オランダ東インド会社
著者:永積 昭
7年前に、既に一回読んでいることに気がつかず、改めて購入・再読することになった。読んでいる最中に、「内容に覚えがある」と気がつくことなく、最後まで読み終わってしまうとは、いやいや、最近の記憶力の衰えには愕然とする限りである。(2019年10月20日追記)。
この単行本の出版は1971年というので、東南アジア研究としては古典に属する。2000年に文庫化されたが、1929年生まれの著者は既に1987年に没している。
オランダ東インド会社によるインドネシア支配の歴史は、別掲の「インドネシア経済史」でも細かく説明されており、研究としても、こちらは2003年の出版であることから、この本よりも最新の情報に基づいていると思われる。今回の「古典」本編後の解説によると、この本が書かれた時点では、インドネシアの文献など、この地域固有の資料はまだ用いることが難しく、そのため著者は主としてオランダ側の資料に基づいて、この時期のインドネシアの状況を説明せざるを得なかったとされている。実際、著者は多くの部分を植民地支配に影響を与えたオランダ本国と欧州情勢の説明に費やしている。その意味では、この作品は主に植民地支配者であったオランダ側から眺めた当時のインドネシアの姿であると言える。またインドネシアを経由したオランダと日本との交易についても、日本側の対応を含めて一章を費やしている。その意味では、この作品は、インドネシアの歴史というよりは、「オランダ東インド会社から見た、インドネシア植民地支配の200年にわたる歴史」であると考えるべきなのだろう。しかし、当時のオランダの植民地支配者たちが、通信手段が手紙しかない時代に、本国に膨大なレポートを送っているというのは、現在海外勤務を行っている我々にとっては耳の痛い話である。
本論については、上記のとおり最新の研究とダブるところも多いことから、むしろ最新のインドネシア研究では余り触れられていなかった部分を中心に見ていくことにする。
まずはお決まりの、この「海の帝国」での海上交易の成長とそれに伴う港湾都市とそれを基盤にした政治勢力の登場が語られる。7世紀のシュリーヴィジャヤ(パレンバン中心)や15世紀以降のマラッカ等。そしてそのマラッカで最も活躍したのが「西方のグジェラート商人と、東方のインドネシア商人」であり、交易の中心はインド産の綿織物とインドネシア・モルッカ諸島を原産とする香料(特にチョウジとニクズク)であった。そしてこうした交易の中継基地としてジャワの幾つかの都市が勃興する。それらは、デマ、チレボン、バンテン、そしてスンダ=カラパ、後のバタヴィア(ジャカルタ)であった。
この香料を求めて西欧列強が進出する。この15−16世紀の東洋と西欧の出会いにおいて著者が指摘しているのは、「東西の物質文明の間の大きな落差」はなく、「当時のマラッカはヨーロッパの諸港を凌ぐほどの繁華な港であったし、アジアの大商船はポルトガル船に比して、決して構造上劣るものではなかった。」むしろ決定的であったのはただ軍事力の差だけであったということである。それによりまず交易拠点のマラッカがポルトガルの支配下に入るが、しかしポルトガルは香料諸島までの一貫した交易を支配下に入れることはできず、結局買付けからマラッカまでの輸送はアジアの商人に任せ、またポルトガルに対抗するイスラム商人は、別にバンテンやアチェを経由した取引を行っていたという。そして本国でポルトガルがスペインの実質支配下に入り、そのスペインに対抗するオランダと英国を敵に回すと、アジアでも同じ対抗関係に巻き込まれたポルトガルは急速に力を弱めていく。そうした中1596年、バンテンに滞在するポルトガル人は、四隻のオランダ船が町の正面に到着するのを見ることになるが、これがアジア到達に成功した最初のオランダ艦隊(指揮官はコルネリス=ド=ハウトマン)であったという。
そのオランダ本国の地理や歴史が説明される。詳細は省略するが、スペイン支配下のこの国で16世紀以降固有の文化・文明が発展し、1568年以降、80年戦争と呼ばれる長い独立戦争に突入する。この独立戦争の影響が少なかったアムステルダムが、交易の拠点になると共に、特にユダヤ人らの避難先として国際都市に成長する。面白いのは、ここでスペインがオランダの独立を阻止する長い戦いを行いながら、他方で新大陸との貿易に必要な全ヨーロッパの工業生産物を、主として敵であるオランダや英国の商人を通じて入手していたという事実である。まだこの時代は、戦争といっても国家間の総力戦といったものではなかったのであろう。そしてこうしてオランダに流れ込んだ資金が、彼らのアジア進出の原資となる。こうした中で設立された公開会社の一つがこの本の主題である「東インド会社」であった。
著者は、この有限責任制をとる「世界で最初の株式会社」の組織や意思決定機構につき詳細な説明をしているが、これは省略する。重要なことはこの「株式会社」の現地指導者が、商品取引の権利のみならず、「東インドにおける条約の締結、自衛戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造」といったまさに植民地支配者としての権利を授権されていたということで、これ以降彼らは交易を行うという名目でインドネシア地域の植民地化を進めていくことになる。
後発の進出者であるオランダが、アジア進出に際して狙ったのが、スペイン・ポルトガル連合王国のアキレス腱であり、その戦略は「ポルトガルがほそぼそと守る」マラッカを占領乃至は骨抜きし、その代わりとなる拠点を探すことであった。その候補が「ポルトガル人を追い払って建設した」バンテンや、ジョホール、マカッサル等であったが、この内のジャカトラ(ジャカルタ)が、当初はあまり目を引かなかったものの、その後急速に成長していくことになる。またポルトガルが、香料諸島との貿易に際して本国の階級関係を持ちこむと共に、キリスト教伝道も重視したのに対し、新興国家であるオランダは、東インド総督さえも「会社の召使」と言われ、本国の統制を受けた人びとが、キリスト教伝道という側面を薄めつつ、合理的に「利潤追求を目的とする集団」として動いたという。そしてこの地域の貿易の主導権を巡りスペイン、ポルトガルのみならず、同じく新興の英国等との競争も激化する中、この総督の指導力でオランダが地域の支配権を握っていくのである。初期にこの総督を務めたクーンという男が並はずれた武闘派としての能力を持っていたということで、ジャカルタのイギリス商館を焼き払ったり、バンダ諸島の住民が香料に引き渡しを拒んだ時にここを攻撃し、この諸島の住民を捕虜として大量にジャワに移し奴隷労働をさせた等という多くの逸話を残している。また以前の本でも触れられている1623年のアンボン諸島でのイギリス人虐殺事件(これはクーンの交替直後の事件である)は、きっかけとなったのが「イギリス人の使用する日本人が(オランダの)要塞内部を調べていた」という嫌疑で、その結果処刑されたのは英国人10人に加え、日本人が10人いた、というのは、アユタヤの山田長政等と共に、江戸幕府初期における、東南アジア地域への日本人移民の動きとして興味深い。ただこうした現地の総督の強攻策が、時としてオランダ本国での懐疑を引き起こし、例えばクーンが一旦解任される理由になったりしているところに、それなりに本国の統制が利いていたことが示されている。
このアンボンの虐殺は英蘭関係に大きな禍根を残し、17世紀後半の英蘭戦争の遠因にもなったというが、他方でこれ以降香料諸島を含むインドネシア地域でのオランダの覇権が確立し、「中部・東部ジャワのマラタム王国の急速な増大以外には、オランダを悩ます危機はかなり遠のいた。」しかもこの王国は、「内陸から興った国家で、米の生産に基礎をおき、もともと貿易には関心をもたなかった」ことから、貿易独占の競争相手とはならず、この国との緊張はもっぱら「政治的・軍事的」なものであった。1927年に「武闘派」クーンは総督として再度赴任するが、マラタムの攻撃を受けてのバタヴィア包囲戦の最中に熱病で急死する。しかしその後任として1636年に総督に就任したファン=ディーメン時代に、この東インド会社は黄金期を迎えたと言われており、1641年のマラッカ占領や探検航海の奨励(タスマンによるタスマニア発見等)等が、その時代の熱気を象徴することになる。また、1648年のウエストファリア条約で、本国ではついにオランダの独立が列強の承認を得たのであるが、その僅か3年後には英国のクロムウェルが発布した航海条例が、オランダの海上輸送に打撃を与え、更に1653年の英蘭海戦での大敗によって、本国の衰退は決定的となったという。
先に読んだインドネシア史ではほとんど触れられていなかったのが、この植民地会社と日本との貿易関係である。日本とオランダの初めての出会いが、1600年のオランダ船の難破と日本への漂着であり、その時に生存していた僅かな船員の一人であったのが英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)だったということを、私は改めてここで認識することになった。この時、アダムスと面会した徳川家康に対し、ポルトガルやスペインの宣教師たちは、オランダ人は海賊だと中傷したが、他方でアダムスから、欧州における新教と旧教の争い等の説明を受けていた家康は、むしろこの勢力の登場をキリスト教の「解毒剤」と考えたようである。こうしてオランダ東インド会社の使節が訪れると、彼らはむしろスペイン・ポルトガルよりも厚遇され1612年以降、両国間の貿易が順調に拡大することになる。そして家康以降、鎖国政策が強化される中でも、オランダは平戸と長崎の商館を維持し、ライバル英国に差をつけたという。しかし、日本との貿易では香料は余り大きな比重を占めず、むしろ輸入の中心は中国産の絹織物や生糸であり、それを確保するためにオランダはまたもマカオ等を牛耳るポルトガルと闘わねばならなかった他、中国貿易を巡る日本側との思惑とも衝突することがあったという。1637年の島原の乱で、オランダは松倉藩の要請を受け、オランダ船の大砲で反乱軍を攻撃するが、この背景にも日本との貿易上の摩擦を和らげようという意向があったと言われている。
こうしたオランダとの貿易以外で面白いのは、1641年の日本人の海外渡航の全面禁止である。それまで、フィリピンのマニラ近郊のディラオとサンミゲル、ヴェトナム中部のツーラン(現在のダナン)、カンボジアのプノンペンとピニャルー、そしてアユタヤ等のあった日本人街が、この江戸幕府による日本人による朱印船貿易の禁止によりいっきに衰え、彼らは圧倒的多数の原住民の中に同化していったという。いずれにしろ、この鎖国政策の強化により、中国とオランダは日本との貿易を独占することになる。そして、日本側では輸入品に見合う輸出商品がなかったことから、地金や貨幣を支払いに充てることになり、その結果当時は「豊富であった銀、次いで金、最後に銅の正貨や地金を順々に喰いつぶしていき」、これが18世紀初頭になり新井白石等の注意を引き、制限されるまで続くことになる。しかし、それまでの間、オランダは日本との貿易で相当の利益を得たというのが著者の結論である。
17世紀半ば以降、香料貿易を抑えた東インド会社は、マサッカルの反乱を平定し、スマトラ北部のアチェやポルトガル支配のセイロンを陥落させる等、貿易路の確保も進めるが、同時に今度はジャワの内陸支配に向かっていくことになる。ここで対抗勢力として対峙したのが、既に述べたマタラム王国であった。特にジャワ島東部で生まれたこの王国は、西進する過程でバタヴィアにあからさまな関心を抱き、既に述べた総督クーンが死亡した攻防戦のように、この街に何度かの攻撃を試みるが、他方でオランダも、王族間の内紛を巧みに利用して、政治・軍事両面でこの王国に対抗する。著者は、マタラムを巡る反乱や内紛とそれに対するオランダの対応、そしてそれに乗じたジャワ西部のバンテン王国の攻勢など、細かく説明しているが、このマタラムの内紛は、何となくバリその他で接してきた人形劇「ワヤン」での物語の題材を想像させるものである。ただここでは、結局オランダ側が、各王国の内紛に乗じる形で、バンテンのみならずパレンバンやジャンビ及び対岸マライ半島のジャホール等、海上貿易を主たる国益としてきた王国を支配下におさめると共に、マタラム王国も18世紀半ばに内紛から2つに分裂させ、実質的な脅威から排除することに成功する。その結果、ジャワ島内部でのコーヒー移植と栽培の拡大等も進むことになる。またこの時期、中国人人口が急増したことにも触れられているが、このあたりは別掲の「インドネシア経済史」でより論理的に説明されている。
この時代には、いくつか植民地支配の脆弱さを示す挿話で面白いものがある。一つは1721年のエルベルフェルト事件。もう一つは1740年の華僑虐殺事件である。
最初の事件は、ジャワのヨーロッパ人皆殺し計画という噂が広がり、ドイツ系混血の老人が、総督との土地取引を巡る軋轢もあったことから逮捕され、自白によりその計画の首謀者とされ処刑、見せしめとしてその首が市内に現代に至るまで晒されていたということである。他方、華僑暴動と虐殺は、オランダの植民地支配そのものに対する不満からの反乱を、ジャワ及びその他の地域でも惹起した点で、よりシリアスな事件であった。この反乱は最終的には平定したものの、これをきっかけに、東インド会社の乱脈経営とそれを巡る内紛も激しくなったという。
いずれにしろ前述のとおり、17世紀半ばの英国との海戦での敗戦の影響は、18世紀になるとより明確となる。この本国でのオランダの力の衰えは、人口の減少や漁船の減少等に示され、その漁業での立ち遅れが造船技術や航海術の衰えとなる。これに従い、東インド会社の支配力も衰えていく。18世紀後半、コーヒーや砂糖きび生産は順調に増加し、ジャワの道路などのインフラも整備されていったが、他方で会社の財政状態は悪化し、社員の汚職も激しくなっていったという。会社の膨れ上がる債務はオランダ連邦議会が負担していたことから、本国でも会社の改革案が何度も議論されたが、フランス革命の中でオランダがナポレオンに占領されると、その余波の中で、この会社は1798年に最終的に解散されることとなり、その200年の歴史に終止符を打ったのである。但し一時期英国に占領されていたバタヴィアは、ウイーン条約後再びオランダに返還され、植民地支配そのものはむしろ深まり、そして第二次大戦後まで続いたことは知られている通りである。
既に述べたとおり、この作品は、オランダ東インド会社に関わるオランダ側資料を中心にした研究であることから、支配者側から見た歴史という側面が強くなり、また著者も、殖民地側支配者に対する影響力の大きさから本国情勢がより克明に語られることになる。その結果、ここではアジア植民地での活動が、結局本国の勢いの繁栄であったことが色濃く示されることになる。現代でもそうであるが、本国が元気でないと、その海外の出先は元気がなくなるのは時代や業務の種類を越えた真実である。
しかし、それにしても今を遡る500年前から、こうした気候風土の違う土地に進出、定着し、そこでの利益を極大化するために数々の策略を練りながら活動してきた西欧列強のエネルギーには敬服させられるものがある。それに比べれば、今の我々の海外活動などは、もちろん基礎になる枠組みは全く違うとはいえ、ある意味ではたいへん甘っちょろいものであると言わざるを得ない。被支配者側から見れば、迷惑千万の植民地支配であるが、海外でのビジネスの先達と考えると、彼らの活動は現代の我々が色々参考にできる部分も多い。植民地支配の歴史とは別に、海外貿易業務の実務書と考えると、意外と古いとばかり言っていられない本なのではないかと感じたのである。
読了:2012年4月20日/再読:2019年10月19日