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アジア読書日記
中国
人民解放軍は何を考えているのか
著者:本田 善彦 
台湾在住のフリー・ジャーナリストによる中国人民解放軍に関するレポートである。しかし、当然のことであるが、一部表面的な数字が公表されている軍事予算を除けば、人民解放軍に関わる情報公開は非常に限られているし、またその軍事予算の「透明度」に対する不信感も、特に中国の「軍事的脅威」が喧伝される日本では解消されていない。そうした中で、かつてのクレムリノロジーと同様に、他の公開情報から実際の解放軍の現状やそれが抱えている問題、なかんずくこの軍隊の「思想教育の最前線」を探ろうとする試みであるが、著者がそのために使用するのは、中国で放送されているテレビの軍事ドラマを中心とした情報である。そして、後半では、それ以外にも中国のテレビで放送されたドキュメンタリーを参考にして、全体としての現代中国の外交政策等についての議論も行なっている。

 あとがきでも書いているが、著者は台湾人の友人から、中国のテレビで放映される軍事ドラマの中で、解放軍の世界観が具体的に表現されていると助言を受け、そうしたドラマを次から次に見ていったという。そうした中で、そこには単に世界観が示されているだけではなく、解放軍兵士個人の実際の姿や軍が抱える現実的な問題なども描写されていると考えるようになったという。確かに、メディアが国家独占されている中国においては、テレビドラマでさえも国民教化の重要な手段である。しかし、当然現実の姿から乖離すれば、ドラマとしての人気がなくなる。そのため、そこそこ現実に近い描写や、場合によっては抱えている問題をさりげなく描くことになる。そうした表面の下に隠されている本当の姿を読み解くのは見る側の能力次第である。こうして著者の中国軍事ドラマの解読が始まるのである。

 著者は、こうした中国の軍事ドラマには@軍隊生活モノ、A軍事技術モノ、B軍事史モノといったカテゴリーがあるとするが、まず取り上げるのは2006年に国営放送である中国中央テレビ局(CCTV)で、夜のゴールデンアワーに放送され、高視聴率を記録した「沙場点兵」という長編ドラマである。

 このドラマは、解放軍と国民党軍に分かれた軍事訓練で、解放軍が必ず勝利するというマンネリ化したシナリオに危機感を抱く将校が、新しい軍事理論や技術を取り入れて、軍の近代化に貢献するという、シナリオ自体はまさにプロパガンダそのものであるが、そこでは軍の「情報化」を促すメッセージが至る所に見られるという。これは特に1991年の湾岸戦争で、情報力に支えられた米軍の圧倒的な戦力を見せ付けられた中国解放軍の危機感を物語っているという。またそこでは米軍を意識した解放軍幹部の言動が多く見られ、まさに現在の解放軍の仮想敵が米軍であることが分かるという。更にこの情報戦へのこだわりは、現実面では相当遅れをとっているという焦りが表現されていると著者は考えるのである。

 実際、中国の軍事理論は、毛沢東の「人民戦争」論に始まり、「現代的な条件下での人民戦争」から、「ハイテク時代における人民戦争」論に転換してきている。しかし他方で「人民戦争」論を捨てることができないのは、近代化を進めた場合は、200万人に及ぶ兵力を大きく削減しなければならないが、その受け皿がない、という現状をも物語っているという。更にこの「人民戦争」へのこだわりは、自らを後発者として位置付けることになるが、それは「歴史の中で形作られた自己愛と、同じく歴史の激流によって生まれた劣等感のあいだで激しく揺れ動いている」ことも示していると見るのである。またこのドラマの中では、事なかれ主義に陥っている将校や初の対抗演習で実弾の音に恐怖し失禁してしまう新兵、あるいは近代化をしようにも金がないといった嘆きや軍人の待遇の低さといった弱点も、言わば現実への警告として描かれているという。

 もう一つの軍隊生活モノとして取り上げられているのは、同じ2006年秋に同じCCTVで放映された「垂直打撃」という解放軍空挺部隊を主人公にしたドラマであるが、ここで著者が注目するのは「斬首行動」という作戦が取り上げられていることである。これは「直接敵の首領を捕獲する作戦」であるが、これは2003年の多国籍軍によるイラク攻撃から登場した概念であるという。著者は、これに解放軍が注目しているのは、明らかに台湾に対する作戦が意識されているからだと言う。これを受け、著者は中国の対台湾プロパガンダとそれに対抗する台湾側やそれを支援する米国の対応などを整理しているが、台湾への進攻の現実的な可能性が限られている現状からすれば、こればかりは、やや著者の深読みと思われても仕方がないだろう。実際著者も、過去半世紀にわたって分断状態が続いている台湾問題は、簡単な解決はあり得ないと示唆している。

 それに対して、2004年から地方テレビ今日を中心に放映されている「天山緊急出動」は、現在も政治的に不安定な状況にある新疆ウイグル地区を舞台に、当局と新疆分離独立主義者・テロリストとの戦いを描いた点で、より現実的で身近な作品であるという。このドラマが、「東トルキスタン独立派による、新疆分離独立の動きに対する視聴者の警戒心を喚起し、独立運動阻止に向けた中国当局の決意を改めて誇示する」のが主目的であるのは言うまでもない。また「海抜4700 浴血高原」というドラマは、チベットを舞台に、そこで活動する医療チームが密教の高僧の治療を依頼されるまで地元の信頼感を得るまでを描くことによって、「かえって漢族とチベット族の溝の深さを浮き彫りにしている」作品になってしまったと評価している。まさにこの両地区で、足元も激しい紛争が続いていることを考えると、前者はその原因をイスラム・テロリストに押しつけようという意図が、また後者は偽善的な懐柔策が丸見えであると言える。

 この二つの作品から、著者は、中国の領土と主権意識を解読しようとしているが、結論的には、17世紀末の清王朝の最盛期、康熙帝が確立した領土が、中国の領土・主権意識の基礎にあるようだ、としている。またドラマでの女性兵士を巡るラブ・ロマンスから、解放軍における女性兵士の実際の割合を推測したり、兵役に応じる若者層を分析したりしているが、これは省略する。

 軍事技術モノの例として著者が取り上げるのが2004年に放映された中国版「プロジェクトX」とも言える「国家使命」である。文化大革命直前の1964年に始まり、1999年10月1日の建国50周年の国慶節で終わるこのドラマは、軍事技術開発の特別プロジェクトに生涯を捧げた科学者たちの物語である。1964年というのは、その年の10月に中国が核実験に成功し、またその後の防衛戦略の基本となる「三線建設」が公表された、軍事技術上の記念すべき年であるという。そしてこのドラマは、その「三線」上に位置し、重要な軍需工場や研究所が移された四川が舞台となっていることからも、相当程度史実を反映していると著者は考えるのである。その他1960年の大陸間弾道ミサイル発射実験の成功など、中国軍事技術の重要な里程標がドラマの中に散りばめられているという。また毛沢東の「自力更生」という掛け声の裏で、海外から帰国した華僑学者を先端技術開発に投入したというドラマの設定も、戦後海外から帰国し新中国の軍事技術を開発した「三銭」と呼ばれる三人の学者たちと重なり、実際の姿に近いという。いずれにしろ建国55周年記念に製作されたこのドラマがいろいろな意味で国威発揚の目的を持っていたのは間違いないが、その半面でこうしたドラマを作成すること自体が、現代においてはこうした無私の精神が失われていることに当局が危機感を抱いていることを示しているとも言えるのではないかと示唆している。

 著者が最後に取り上げるのは、フィクションではない、歴史ドキュメンタリー番組である。それはまず近代の大国の興亡を取り上げた「大国崛起(大国への道)」という作品と1840年から2007年までの中国の発展を振り返った「復興之路」という作品である。前者は、従来のマルクス主義史観から離れ、大国の勃興の裏にある、資本の蓄積や「ソフト・パワー」等を肯定的に示しているのが特徴的であり、それ故に中国の外でも評判になると同時に国内の守旧派からは痛烈な批判も受けたという。日本についても、明治期や戦後の成長を冷静に分析しており、戦争責任云々といったコメントは一切ないという。そして放送直後から解放軍の中で、この番組のテーマに対する研究と学習が始まったという。大国の興亡から中国の進路を探ろうということで、多くの議論が行われたようであるが、著者は特に、「海洋大国」を建設するという戦略思想が出てきていることが重要であると考えている。特に日本にとっては、今後解放軍が海軍力を強化した場合は、いろいろな問題が惹起されることは間違いない。
 
 そして最後の「復興之路」。アヘン戦争以来167年間にわたった中国の「没落と復興の記録」であるという。この番組も基本的には国威発揚番組であるが、前者と同様、この番組を巡る議論は、広範囲に及び、「中国共産党が政治民主化のソフト・ランディングを目指しているとの見方」さえ出たという。

 こうして中国の政府の肝いりテレビドラマの解読に触れてくると、言わば「専制政治の精神分析」といった感じが漂ってくる。もちろん製作側は、国家のプロパガンダとしてそうした番組を作る訳だが、視聴者に対する一定の納得力を持つようにすると、どうしても本音の一部が出てしまう。それが、すべて社会主義政権に奉仕すべきとされた、かつての「社会主義リアリズム」の作品との差であるのだろう。100年前の20世紀初頭、ソビエト政権が誕生した時代の映像作品と比べるのはあまりにも無理があるのは確かである。しかし、他方で、現代の環境で、残された数少ない存在感のある社会主義国である中国とそこで一党独裁を続ける共産党の統制する軍隊である人民解放軍が、権力を維持しながら存続していくのはそれはそれで大変なことである。それはケ小平の経済改革や、天安門事件が物語っているように、政治中枢を押さえながら少しずつ外的環境に適応させていくという形を取らざるを得ないだろう。中国のこうした軍事テレビドラマは言わば情報が開かれた現代で、巧みに政権の意向を織り込みながら、聴衆の嗜好にも迎合していこうという、薄氷を踏みながらの試行錯誤なのではないか、という感じを抱いたのであった。

読了:2009年11月8日