頭まで」は、「軍の権威主義=独裁政権」による輸入代替型の経済成長が続き、またその中で国営企業、軍所有企業、そして華人企業が成長していく。華人企業として、ここではサリム・グループとアストラ・グループが細かく紹介されているが、前者はスハルト政権崩壊と共に海外に逃れ、後者は現在でも我々が日常的にフォローしている先である。またスハルトのファミリー企業が「インドネシアにおけるクローニー資本主義の中核に位置していた」が、これももちろんスハルトの凋落と運命を共にすることになる。
また同時期、農村部では主として米国の支援による「緑の革命(=高収量品種の導入を軸とする農業技術革新)」が進み、確かに米等の生産量を全体として高めたが、同時に新農法が多額の農業投資を必要としたことから農村世帯の所得格差を広げ、下層化した農民が労働者として都市に流入していった。またこの都市化の過程では「労働力の女性化、それも若年女性の都市労働への大量参入」が発生したという。これは言わば労働集約型の縫製業、製靴業、食品加工業等が、短勤続、低賃金、不規則労働、縁故採用、福利厚生の欠如等の実態から女性労働力の動員を促したということで、成長初期の中国沿海部で見られたのと同じ現象であろう。また開発独裁下、この時代の労使関係は、「パンシャシラ(疑似家族主義)労使関係」というイデオロギーで厳しく管理され、結社の自由、団体交渉権、ストライキ権等は当然全面的に否定されることになる。
1985年のプラザ合意以降の国際経済の変動の影響を受け、他の東南アジア諸国と同様、インドネシアも1980年代のうちに輸入代替から輸出志向型の産業シフトを進めることになる。農業から製造業への移行、石油を始めとする資源エネルギー収入から非石油・ガス製造業への輸出=外貨獲得源の変動、そしてジャワ、なかんずくジャカルタへの投資の集中等が90年代に顕著になる。しかしこうした変化は、民間企業の役割増大により、「国家主導型の経済成長戦略と資本家グループ育成の後退」を促す。市場経済の浸透により、政府内でも国家書記局のテクノクラートの影響力が強まり、非効率な軍支配の企業が競争の中で凋落していく。しかし政治的な力を有する軍が経済的既得権に固執したこと及びスハルトのファミリー企業が聖域として維持されたことで、政権内部での軋轢のみならずスハルト一族の縁故主義に対する民衆の不満も高まっていく。スカルノの長女メガワティが野党指導者になると、スハルトは公然とこの動きを弾圧するが、それが再び国民の不信感を高めるという悪循環に陥っていく。1997年のアジア危機を契機とするスハルト政権の崩壊は、「規制緩和・輸出志向への開発戦略の転換によって一層の市場経済化は不可避とするIMFや政府内部のテクノクラートと、開発政策の転換は容認しつつもクローニー資本主義にあくまで固執するスハルト(及びその取り巻き)」との軋轢が主因と説明されているが、いずれにしろこの政権の崩壊は時間の問題であったことが理解できる。
こうしてスハルト退陣後、その「忠実な後継者」と目されたハビビも、厳しい情勢下で「改革」と「KKN(癒着・汚職・縁故主義)撲滅」をスローガンとせざるを得ず、次々と政治制度の自由化を打ち出すことになる。金融危機を加速化させた民間企業の債務膨張と銀行の不良債権についても、銀行再建庁による処理が行われるが、この過程で、スハルトのファミリー企業や側近華人実業家への不正融資が発見されるなどもあり、これらが解体、ないしは事業規模の大幅縮小が行われることになる。その例としてはサリム・グループやビマンタラ・フンプスといった名前が挙げられている。またこのための公的資金は600兆ルピアに及ぶ国債で調達されたが、この時点ではこれに伴う中央政府の財政悪化が懸念されている。その後、この債務処理がどのような展開を経たのかは、別の情報を確認しなければならない。こうして、この本では、1999年6月のワヒド(大同団結)政権から2001年7月のメガワティ政権に至る過程が簡単に説明され、経済面では「真の自立的国民経済」の建設に向けた多くの課題がまだ未解決のまま残されている、と指摘して終わることになる。因みに、この時期の政治状況については、別掲の時事通信記者による2006年12月出版の新書では、「1999年10月のワヒド政権から2004年のユドヨノ政権までの5年間、振り子のように左右に揺れながら、激動と混乱のなかで理想とされた文民統治の限界を思い知らされる過渡期」であったと総括されている。
我々が日常業務で接している現在のインドネシアは、この本の最後に説明されている状態から相当改善されている。政治的には、2004年10月に、国民による初の直接選挙で第6代大統領に就任し、2009年10月に再選されたユドヨノは、国内の治安維持を含め、求心力を保っている。また経済的には、2005年以降、好調な個人消費と輸出に支えられながら5%後半から6%台の成長を続け、2010年も通年で6.1%の成長を達成している。そうした中、私が職務上追いかけているこの国の株式市場も、人口ボーナスに支えられた旺盛な国内需要と石油、ガス、石炭、パームオイル等の一次産品の中国・インド向け輸出の急増、そしてアジア危機以降健全化した金融市場と安定した金融政策などを評価し、好調なパフォーマンスを示してきた。足元こそ、欧州発の信用不安で、欧米資金の逃避といった需給要因でやや調整しているが、こうした外部要因が正常化すれば、再びグローバル市場の中で注目を浴びる可能性は引続き高いと思われる。
他方で、依然国内での汚職摘発といった新聞記事は時折目にすることも多く、また先月は、カリマンタンで、川に架かる橋が突然崩落し、橋上にいた車や通行人に多数死者が出たが、これは工事費用の一部が賄賂となり、手抜き工事が行われたのが原因と報道されていた。こうした伝統的な社会習慣や行動様式は、当然一朝一夕に変わるものではなく、この国と付き合っていく時には、常に頭に置いておかなければならないのは確かである。
この本が取り扱っているのは、歴史が常にそうであるとおり、まさに現在のこの国の中に凝縮されている過去から連綿と流れる時間であり、その意味では、最近多く読んでいる他の東南アジア諸国に関する古めの本と同様、直接の実利的な情報は限られているが、その国や社会の通奏低音を認識する上では非常に参考になる。しかし、それでも、古代から中世にかけて、細かく資料をあたり、夫々の時代を仔細に見ていく作業には、一方で敬意を抱かざるを得ないものの、他方で、現代のこの国を見ている一読者としては、時としてやや集中力を散漫にさせてしまうところもあった。
因みに、日本とインドネシアの戦後の関係をテーマに最近出版された研究書の書評が新聞に掲載されていた(倉沢愛子著「戦後日本=インドネシア関係史」草思社)。この評によると、スカルノは1957年、難航していた日本との戦後賠償の交渉を岸首相との間で決着させたが、その直後にオランダの資産が国有化されたという。これは「独立後も経済を牛耳っていたオランダを排除するには、日本の賠償資金が必要であった」ため、急遽日本との交渉を決着させたということで、この本での外交文書の検証を通じて明らかにされたとのことである。他方、日本では、「賠償を資源豊かなインドネシアへの先行投資とみる実利志向で、政財界がまとまっていく」ことになる。しかし、その決着により、「その後問題になった兵補や従軍慰安婦への補償は結局なされず、当事者家族にわだかまりを残すことになった」と論じられている。日本とこの国の関係については、既述のとおり、オランダの植民地時代から日本がある種特権的な立場を享受していた理由やスハルト時代の民族派との結託が、その後の日本とインドネシアの関係にどのように影響し、その後如何に展開といったか等、個人的にもう少し調べたいテーマもあり、この本などもそうした関心からすると面白そうであるが、さすがに4900円もするこの本を買って読むことには躊躇する、というのが現在の気持ちである。
読了:2011年12月3日