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アジア読書日記
中国
中国激流
著者:興梠 一郎 
 少し前に読んだ「膨張中国」が、躍進目覚しい中国の国際政治・経済における姿を、どちらかというとポジティブに報告しているのに対し、こちらは、その負の側面としての国内で噴出している問題を、これでもか、というほど次から次に取り上げている。これを読んでいると、中国投資などはとても考えられない、という気にさせる内容であるが、おそらくは、実態は前著とこれの間くらいにあるのであろう。著者は1959年生まれ、三菱商事から米国に留学した後外務省の専門調査員となり、現在も大学の仕事と併せて、参議院の調査官という、政府に近い位置で中国の研究を進めているようである。その意味で、著者の分析が、それなりに現在の政権の対中国政策の決定に際して何らかの影響を及ぼしていることも考えられる。

 中国の負の側面が現れる領域は、@都市と農村格差の発生、A官僚支配の政治構造と官有資産払い下げを巡る汚職、そしてBそれに対抗する民衆運動への弾圧、という3つ側面で顕著である。それぞれ著者の報告に基づき簡単に見ていこう。

 まず農村問題。「三農(農業・農村・農民)問題」は、歴史的に農民反乱が王朝崩壊のきっかけになってきた中国では重要な問題である。出稼ぎの増加による農地の放棄、地方政府による農業税の強制取立てによる自殺や臓器売買、その背面としての地方政府の財政状態悪化(学校が地方で最大の債務者)が深刻になりつつあると言う。他方、農民側では、地方官僚の横暴に対抗するため秘密結社的な連絡を取りながら抗議運動を組織し対抗する。

 著者は、こうした農民による抗議行動の具体例を説明すると共に、その原因を分析するが、主因は「下に権力を濫用し、上に過度に従属する」農村統治機構にある、としている。これは言わば「党への権力一極集中」という中国の政治システムそのものの問題であるだけに、解決は容易ではない。

 農村から都市に流れ込んだ下層労働者の労働環境も苛酷を極めているという。特に彼らに対する賃金の未払い問題がより深刻になりつつあり、ここでも労働者の抗議運動が広がりつつある。

 この問題は、経済バブルを引き締めるために中央銀行が不動産業に対する融資規制を強めてから拡大しているといわれ、その意味では構造的というよりも景気サイクル的なものではあるが、他方で、農民の都市流入で農村の過疎化が進み、その半面でそうして流入した都市下層労働者の生活も改善されないとすれば、それは構造問題となる。「農村を犠牲にした都市の反映」が中国経済躍進の実態であることは、一般に言われることであるが、著者は、農業への財政サポートの欠如、農業金融の空洞化、医療などの衛生面の不備といった具体的な側面を指摘することによって、より鮮明な姿を提示することに成功している。また、これに関連し、開発のための強制的な土地建物の収容を巡る紛争の増加は、農村部(失地農民の苦境)のみならず都市部(土地取引という錬金術)でも深刻な問題になりつつあるということで、具体的な例がいくつか挙げられているが、これは次の「官僚支配」とそれと結託した業者の横暴というテーマで、より詳細に議論されることになる。

 こうして次に利権集団化する官僚組織が取り上げられる。その典型例は、2003年4月に摘発された貴州省党書記の劉方仁とその一派であるが、その罪状は、愛人らを組み込んだ数々の収賄であり、結果的にこの省全体が汚職の塊のようになっていたのである。

 2003年に失脚した河北省党書記程維高のケースも、省都石家荘市の大きな建築物は、ほとんど彼が関与する建設会社が手がけており、それ以外にも公金横領や人事権の濫用なども見られたと言う。結局このケースも含め、下からの「命がけの告発」はあるにしろ、最終的には、その権力者が中央のサポートを失うという政治情勢の変化により初めて明るみに出る以外は、なかなか表面化しない。党書記の人事が、選挙ではなく、中央からの任命によりトップダウンで決まっていることが原因であることは間違いない。省レベルの司法機関は党書記の傘下にあることから告発する力はなく、また党中央と中央規律検査委員会というチェック機関は存在するが、これも十分機能していないと言う。

 私営企業を巡る問題は、@私営企業への圧力と、A私営企業と結託した官僚の汚職という2つの側面がある。

 最初の問題は、2003年5月に逮捕された河北省の著名な企業家、孫大午事件に象徴される、民営化の旗手で、地方政府の汚職を含め「官」に批判的な企業家を圧殺しようという動きである。孫は逮捕されながらも、最終的には民意を受けた弁護士らの活動の結果、罪に問われることはなかったが、この事件は、「社会を管理する権力を持ち続けたい」、「政権の支配を受けない自立的な組織が民間に生まれることを阻止しようとする」政府の強い意思であったという。もちろん、日本でもライブドアや村上ファンドの告発のような「国策捜査」の例はいくらでもあるが、その極端な姿が現在の中国には存在するのである。

 更にその経済支配への意思が、前述の汚職の源泉ともなる。賄賂の理由で最も多いのが、融資口利き、プロジェクト、土地売買許可、証明書の4つであり、また政府機関自身は営利活動に関わってはならないにも関わらず、実際の政権幹部は「創収」に忙しく、政府機関をパイプに利益の蓄積を行っている。国営企業は赤字であるが、それを運営する政府機関は儲けているという歪な構造が日常茶飯事となっている。「官営資本」による「民間資本」の抑圧という現象である。

 こうしたケースの典型例として挙げられるのは浙江省で発生した同省教育庁と私立学院の訴訟事件であるが、これは「政府が不動産開発目的で企業を設立し、弱い立場の民間企業の権利を剥奪し、排除するという構図」である。この結果、「改革開放政策」が始まって20数年経つが、「中国では外資系企業の存在感が高まる一方で、民間企業の中から国際ブランドは生まれていない」という状況になっている。またこうした汚職や民営企業の抑圧まではいかなくとも、国有企業自体の問題も枚挙にいとまがない。項目だけ挙げれば、まず社内ガバナンスの問題(情報と権限がないにも関わらず、責任を追及される社外取締役)、「一族支配」の浸透(家族会社との取引を通じた財産収奪)、政治支配によるスキャンダル(粉飾決算や幹部人事の政治化)、そして不公正・不透明な国営企業の民営化(「ロシア化」による新興財閥の誕生)等々。

 こうした問題は、言わば「成長のゆがみ」と総称されるが、著者は、中国の経済発展が、市場として先進国経済に大きな影響を及ぼす状況になっていることから、外から見る場合は楽観主義のフィルターがかかっているが、結局のところは政治が支配する経済(「官僚主導型擬似市場経済」)であることを忘れてはならないと警告する。

 その特徴は、現在の「中国バブル」のコントロール手法にも見られる。中央政府は、既に2002年頃から顕在化し始めた銀行の過剰融資を懸念し、2003年夏以降、人民銀行の預金準備率引上げ、利上げに加え、銀行に対する新規融資の規制という「マクロ・コントロール」に踏み切ったが、「地方政府は投資を拡大すればGDPが上がり、役人の昇進にもつながるため、指示に従おうとしない」という。更に中央政府も「経済成長は最大の政治任務」としてきたことから、この地方政府による数字合わせを強く規制することが難しい。結局は、過去の「大躍進」政策と同様に、経済を中央政府が行政権力で「コントロール」するという、中国経済の政治主導、という性格は本質的に変わっていないのである。また経済成長の基本は、「国民の消費力が弱いため、投資に過度に依存」し「その資金は、主に銀行融資と国債から調達されている。」その結果、不良債権の最終リスクは金融と財政が負う、という10数年前の日本と同じ構図が、より鮮明になっている。

 また2003年末のGDPで四割を超えるという外資への対応もデリケートな問題である。もちろん資本不足の中国にとっては必要不可欠なものであるが、「国退民進」ではなく、「国退洋進」と揶揄されるように、昨今では「余りに行き過ぎ」との批判も強まっているという。自動車産業はこの典型例であり、外資によりノックダウンで生産される比率が増加しているが、この結果、部品メーカーは育たず、値段も高く、また研究・開発能力も習得できず、所謂「ブラジル・モデル化」しつつある。いったんは「奇跡の経済成長」を達成するが、「その後、市場・金融開放の衝撃や格差の拡大が原因で経済危機が発生する」リスクを内包していると懸念されているのである。P.クルーグマンは「全要素生産性の低さ」が成長の限界をもたらす、と指摘している。そして、こうした問題に対し、胡錦ケ政権も、市場経済的手法も加え修正を試みているようであるが、利権集団化した官僚組織の抵抗にあっているという。

 格差の拡大も顕著であり、都市内部、都市と農村、地域間、業種間で夫々の広がりを見せていると言う。高所得層や独占業種に有利な経済政策、個人経営者等の高所得者に有利で、都市サラリーマンや農民に負担が厳しい税制。国営資産の横領については、中央政府は厳しい刑事対応を強めた結果、高級公務員の国外逃亡(資産持逃げ)も増加しているという。もちろん中産階級を育成しようという努力も行われているようであるが、農業人口が45%を占める現在の中国で、この層の生活実感を高めるのは容易ではなく、むしろ一部の富裕層に対する不満が限界にまで達しているのは確かである。既に憲法第一条に謳われている「労働者階級が指導し、労働者・農民の連盟を基礎とする社会主義国家」という建前は「空洞化」している。そこでは、「農村より都市」、「公正より効率」、「弱者より強者」という従来の政策を如何に転換できるかが問われているのである。

 こうして今後の中国の行方を占ういくつかのテーマに移っていくが、ここでは項目のみを挙げるに留めておく。それは、まず高まる住民の政治参加要求と政治過程における官僚支配の変革であり、端的に言えば「民主化」問題に集約される。頻発する農民反乱に加え、陳情や内部告発の動きも、政府による強権的手法では抑圧できなくなってきている。ネットの拡大という情報インフラの整備が、こうした反政府的な動きを支援することになり、知識人も独自のルートで声を上げ始めている。政府の側でも、「市場経済化」とは何か、という議論も起こりつつある。かつて東欧でおこったように、経済成長がある段階で「一党独裁」という政治的意思決定過程と両立できない地点に到達する。中国はまさに今、そこに達しようとしているのである。「独裁は、国民に十分な公共サービスを提供できてこそ、求心力を維持できる。それができなくなれば、残されたのはむき出しの権力だけだ」ということになる。こうした国内的な緊張は、当然のことながら外交政策にも影響を与え、国際政治上の不安定要因になりかねない。

 このように、今や臨界点に達した中国という観点で、これでもかというくらい事実を挙げて議論を進めているこの作品は、言わば影の中国論であり、前回読んだものと併せて見ることにより、より冷静な全体感を構築できるものであろう。

読了:2006年10月30日