インドネシア 9・30クーデターの謎を解く
著者:千野 境子
今年8月に読んだアセアン論と同じ著者による、1965年9月―10月にインドネシアで勃発した、スカルノ政権からスハルト政権に移行するきっかけになったクーデター事件を様々な方向から分析した作品である。前記のアセアン論でも当然言及されていたこと、そして最近スハルト政権下でタブーとなっていたこの事件の詳細を明らかにする動き等も出ていることから、この本を手に取ることになった。
前著の評でも紹介したが、著者は、産経新聞記者で、マニラ特派員、シンガポール支局長などを経て、2005年から2008年までは論説委員長も勤めたジャーナリストである。前著では、ASEAN全体の議論が中心で、特にこのインドネシアの転換点となったこの事件について個別に言及されている訳ではない。しかし、著者は、上記のASEAN地域での特派員時代に、特にこの事件に強い関心を持ち、外交文書を中心に資料を読み解くと共に、多くの関係者にインタビューをしている。それを受け、この謎めいた事件の関係者の個人的な要因から、関係各国の思惑なども考慮に入れながら著者なりの推測を提示している。
事件そのものは、1965年9月30日に、当時隆盛を誇っていたインドネシア共産党(PKI)が蜂起し、陸軍将軍7名を殺害するなどしたが、直ちにスハルト指揮する政府軍に制圧され、それをきっかけに犠牲者が30万―50万人と言われる共産党関係者の大虐殺が行われ、インドネシア共産党が壊滅することになった。そして権力の頂点では、第三世界の盟主を自認し、国内でも圧倒的なカリスマ的権威と人気を誇っていたスカルノが、この事件を契機に失脚し、その後32年に渡り続くスハルト独裁体制に移行することになったのである。当時のインドネシア共産党の国内での隆盛を考えると、あえてここで「冒険主義的」な隆起をする必要はなかった。また時の独裁者スカルノはこの動きを知っていたのか?そして其々の背後にいた米国や中国は、この事件に拘わっていたのか?そしてスハルトが、事件後直ちに動き、クーデター鎮圧のみならず、スカルノからの権力奪取に易々と成功したのは何故なのか?そして、この結果、それまで第三世界(=中国)寄りの路線をとっていたインドネシアは、急速に欧米よりの路線に転換する。それは背後に大きな力が働いたと考えざるを得ないのではないか?それらを考えた時、事件の本当の黒幕は誰だったと考えられるのか?まさにこうした疑問につき著者は議論を試みている。
まず著者は、このクーデター未遂事件の背後に、当時のインドネシアにおける共産党・空軍と将軍評議会・陸軍の対立があったことを示している。同時にスカルノは依然、国民からはカリスマ的な人気で慕われていたという。共産党寄りの政策をとるスカルノに懸念を頂く将軍評議会・陸軍勢力に対しては、スカルノは、共産党は十分自分がコントロールできると自信を示していた。他方で、将軍評議会という反共勢力について、スカルノが不安を抱き、その意図につき度々関係者に問い詰めていたという。この年の2月、米国はジョンソン大統領が、激化するベトナム戦争に対処するため、北爆に踏み込んでいたが、欧米から見ると、共産党を容認し、それが勢力を拡大するインドネシアは、次の「ドミノ」が起こる可能性を秘めた国であった。そうした冷戦が熱戦へと転化していたアジアで、この対立が公然と国内政治に影を落とす中で、この事件は発生したのである。
しかし、蜂起した共産党側は、最大のターゲットであった陸軍大将のナスティオンを取り逃がした他、クーデターの大義は、「将軍評議会の企みからスヵルノを救う」ことだったにも拘わらず、蜂起から早い時期にスカルノの行方を掴み、拘束し、自分たちのこの大義を認めさせることに失敗した。そしてそのスカルノも、翌10月1日朝、宮殿を出たところでクーデターの情報に接するが、大統領官邸が正体不明の兵士に占拠されているということで、行き先につき二転三転した後、クーデター勢力が拠点としていたハリム空軍基地へ向かう。そこでクーデター勢力の伝令役と面談するが、クーデターを支持するかしないかについては明言を避ける。著者は、通常は毅然とした決断が特徴であったスカルノが、恐らくは、この事件とその背後の共産党と陸軍の対立をどのように収めるかを思案していたのだろうが、この局面で極度に「優柔不断」となり、また、彼が、宮殿から空軍基地に最初に向かったことで、その後のスハルトとの権力闘争で不利な立場に立たされたと見ている。
それに対して、クーデター発生時は、陸軍戦略予備軍司令官という目立たないポストにいたスハルトの行動は迅速だった。また、この戦略予備軍司令部の片側がクーデター勢力に占拠されていなかったという幸運(著者は、それも疑問の一つとしている)にも恵まれ、ここから反クーデターの指揮をとることになる。彼は、クーデター勢力がスカルノの拘束と支持の取付が出来ていないことを見抜き、スカルノの権威を利用してクーデター勢力の切り崩しに掛り、易々と成功したという。スカルノが、ハリム空軍基地から第二夫人のいるボゴールに入るのを見届けた上で、10月2日早朝そこを奪還、この時点でクーデターの失敗が決定的となるのである。
事件の背景となる、インドネシア独立とスカルノ大統領による「指導される民主主義」誕生の経緯、そのスカルノが、国内の貧困対応といった経済・社会問題よりも「革命のロマンティシズム」を追求したこと、そしてその一環として、1963年にシンガポールを含めたマレー連邦を、「宗主国イギリスの陰謀による反共国家作りであり、インドネシア包囲網」であるとして敵対政策(コンフロンタシ)を取るに至ったことが説明されている。この中で、著者は、特に「このコンフロンタシこそ、九・三〇事件を育んだ土壌であり、スカルノと彼の体制を崩壊に追い込んだ隠れた主役だった」としているのが面白い。1963年7月、インドネシア、フィリピン、マラヤ連邦の三か国は其々の頭文字を取った「連合国家マフィリンド」の結成に合意していたが、そのわずか二か月後の9月に、ラーマンが連邦国家マレーシアの発足を発表したことで、スカルノの怒りが爆発したのである。この「連合国家マフィリンド」というのは、この本で私は初めて知ることになったが、ある意味ASEAN地域連合のさきがけの一つであるとも言えるが、これは、「容共政権」であるスカルノ主導ということから欧米諸国に潰された。そしてマレーシアのラーマンは二股をかけていたが、最終的に反共連合を結成するため、英国と結託し、スカルノを袖にしたということであろう。インドネシアのみならず、フィリピンもこの時マレーシアと国交断行、またマレーシアの国連非常任理事国入りに抗議し、インドネシアは国連から脱退し、まだ国連加盟前の中国がインドネシアを支持し国連を罵倒した、というのも、時代を感じさせる動きである。このマレーシアの決断は、この地域の戦後史の大きな転換点であったと言えなくもない。また両国に利権を有する日本はこの時、当然ながら、マレーシアとインドネシアの和解のために動くが、インドネシアからは、日本はマレーシア寄りと思われ、英国からはインドネシア寄りとの懸念を抱かれた、というのも外交の機微である。
コンフランタシの国内の最大の誤算は、「肝心の国軍がスカルノに従わなかった(中略)、しかも不服従は極めて巧妙に行われた」という点である。そして軍部は密かに水面下でマレーシア軍への接触を開始したという。そしてその「サボタージュ戦略」を中心となって遂行したのがスハルトであった。著者は、この作品を書くに当たって秘密連絡網のマレーシア側の中心人物にインタビューを行っているが、その交渉は相当注意して行われたことは間違いない。同時にそれが軍部、なかんずく陸軍によるスカルノ排除の理由となっていったのである。
この時期、インドネシアに絶大な影響力を持っていたのが中国である。スカルノの反英、反植民地主義を支持し、西イリアンの「解放」や国連の脱退、更にはコンフロンタシも声高に賞賛していた中国の動向は、この9.30事件でも大きな鍵であった。また周恩来は、英国帝国主義に対抗するため「労働者と農民の武装化を図る、いわゆる第五軍構想」を提唱し、スカルノに影響力を持っていたPKI議長のアイディットも、それをスカルノに強く提案していたという。
これに対し、インドネシアと米国との関係は、この時期悪化の一途を辿っていた。アジアの共産主義ドミノを恐れる米国にとっては、スカルノはあまりに共産党寄りで危険な存在であった。そして米上院議会がインドネシアへの援助禁止案を可決すると、スカルノはアメリカ資産の接収で応じるなど、対立も激化していた。明らかに米国は、スカルノ排除を行う理由があった。
こうした大国の思惑に加え、この時期、スカルノの体調不安説が広がったことも夫々の関係者のさまざまな思惑を惹起することになったようである。
こうして、再び記述は、クーデター鎮圧後の現場に戻る。そこで繰り広げられるのは、スカルノとスハルトの4時間にも及ぶ対決である。そしてそこでスハルトは、スカルノから「治安と秩序回復」の権限を与えられるが、著者によれば、これがスカルノからスハルトへの権力移行の決定的な転機になったと見る。何故なら、この役割のもとで「スハルトは何でもできることになった。」そしてスハルトは、当初はスカルノの権威を巧みに利用しながら、じわじわとスカルノを追い詰めていくことになったという。そしてこれを境に、共産党関係者を中心とした大弾圧が開始されたのである。そして事件から約5ヵ月後の1966年3月、スハルトは、スカルノの権限を剥奪し大統領代行に就任、その後32年間に渡る独裁政権の基礎を築くことになったのである。
事件とその背景を概観した上で、著者はこの事件を巡る「謎」解きに移る。
最初の謎は、クーデター勃発後のスハルトの素早い、且つ決然とした行動はなぜ可能だったのか。これについてはクーデター首謀者の一人でスハルトとも親しかったラティフという大佐が、事件後逮捕されるが、処刑されることなく生きながらえ、スハルト失脚後、このクーデター計画につき、事前にスハルトに話をした、と公然と語っていたという事実があるそうだ。言わば、スハルトは計画を知りながら、これを阻止することなく、自分の権力奪取のため巧妙に利用したということになる。またその他の首謀者たちもスハルトとは近しい関係者であったということから、少なくともスハルトはクーデターには中立だろうと考えられていた、ということもあるようだ。彼がクーデターでの襲撃対象とならず、また彼が依拠した戦略予備軍司令部の片側がクーデター勢力に占拠されていなかったという幸運も、それから説明できるとしている。しかし、スハルトは、これらについて語ることなくこの世を去り、証言者も死亡した今となっては、立証するすべはなくなっているという。
次の謎は、クーデター勃発後のスカルノの優柔不断である。これについての著者の推測は、将軍評議会の動きに懸念を抱いていたスハルトは、むしろ心情的にPKIに近く、クーデター計画も知っていた。その上で、PKIと陸軍をうまく裁く自信を持っていたにも関わらず、クーデターが陸軍将校7人の惨殺という彼が予想しない結果となったことで動揺し、スハルトによるPKI弾圧を呆然と見ているしかなかった、ということである。いわば、PKIと陸軍との対立を甘く見ており、それが予想を超えた悲惨な事件となったことで当事者能力を喪失した、と見るのである。もちろん、それもあくまで推測の域は出ない。
更にこの事件への米国の関与。少なくとも、この時期米国はスカルノ排除に動く動機は十分にあったが、実際に手を下したのか?スカルノの動きに懸念を持っていた米国は、まずスカルノに対抗するモスレム政党に資金援助したり、スマトラやスラベシの反乱を支援したりしていたが、これが失敗すると、今度は陸軍の将校を米国で教育し、親米・反共の軍人を増やす戦略に切り替えたという。しかし、このクーデターからスカルノ失脚に至る筋書きを作り実行したのがアメリカ(CIA)であるという見方は著者はとっていない。事件の全体は「将軍評議会の名によるスカルノ政権転覆計画が流布され、その気が熟するより前に、ウントンやアイディット(PKI)らの陣営がその情報の、あえて言えば罠にはまり、先に行動に出たと解釈した方がむしろ自然である。」米国は、「波を起こした」のではなく、その「波に乗っただけだった」としている。しかし、結果的には、米国の思惑通りの展開となったのは確かである。
最後の「謎」は、この事件に際しての中国の動きである。そもそもインドネシアで勢力を伸張させていたPKIが、この時点であえて冒険主義的なクーデターを実行したのは何故か、そして事件発生後、中国のメディアがこの事件についてほとんど論評しなかったのは何故か?これについての著者の推測は、当時の毛沢東が、米国による中国包囲網に対し極度の警戒感を抱いており、中国自身の安全保障のために各国の共産党に武装闘争を働きかけていたと見る。この要請に対し、思想的にも資金的にも大きく依存していたPKIは断ることが出来なかった。しかもスカルノの健康不安が囁かれる中、スカルノの支持を受けて勢力を拡大してきたPKIは、スカルノが倒れる前に行動を起こさねばならなかった。しかし、この蜂起は、中国の外交にとってもたいへんな失敗であり、それを糊塗するために、事件から2ヵ月後、毛沢東は文化大革命を開始し、危機に瀕した自分の権威を無理やり再構築しようとしたのではないか、それが著者の推測である。その後、中国は、スハルトのインドネシアと断行し、それが回復するのは1990年8月まで待たねばならなかったのである。
こうして、9.30事件を契機に、インドネシアが変わったのみならず、新しい東南アジアが始まることになる。1966年に入ると、スハルトのインドネシアはマレーシア、シンガポールとの国交を回復、そして8月のASEANの誕生。ASEANが「コンフロンタシの灰燼の中から」生まれた、という当時のマレーシア外相の表現は、まさに的を得ている。著者は、それ以前のこの地域連合の試みや、当初は反共同盟であったASEANが、ベトナムほかの参加を受け、加盟国が現在の10か国になるまでの経緯を辿っているが、やはりインドネシアが参加したというのが、この地域同盟の大きな転換点であったことは間違いない。他方、この地域での、当時と異なる形であるとは言え、中国の存在感の高まりが新たな緊張をもたらしていることも事実である。著者の言葉を借りると、「9.30事件は、インドネシアを挟んでの米中対立であった。それが今度はASEANを挟んでの米中対立という構図に変わったのである。」そうした米中の圧倒的なパワーゲームが依然基底にあるこの地域の地政学の中で、「小国連合のASEANは、そしてその盟主たるインドネシアはどのような役割を果たしていくことができるのか、新たな機会と試練の時代を迎えている」というのが、9.30事件を契機に大きく転換したこの地域の現在についての著者の総括である。
著者の謎解きは、米国公文書の閲覧や関係者へのヒアリングを繰り返したものの、最終的にはすべて憶測の域を出るものではない。それは、言うまでもなく、その後のスハルトの32年間の独裁政権の中で、この事件はタブーとして抹殺されてしまったこと、そして何よりもそれを最も知っているスハルトが、この事件を墓場まで持って行ってしまったことによる。しかし、それでも、最近のメディア報道によると、9.30事件で政権側に虐殺された人々の声が少しずつ表面に出てきており、その真相を究明しようという動きも出てきているという。インドネシア戦後政治の最大の謎である、この事件の核心に関わる情報が遠からぬ将来公開の場に提供されることを期待したい。そしてその時、この本での著者の推論が、改めて評価されることになるのであろう。
読了:2016年12月24日