インドネシア大虐殺
著者:倉沢 愛子
1965年に発生したインドネシアでのクーデターは、戦後直後から続いたスカルノ政権から、その後1998年まで続くスハルト政権への転換点となった、同国の戦後政治の大きな転換点であったが、その際に大規模な共産党関係者の虐殺があったことはよく知られている。このクーデターを巡る事実関係と、その背後にある政治的な謎解きは、4年程前に読んだ、産経新聞記者の千野境子の単行本(別掲)で幾つかの仮説が提示されており、ここで繰り返すことはしない。今回の新書(今年5月刊行)では、もちろんこのクーデターに至るまでの、スカルノ政権の反欧米帝国主義・容共政策、そして九・三〇事件と呼ばれる、このクーデターの経緯等も説明はされているが、主たるテーマは、その後に行われた共産党関係者の大量虐殺の実態を提示することにある。その意味では、虐殺の実態に関わる記載も多く、その部分では気分が悪くなるというのが正直なところであった。しかし、1946年生まれで既に70歳代となっている、このインドネシア社会史を専門とする著者は、ベトナム戦争やポルポトによる虐殺、あるいは中国文化大革命での犠牲といったアジア現代史の悲劇の中で、当時も、また現在でも余り注目されることのなかったこの負の歴史を、生前にきちんと提示しておきたかったのだろう。
スカルノ政権の特徴についての説明で、面白かったのは、日本との関係で、特に東京オリンピックへのインドネシア招致を巡る数々の駆け引きである。戦後の日本―インドネシア関係は、日本の敗戦後、スカルノが独立宣言し、旧宗主国オランダと独立戦争となった際、日本の残留兵がスカルノに合流しオランダと闘ったこと(そして、あえて言えばデヴィを差し出したこと)から、欧米諸国に比べ良好であった、というのが私の認識である。その流れで、オリンピック委員会(IOC)から資格停止処分を受け、それに対抗する「新興国競技大会(ガネフォ)」を開催する等して、スポーツ界で孤立していたインドネシアを、1964年の東京オリンピックに招致するべく、日本はIOCを必死に説得したという。そして一旦それが承諾され、インドネシアも選手団を送るが、国際陸上競技連盟と国際水泳連盟が、ガネフォに参加した選手のオリンピック参加を拒否したことから、全員での参加を求めていたインドネシアは、最後の段階で選手団全員を帰国させたという。モスクワ・オリンピックの例に先立つ、オリンピックの政治化は、当時から起こっていたことを物語る逸話である。また、マレーシアとの敵対関係を調停すべく、日本が早い時期から両国の説得に動き、マレーシアのラーマン首相とスカルノとの日本での面談をセットしたが、スカルノが、「デヴィの悪い噂が広まっている日本には行きたくない」という理由で直前にキャンセルされたという逸話も初めて聞くものであった。著者は、このスカルノの翻意の背後に、中国からの働きかけがあったのではないかと推測している。
本論に入ろう。九・三〇事件の経緯や、その首謀者を巡る数々の推測(公式見解は、インドネシア共産党―PKIの武装隆起。その他、陸軍内の内紛説、スハルト陰謀説、欧米諸国陰謀説等々)は千野の著作でも説明されているので、ここでは割愛する。そしてこの作品の特徴は、スカルノからスハルト(国軍主流派)への権力移行の鍵となった「スクリーニング」について詳細に説明している点にある。ただ、当時の様々な指令は紹介しているが、結論的にはこの摘発はたいへんに恣意的なものであり、PKIとスカルノ派を根絶させることを目的にした扇情的な性格をもっていたことは明らかである。そして何よりも、当初は政権内部の「赤狩り」から始まったこの動きが、特に地方都市では、こうしたレッテルを張られた人々の虐殺にまで発展することになる。
スハルトはこの「赤狩り」を慎重に進めたという。表向きは、「スカルノ大統領の革命思想を守るため」という大義名分を掲げながら、「実際に追放になったのは親スカルノ派の官僚や軍人であった」。そして、同時に「共産主義者を根こそぎやっつけろ」という指令が国軍中枢から出されると、「村々にいる一般党員やシンパ」にまで粛清の波が波及することになる。逮捕者の群れで収容施設が満杯になると共に、事態は更に悪化し、「拘留」から「殺害」へと残虐化する。問題は、こうした迫害が、軍や警察ではなく、様々な民兵集団により大規模に行われたことである。また使用された武器も、「日常生活の中で使用する蛮刀や鎌など」が使われたことから、殺人方法も残虐なものになったという。著者は、こうした残虐行為の例に触れているが、それはヘドが出るほど気色が悪い。更に、王朝時代の「死刑執行人」を意味する「アルゴジュ」と呼ばれた殺人集団によるこうした私刑については、当時から「殺しても咎められないという噂は広まっていた」のみならず、後の1973年になって、検事総長から「殺害された者が共産主義者であったという証拠が提示できれば」、法的責任は問わないというお墨付きまで与えられることになる。著者はそうしたアルゴジュによる殺害行為の様子を実行者へのインタビューで伝えているが、彼らは、全く自分たちの行為を悔いるどころか、英雄的な活動として誇る例が見られたという。まさに、中国の文革やポルポトのそれに匹敵する集団ヒステリーによる恐ろしい大量虐殺が行われたのであるが、著者が説明しているとおり、その背後には、スハルト側からの巧みなマインドコントロールと情報操作(殺さなければ、殺される!)があったことは間違いない。
著者は、この事件に対する各国の対応を整理しているが、スカルノの容共政策を苦々しく見ていた欧米諸国が静観を通したのは当然であるが、日本を含めた左派系の民間団体からの抗議も、ベトナム反戦運動のような大きな流れになることはなかった。他方、当時のインドネシアへの最大支援国であったソ連は、中国寄りとなったスカルノを冷ややかに見ていたことに加え、「経済的利益を優先」したことから批判を弱め、そしてイデオロギー的な最大の支援国中国は、「文化大革命開始直前の不確かな国内情勢の中で、大きな力を発揮することができなかった」とされている。そして毛沢東は、このPKIの失敗の責任を劉少奇に着せて、1968年の彼の失脚時の誤りの一つとしたという。日本については、もともとスカルノとの関係はまずまず良好であったが、情勢の変化の中で彼の力が衰えるのを感じると、巧みにスハルトに接近していったとのことである。またこの事件の渦中、鹿島建設の日本人技術者がスラバヤ近辺で襲われ重傷を負い、日本に緊急帰国し手術を受けるも片足切断を余儀なくされたというが、大使館の公式記録には乗せられていないそうである。
こうして、政局は、三・一一政変と呼ばれる、スカルノからスハルトへの正式な権限移譲に移っていく。ここで、まだ大衆の人気があったスカルノが、何故易々とスハルトに対する権限移譲の命令書に署名したのかは謎であるが、著者は、「スカルノはピストルで威嚇された」という説も提示している。いずれにしろ、ギリギリの状況での対決であったことは間違いない。そしてその後、スカルノは1963年3月、終身大統領の資格も剥奪され、亡命の誘いも断り(1966年秋、初の妊娠で帰国していたデヴィの動きで、スカルノの日本亡命説が広がったという)、「1970年6月、失意のうちに70歳でこの世を去る」ことになる。また、デヴィは日本で女児を出産するが、インドネシアには帰れず、スカルノと再会することはなかったそうである。
三・一一政変以降、1998年5月まで続いたスハルト政権の様子は、我々がよく知るところである。中国との国交「凍結」と国内の大陸系中国人への抑圧の一方での、欧米日本との関係強化による開発独裁の遂行。マレーシアとの和解と反共同盟としてのASEANの結成等々。ある意味、インドネシアはスハルトの下で32年に渡る「安定と成長の時代」を享受することができた。
しかし、この1965年の事件は、依然この国の基層で影を落としていることは間違いない。スハルト退陣後、この事件で投獄されていた関係者の釈放などが始まったが、1999年、「三・一一政変後初めての公正な選挙を経て」就任した第4代大統領ワヒドが、共産党やマルクス主義を禁止する1966年の「暫定国民協議会決定15号」を取り消す意向を示したところ、大きな反対運動が巻き起こり、結局ワヒドは任期途中で「汚職容疑」で退任を余儀なくされる。徐々に「犠牲者の名誉回復や、虐殺の被害者に対する政府の謝罪を求めるムードの高まり、その実現のために闘う団体の結成も許可された」とは言え、まだまだこの事件はこの国ではデリケートなタブーである。著者の最後の言葉は、たいへん胸に突き刺さる。「新政権が積極的に前政権のジェノサイドを暴いていったカンボジアの場合とは対照的に、この国では虐殺の地に慰霊碑一つ建てられていない。虐殺が最も激しかった観光地バリでは、道路の脇や風光明媚な海岸の一角に、実は大量の死体が埋まっている。(中略)こうして、国際社会はもちろん、国内的にも事件はどんどん風化しつつあるのである」。ある意味、どの国も有している歴史の暗黒面とそのタブー化という現象ではあるが、自分が身近に接してきたこの国の一面として、意識からなくすことは許されないことを再認識させられたのであった。
読了:2020年10月3日