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アジア読書日記
中国
不平等国家 中国
著者:園田 茂人 
 1961年生まれの中国研究者による、中国の格差についての分析である。現代中国の格差拡大は、言うまでもなく経済成長を遂げた中国の大きな問題であり、昨年末に読んだジャーナリストの中国論を含め、現代中国の政治・経済・社会分析を行う際には必ず触れられるテーマである。しかし、この作品がそれらとやや異なるのは、そうした格差問題を、マクロとして捉え議論するのではなく、著者らが進めたアンケートに基づく統計から推計するという「実証的」な手法をとっていることである。その結果として、現代中国の格差そのものに加え、人々の「格差意識」の分析が重要な論点になる。そして結論的に言えば、まだ必ずしも公平なサンプリングができないこともあり、その「実証的」なデータも偏りのあるものになっているという印象も免れないが、分析の中にはやや意外感のある結論もあったりして、今まで読んだ中国論を補完する役割は間違いなくあると感じたのである。

 著者によると、まず「中国の格差・不平等をどう捉えるか」という問いに対する回答は、「絶えず中国の政治的・社会的動向と深く結びついてきた。」それは中国内部で刊行されたこの問題に関する学術書を巡る議論にも現れる。著者がその例として取り上げるのは、2002年に刊行された「当代中国社会階層研究報告」で、ここで編者は、経済資源、政治資源、文化資源の分配という観点から五層の「社会経済的等級」と10の「社会階層」への区分を提示したが、これは、「階級」を否定してきた中国マルクス主義の伝統を見直すと共に、「労働者と農民の国家」中国で、その「労働者」と「農民」が10の社会階層の下から2番目、3番目に位置つけられているという点で、世界に大きな衝撃を与えたという。これを刊行した中国社会科学院社会学研究所は政府系のシンクタンクであることから、政府の見解自体の変化を示すものとして受け止められたという。

 こうしたトップレベルの変化は、言うまでもなく一般庶民の感覚の変化を受けたものである。それではそうした庶民レベルでの意識はどのように変わっているのだろうか?先のレポートを公表した社会学研究所のアンケート調査によると、八割強の調査対象者が、「今後、階層・階級間の利益の衝突は深刻化するか」という問いにYESと答えているという。そして、「どの集団間でその対立が発生するか」という質問では、「私営企業の労使の間」が最も高く、それに「貧富の間」、「外資系企業の労使の間」、「幹部と一般市民の間」と続くが、現在最も話題になる「農民と都市民の間」はむしろ低い数値になっており、やや意外感を感じさせる。こうした導入部を受け、著者は、2006年に著者が参加したアンケート調査を基本に、こうした現代中国の格差意識をより詳細に分析していくのである。

 戦後中国の「平等」を巡る政治的な流れが整理される。これは復習であるので、多く記載する必要はないが、「三大差別=工業と農業、都市と農村、頭脳労働と肉体労働の間に存在する差別」を解消していこうという毛沢東の意思と「中国の民衆に流れ続けてきた伝統的な絶対平等主義」が、経済停滞という現実の前に修正を余儀なくされ、1976年の文化大革命終息、1978年のケ小平による「4つの近代化」、そして1984年の市場経済の導入、1992年の「南巡講話」(市場経済化の加速)につながっていく。2001年7月の江沢民による「三つの代表」論(=「私営起業家=資本家=階級的」という公式的階級観からの訣別)は、1992年以降の私営企業の増加を事後承認するものであったと見る。

 こうした政策転換を受け、格差や不平等をめぐる考え方も大きく変わったという。そしてこれからが、著者がアンケートに基づきいろいろな推論を始めることになるのだが、まず、経済停滞を伴う平等よりも、不平等を伴う経済成長を望むー経済成長を優先し、その過程で発生する不平等はやむを得ないーという意識が、他のアジア諸国との比較で中国が強くなっているという2006年のアンケート結果から開始する。また「現在の収入格差は大きいか」という問いには85%がYESと答えているにもかかわらず、「この格差が大きくなってもよいか」という問いへの回答は賛成・反対が割れているという。

 それでは、どのような不平等を人々は問題だと考えているのか?ここで引用されている「どの不平等を是正すべきか」というアジア諸国を比較したデータは面白い。是正すべきカテゴリーは、中国では「収入・富」、「教育」、「職業」の順であるのに対し、例えば日本は「ジェンダー」が、シンガポールや韓国は「教育」が最も高いという(シンガポールでは「宗教」、「民族」による差別感が比較したアジア7カ国で最も高いというのも実感的に理解しやすい)。また教育の社会的機能に対する評価では、日本や韓国が「人間性を豊かにする」という「儒教的」効用が高いのに対し、中国を含めた中華系諸国では「収入を増やせる」という「功利主義」的効用が高い比率を占めている。また社会階層としては、当然と言えば当然であるが、高い学歴を得ることが出来なかった階層によりこの「功利主義」的教育観が強いというのは各国に共通する特徴である。そして著者は別のデータで、学歴・性別・年齢と収入の相関性を論じているが、日本では性別と収入格差の相関が高いのに対し、中国は学歴と収入格差の相関が高くなっているが、それにより、それぞれの国の不公平感とその是正を期待する意識に理由があることが理解される(但し、この辺りの議論は全て相対的な比較であり、その不平等感がどの程度強いかという「絶対的」基準を示すものではない)。しかも、日本が学歴格差そのものに対する不平等感があるのに対し、中国では学歴により収入格差が生じるのはやむを得ないという意識があるということである。これは「科挙」以来の中国学歴社会の伝統なのかもしれない。そして実際どのような職業が高収入になっているかという調査では、国家機関・国有事業体という「共産党幹部が集中する職場」と「外資系企業」という新興勢力が高く、「個体戸」「私営企業」もまずまずの水準に上がってきているということである。面白いことに、現代中国では、こうした高収入を得ている階層のほうが、格差拡大に危機意識をもっているという。

 続けて、中国の不平等の大きな現実である都市と農村、発展している地域と発展していない地域の格差の拡大という問題を「都市への人口移動」を切り口に分析する。
 現代中国での農村から都市への大量の人口移動は、建国直後の50年代に最初の大きな波があったというが、その後は移動を人為的に抑える政策により止まっていた。しかし、市場主義化により、近年それが改めて発生しているという。

 そもそも農村からの移動を抑える政策として、都市住民と農村住民で戸籍が異なり、都市での食糧配給切符(「糧票」)その他のサービスが農村戸籍者は受けることができないという制度の存在があった。そしてそれは同時に都市における「貧困の可視化(=スラムの発生)」を回避するという目的もあったという。しかし、この戸籍の結果、「都市・農村の分断と戸籍の違いによる「身分制」ができあがった」との議論もあることから、政府はその改革を検討しているが、まだ途上であるとのことである。

 こうして著者は、都市流入移民を中心に行ったアンケートを基に、彼らの労働実態や住宅事情などの生活実態を説明していく。当然彼らの生活実態は、都市住民一般から見ると相当低いのであるが、他方、彼らの存在が社会的な不安定要因である、という議論については「半分正しく、半分間違っている」としている。というのは彼らへの意識調査によると、こうした都市流入移民は、むしろ(農村在住時に比較して)都市での生活に満足しており、また政府への期待も高くない。むしろ政府に多くを期待するのは従来からの都市住民であるという結果が出ているというのである。そしてこうした都市流入移民の受け入れに否定的なのは、都市住民の中でも「負け組」である下層階級である、というのは、どの国にもある劣等感の裏返しとしての自分より下の階層への敵対意識であると言える。

 男女平等の問題は、日本での差別感覚の最も大きなものであったが、中国では小さかったと述べた。しかしこれも改革開放を受けて変化が起こってきているという。面白いのは、日本の女性に比べて中国の女性は家事に割く時間が短いにもかかわらず、負担感は日本人女性以上に感じているという事実である。

 この理由は、日本人女性に比べて中国人女性は「外の仕事を優先する価値観を内面化している」ことによる。また実際98年から2006年までの統計によると、妻の収入が夫よりも高い比率が、日本は3%程度で変わらないが、中国では24.6%から26.6%と比重も高く且つ増加傾向にあるという。

 こうした女性の社会進出は、社会主義化の国家建設の過程で女性労働力も総動員されたこと、及び「一人分の労働力では一世帯の平均的な消費をまかなうことのできないよう、都市部の賃金が凍結された」(W.タン教授)という事情によるが、それが意識としても一般化したのは重要である。しかし、この性別役割規範に変化が見られているという。

 ちょうど統合後の東独で起こったように、市場経済化が進む中国で、企業競争の激化から、企業が余剰人員や託児所等のインフラの削減を進める傾向が起こり、また他方全体的な賃金水準が上がることで、必ずしも妻が働く必要もなくなったことから、1988年以降、雑誌などで「婦女回家」論争が断続的に起こっているという。ただ、著者は統計を見る限り、まだ「主婦」の比率は低く、「豊かな中産階級」の成立には至っていないのではないかと推論している。その意味で、まだ男女平等主義は息づいていると見るが、他方で高学歴・高収入の女性には男女間で待遇面での格差がある、という不満も大きくなっているという。しかし、これは日本でも社会的な地位が上がるほど待遇差やその他差別を感じるという一般的な傾向を示しているだけであろう。
 
 次の課題は、急速な経済成長とともに誕生した都市中間層の意識を分析しながら、今後の中国の展開に向けての彼らの役割を見ることである。

 中国における中間層を巡る議論は、丁度日本の高度成長期の三種の神器のような消費財所有率の増加に象徴される生活水準の上昇を社会学的にどう捉えるかという必要性もあるが、それ以上に「階級史観が歴史的使命を終えたものの、それに代わる身分観、秩序観が生まれていないため、自らの社会的地位を表現しにくい」という主体の側の要請もあるという。

 他方、外から中国を観察している論者からは、中間層の拡大が中国社会の安定に寄与するという議論と、逆にそれが既往の権威主義的体制を突き崩すことになるという2つの議論が聞かれるが、どちらもあまり具体的な根拠は提示できていない。そこで著者は、個体戸や私営企業の雇用者を「旧中間層」、被雇用者中の管理職、専門・技術職等を「新中間層」と定義し、彼らへのアンケート結果を基礎に、その意識を分析するのである。

 著者によると、この中間層の政治的価値観は以下の3つに要約されるという。まず「新中間層」では「情報リテラシー」を持ち、マスメディアの役割に厳しい目を向けているものが多いのに対し「旧中間層」は自らの経済的利益に強い関心を持っていることから、政治的有効性感覚が強いという。そして政治参加のチャンネルが政府により限られている現実から、中国の中間層は「自らの政治的目的の達成のために個人的な人間関係を利用しようとする」。そして3つ目の特徴として著者が挙げているのは「大きな変化を望まない保守主義」で、具体的には@テクノクラシーの容認、A中央政府に対する信頼、B言論の自由に対する制限の容認であるという。

 この結果が面白いのは、メディア批判や地方政府への批判が中央政府=共産党への批判に結び付いていないという点であり、その意味では成長している中国の中間層は中央政府の正統性を安定させているように見える。

こうした中間階層の保守化というのはどこでも見られる現象であるが、しかしそれは経済が順調に成長して生活水準が守られている状況下での話である。第二次大戦前のドイツではないが、いったん生活水準を上げた中間層が不況で経済的困難に直面した時にどのように反応するかは、それなりに予想できるものである。まさに世界的な不況に直面している現在、これらの中間層の反応が注目されるところである。

 こうして中国の格差を見てくると、それはもちろん「和諧社会」の実現に向け是正されねばならないと認識されているとしても、他方でそれほど切迫している訳でもない。そうした見方をベースに著者は、今後の中国の行方を展望し、「過去へ進化する社会主義」としての特徴を示すと論じている。「過去」というのは、@「科挙」に見られた学歴エリート主義の強化、A国家機関幹部による社会的資源の独占(汚職が最大の脅威)、そしてBエリートによる人民の利害を考慮した施政と人民の側の信頼という伝統的中国の価値観への回帰ということである。他方「進化」するのは、こうした伝統基盤の上に、「業績主義」や「情報リテラシー向上」や「政治参加要求」が加わり、「社会主義の枠組みの中」で進化していくだろうと結んでいる。

 確かに、統計と言う近代的な意識調査を基礎とした議論は、単に印象的・観念的な議論に比べ説得力を持っているように思える。しかし、欧米や日本等の先進国家で実際起こったように、経済が順調に成長している状況下では、その恩恵を最も受ける中間層は、一度それが混乱すると、生活意識の下方硬直性故に、一層深い政治危機をもたらす恐れがある。その意味で、中国にとっては、経済成長路線を死守していくことが以前にも増して重要な政策課題であり、また現在のグローバルな経済・金融危機をどのように乗り切るか、というのは足元の大きな鍵になることは間違いない。丁度、1929年の恐慌で、ドイツのワイマール共和国が一気に崩壊したように、中国は今まさに不安定な中間層をコントロールすべき重要な歴史的段階に来ているのである。そうした意味で、著者らが始めた統計調査が、今後継続的な定点観測として実施されていくことは非常に重要であろう。

 更に、著者も断っているが、ここで農民工の調査はあるが、最大の格差である都市・農村の格差に関する農村住民の不満についてのアンケートが全くないという欠陥を持っている。言うまでもなく、現在最も政治・経済・社会的な格差危機が最も大きいのは、成長から取り残された農村部であることは間違いない。そうした農村部での一般的な格差意識は、まだ全く未知の世界に留まっている。他方、定性的な中国論で、必ず言及されるのは、地方政府の農民に対する、土地収用を始めとする強権的な政策であり、これが地方官僚の汚職問題を含め、地方農民層の反乱の大きな要因になっている。年間数万件発生しているというこうした「農民反乱」については、「中国は昔からいつでもある現象である」という楽観的な見方から、重要な危機と見る見方まで解釈は分かれるが、この議論のポイントは、やはりこうした反乱を惹起する農民の意識が、そもそも多数派になりつつあるのかどうか、ということであろう。保守党の基盤としての日本の農村ではないが、基本的には農村は、ある程度の生活水準が満たされていれば、現状維持のベクトルが働く。しかし、伝統的に農村反乱から中央政権が崩壊してきた中国の傾向からすれば、この農村の安定性は、日本よりもずっと脆弱である可能性がある。その実態を実証的に検証した議論は、現在までのところまだ公表されていないのではないだろうか?これが今後の著者の議論が中国全体の議論になるために通らなければならない課題であると思われる。

 いずれにしろ、都市部を中心とする現代中国の意識構造はそれなりに示唆している本であった。職場の中国人スタッフと、この本に示されている統計と共にジェンダーを巡る差別意識の日中比較などについて話をしたところ、彼女が妙に納得したところを見ると、都市住民に関しては、それなりの実態を示しているのではないかと感じたのである。

読了:2009年1月18日