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アジア読書日記
中国
1421- The Year China Discovered The World
著者:Gavin Menzies 
 友人とマラッカの話をしていたところ、「鄭和の航海について面白い本がありますよ」と紹介され、貸してもらった本である。大きめのペーパーバックで、本文だけで500ページほどあることから、本を渡された時は、正直これはたいへんかな、と思ったが、いざ読み始めてみると、論旨が単純で明確であることから、それほど苦労しないで読み進めることができた。読了後調べてみると、邦訳も「1421 中国が新大陸を発見した年」というタイトルで2003年に出ていることが分かった。原書の出版が2002年ということなので、それなりに話題になったことから、直ぐに翻訳が出たということなのであろう。

 その内容は、15世紀初頭の鄭和の航海は、一般に知られているマラッカからインド洋を経てアラビア海やアフリカ東岸に到達したのみならず、一部の船団は喜望峰から大西洋を経て北米大陸に達し、また南米からマゼラン海峡も超えて太平洋さえも制覇し、オーストラリアや南極、あるいは北米大陸東岸を北上してグリーンランドにも到達していたことを証明しようというものである。もしそうだとすると、この中国は明朝の船団は、実はコロンバスやバスコ・ダ・ガマ、マゼラン、あるいはキャップテン・クックやタスマン等による、それから半世紀以上が過ぎてから始まる欧州からの大航海に先駆けて、地球上の「新大陸」をすべて発見していたということになる。即ち西欧からの大航海は、この鄭和の船団が既に到達していた地域を、鄭和の船団が作成した海図を頼りに再訪したに過ぎない。それは大航海と「新大陸の発見」についての西欧中心の歴史を大きく塗り替えることになるのである。

 著者は、元英国海軍の潜水艦艦長である。自らがこうした海域を航行した経験を基に、多くの仮説を立て、それを検証していくのである。

 ここで登場する中国明朝の主要人物は、以下のとおりである。特に、中国人の英語表記は、いつものとおり慣れるまでは、なかなか直ぐに頭に入らない。

 Zhu Di (永楽帝)1360-1424(皇帝在位:1402-1424)
 Zhu Gaozhi(洪熙帝)1378-1425永楽帝の息子(皇帝在位:1424-25)
 Zhu Zhanji (宣徳帝)1399-1435洪熙帝の息子(皇帝在位:1425-35)
Zheng He(鄭和。Cheng Hoという表記もある。)1371-1433 雲南省出身の宦官。言わずと知れた明朝大航海の指導者。
 Hong Bao(洪保)1412-1433 鄭和の第6回航海から参加し、第7回では副使を勤める。
 Zhou Man(周満)1378-
 Zhou Wen (周県)情報なし
 Yang Qing 情報なし

 まず物語は、14世紀末の明朝で、永楽帝が北部からのモンゴルの駆逐を達成した功績等から皇帝に即位し、首都を南京からモンゴルの都であった北京に遷都、そこに紫禁城を建設すると共に、腹心であった鄭和に大航海の指令を下すところから始まる。永楽帝が、領土を拡大し、日本や朝鮮を含む周辺諸国を朝貢貿易に引き入れたことや紫禁城に時の知識人たちを集め11−13世紀の哲学者たちの功績をまとめさせたことが語られる。著者は、この時代の中国が、西欧との比較でいかに進んでいたかを、この本の至る所で繰り返すことになるが、ここでは、例えば紫禁城の図書館が数百冊の写本を有していたのに対し、同じ頃のヘンリー8世の図書館には6冊しかなかったとか、紫禁城の完成式典では26000人のゲストに対して10コースのディナーが素晴らしい陶器の食器で振る舞われたのに対し、それから3週間後にロンドンで行われたヘンリー8世とキャサリンの結婚式ではたった600人のゲストに、パンでできた皿に乗った塩漬けのタラがサーブされただけだった等と紹介されていて、つい笑ってしまう。そしてこの時までに既に5回の航海を終えていた鄭和に、それまでとは比較にならないような大船団での航海の命令が下される。1421年、彼と彼の腹心たちによる第6回の大航海が始まる。

 しかし、鄭和が第6回航海に出発した2カ月後の1421年5月9日、北京を雷が遅い、紫禁城が大炎上する。永楽帝の最愛の愛人も死に、帝は、自らの栄華に対する天の祟りが下ったと病気の床に伏せることになる。既に北京の都市整備、なかんずく紫禁城の建設で悪化した財政状態では、その再建をする余裕はなかった。周囲の宦官たちは求心力をなくした永楽帝に対する批判を強め、周辺異民族の反乱も発生する。1424年、永楽帝が病死し、それを継いだ息子の洪熙帝は、今や内憂を抑えるのに精一杯の状態であることから、直ちに航海の停止を宣言する。それでも洪熙帝が1年で死に、その息子の宣徳帝が即位すると、1431年、鄭和に7回目となる最後の航海を許可するが、1935年の宣徳帝が死去すると、総ての外国貿易が禁止され、明朝は完全な鎖国状態となる。鄭和が航海に使った大船団の船は放置され朽ち果て、そしてこれが重要なことであるが、時の軍事省担当の官僚の指示で総ての航海の記録が処分されたという。明朝の大航海時代が劇的に幕を閉じるのである。

 そしてここからが本論である。自国を襲うであろう悲劇の予感もなく第6回大航海に出た鄭和の船団の様子が、元潜水艦艦長の著者らしく、詳細に描写される。北極星等を頼りにした航海術は、既にそれまで6世紀に渡って中国人が蓄積してきた技術であるとして、船の構造そのものと共に、中国が世界で抜きんでていたという。船には、大航海に備えた大量且つ保存のきく食糧に加え、多くの「愛人」たちも乗船していた。また鄭和が航海上での前線基地としたマラッカやカリカット(インド西南部)の当時の様子も説明されている。しかし、ここまでは「公式の歴史」である。因みに、以前訪れたマラッカの鄭和博物館のパンフレットによると、この第6回航海の主要な公式寄港地は、マラッカ、セイロン、カリカット、ホルムス、ドファール(オーマン)で、別部隊がモガディシオ、アデン等を訪れ、ホルムスで再度本体と合流したとされている。

 しかし、ここから「非公式な歴史」が始まる。著者が注目するのは1421−23年の第6回航海についての「失われた記録」で、鄭和の碑文や1921年にアラブ商人としてカリカットを訪れたニコラ・デ・コンチという西欧人の記録などから想像を膨らませていく。そして1459年に西欧で作成された地図に、既に喜望峰が正確に描かれていることと、それに中国のジャンク船が描かれていることに注目する。この地図が作成されたのは、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回る航海に成功する30年前のことであり、これは既にこの地を訪れた船があるということを示している。そしてその地図に描かれている船は中国船である可能性が限りなく高い。更に著者が見ることが出来た1428年の世界地図では、アフリカ大陸のみならず南米のマゼラン海峡を越えてアジアの香料諸島(インドネシア)まで到達するルートが記されているという。こうして、公式記録ではケニアのモンバサがアフリカ最南端であると考えられている鄭和の航海が、実はそれを越えて更に大西洋、そして太平洋へと航路を伸ばしていたのではないか、という仮説が浮かび上がるのである。即ち、鄭和の船団の中から、Zhou Wen (周県)、Hong Bao(洪保)、Zhou Man(周満)がアフリカ西岸のケープ・ヴェルデ諸島に到達し、そこから、Zhou Wen (周県)がカリブ海から北米に向かい、その後きた時の東向けのルートを経て帰国、他方Hong Bao(洪保)は南米に向かい、マゼラン海峡に達し、そこで二つに分かれHong Bao(洪保)は、東に進みオーストラリアから香料諸島を経て帰国、もう一団のZhou Man(周満)は更に西に向かい太平洋を横断し、Hong Bao(洪保)とは逆の方向からオーストラリアに到達したというのである。

 以降はこの仮説を、それぞれの地域毎に15世紀頃に中国船が到達したという証拠で検証していくことになる。その手法は、まず潜水艦艦長として自ら体験したそれぞれの海路での潮流や風から、この時代の中国ジャンク船の航海が可能であったことを説明する。そして西欧の大航海開始以前の海図や、難破船の残骸や遺品などの痕跡、そして動植物の分散状況や更には其々の土地の住民の伝説からDNA分析に至るまで、これでもか、これでもかと繰り出されることになる。ノン・フィクションとしては、これらの証憑の検証が最も重要なのであるが、どちらかというとフィクションとしてこの本を読んだ私にとっては、それはどうでも良いことである。ここではあまりそれにはこだわらずに、15世紀初頭の中国船団の冒険の世界に入っていこう。

 南西のルートをとり大西洋を横断したHong Bao(洪保)が、南米大陸に沿って南下し最初に辿りついたのがフォークランド諸島であるしているのは、いかにも1980年代にアルゼンチンと死闘を繰り広げたこの島の重要性を喚起したいという英国海軍の軍人の発想である。そして極寒のマゼラン海峡から流氷が漂う南極圏の南シェトランド諸島へ。この辺りでは、映画「カリブの海賊」のどれかで見た、ジャック・スパロウの船が雪山と流氷に覆われた海峡を航行するシーンを思い出していた。そしてここからHong Bao(洪保)の船団は東に、Zhou Man(周満)の船団は更に西に向かったとされる。

 Zhou Man(周満)は、南米大陸西岸に沿ってペルーまで北上し、そこから一気に太平洋を横断しオーストラリア東岸に到達したという。それを可能にするのは、このルートを流れる海流であり、そしてオーストラリ東岸でいくつも発見されている中国ジャンク船のものと思われる難破船の痕跡である。彼らはニュージーランドやタスマニアにも到達し、それから半世紀以上後にキャップテン・クックも苦しめられた「海底から聳えるサンゴの壁」であるグレート・バリア・リーフを経て北上していったとされる。

 しかしZhou Man(周満)の航海はここで終わった訳ではないと著者は言う。何故なら、彼が1423年10月に南京に帰国するまでまだ相当の日数が残されているからである。驚くべきことに彼の船団は、日本をかすめながら今度は北米に向かい、そこに最初のコロニーを作ったというのである。カリフォルニアを中心に米国東部に残されている数々の中国ジャンク船やそれが運んできた陶器等の痕跡は、このZhou Man(周満)の船団によるものとしか考えられない。更に中米と中国の古くからの交易を物語る痕跡も残されており、特にメキシコでは、マヤ研究者の中でもこの時代に中国との交流があったことが主張されているという。

 次は、カリブ海から北米に向かったZhou Wen (周県)の冒険である。著者によるとこれは中国の伝説に登場する「Fusang(仏教神話での神の国)」を求めての航海であったという。ケープ・ヴェルデ諸島から西に向かう海流に乗ると約1か月でカリブ海のドミニカに到着するが、これは当然ながらその後コロンバスが辿った航路と同じであるという。コロンバスは、この航海で、人肉食(カンニバリズム)の島を見つけ、そこを「悪魔の島」と名付けるが、Zhou Wen (周県)の船団も、この島を通ることになったと想像している。その島は、現在の「Les Saintes」諸島ではないか、というのが著者の推測である。船団は、潮の流れに任せてプエルト・リコ、ドミニカを経てキューバに至るとされるが、ここでも推測の根拠は、コロンバス以前に作成されたこの地域の地図である。ポルトガルやスペインの別の船団がここに現われたのでなければ、この地図の下になる情報は誰が提供したのだろうか?

 Zhou Wen (周県)の船団は、更にフロリダを目指すが、ここではフロリダ海峡にあるビミニ諸島近くの海底に眠る「ビミニの道」の神秘が、中国の船団に関連付けられて紹介されている。そして彼らは更に北米大陸に沿って北上し、現在のノヴァ・スコシアまで到達する。ここでは、それから約100年後、ここを訪れたヴェネチアの探検家が、アジア系の皮膚の色と衣服を着た地元民を見た、という記録が、中国移民の可能性を示唆する。彼らは、そこまでの航海で多くの船を失ったZhou Wen (周県)の船団がそこに残していかざるを得なかった人びとではなかったのか、というのが著者の推論である。またマサチューセッツに近いロード・アイランドにある不可思議な石造りの塔が、10−13世紀の宋朝時代に福建省に造られた灯台のデザインと酷似していることが指摘されていることも、この仮説を裏付けるとしている。そしてそこで船団は二つに分かれ、一つは更に北上し、当時は凍結していなかったグリーンランドを一周したとして、その仮説についても色々説明している。もう一つの船団は、そのまま大西洋上のアゾレス諸島を経て帰国するが、アゾレス諸島にも、コロンバス以前に中国船が寄港した痕跡が多く残っているという。

 鄭和の腹心による航海の最後に登場するのはYang Qingという人物であるが、彼については漢字表記を含め、余り情報がない。しかし、著者は、彼の航海も他の人びとに勝るとも劣らないとしている。ここでは、まず中国の船団が、日食や月食を使い自分の位置を確認していたとして、その方法を理論的に説明しているが、このYang Qingは、ここでは詳細は説明されていない彼の航海を終えた時に、この方法を使い、西欧人が同じ発見を行う3世紀も前に経度の測定方法を完璧に習得することになった、と紹介されている。

 こうして鄭和及びその腹心たちによる大航海の追跡を終えた著者は、最後に彼らの航海が、それ以降の西欧からの大航海に及ぼした影響を見ている。まずは、ムーア人を放逐し、アラブの支配から脱したポルトガルが、この鄭和の第6回航海と同じ時期である1420年以降「航海王ヘンリー」の下で海に進出する経緯が語られる。彼が利用したのは、自らの土地から放逐したアラブ世界が蓄積してきた航海情報であり、そこには明らかに鄭和の船団が発見した情報が含まれているという。そしてそれを媒介した一人は、間違いなく先に紹介した、アラブ商人としてカリカットを訪れていたニコラ・デ・コンチであるとしている。言わばポルトガル人は、鄭和の船団が作成した地図により、海の向こうには怪物が潜んでいるという欧州中世の伝説のくびきを脱してようやく海に進出するのである。1432年には、ヘンリーは既にマデイラ、アゾレス、そしてプエルト・リコを植民地化したというが、特にマデイラの豊かな自然に魅了され、植民地拡大への意思を強くしたとされている。

 以降は、一般に知られている西欧人による大航海の復習とその再解釈である。1487年のディアスによる喜望峰越えから、ダ・ガマのインド航路制覇と続くが、それは既に中国人が辿っていた海路である。コロンブスやマゼランが有名な航海に出た時に、既にアメリカ大陸の存在はポルトガルでは知られていた事実であり、彼らは、時のスポンサーであるスペイン王に自分を高く売りつけるために、その存在を知っていることを隠した上で出港したというのである。そして1772年のキャップテン・クックによるニュージーランドとオーストラリアへの航海も、実は「新発見」ではなかったのである。

 最後に著者は鄭和の航海の功績を総括しているが、ここで面白いのは、歴史の中での「もし」という自問である。「もし紫禁城が消失せず、永楽帝が健在で、鄭和が航海を続けていたら?」その場合、アフリカ、アメリカ、オーストラリアには大きな中国の植民地ができ、ニューヨークはニュー北京と呼ばれ、これらの国の宗教は仏教になっていたかもしれないし、オーストラリアの公用語は中国語になっていたかもしれない。そして何よりも「離れた土地の地元民に親切に接する」という中国の文化を考えると、それらの地域の歴史は、欧州人による残虐な手段による植民地化とは全く異なったものになっていたのではないだろうか?そして欧州人のその手法は、アジアにおいても繰り返された。言わば、西欧人はアジアから盗んだ情報と技術でアジアを征服したのである。「もちろん、ディアス、コロンブスやクックの偉大な功績を否定するものではないが、鄭和とその腹心たちこそが最も称賛されるべき人びとである。彼らに続いた人びとはいかに彼らの功績が大きくとも、結局はこれらの先達の道を辿って航海しただけであったのだから」として、著者はこの本を結んでいる。

 英国人が、欧州による大航海の歴史を否定する作品を、それなりに説得力ある形で公表したことから、この本が賛否両論を含め多くの議論を呼んだのは容易に想像できる。他方で中国人はその中華意識を鼓舞されて、この本を大歓迎したであろうことも想像するに難くない。実際この本のあとがきでは、この本が喚起した多くの論争に言及されているし、また他方で著者がその後中国の鄭和研究者たちと緊密に連絡を取り合っていることも示されている。そして彼のウッブ・サイト(www.gavinmenzies.net)を覗いてみると、彼が議論に使った数々の証拠品の写真などに相当のスペースが費やされているのが分かる。いかに著者の仮説が科学的に検証され、認知されるかが、最終的にはこの本の価値を決めることは確かである。

 しかし、既に書いたように、私にとっては、彼の仮説が真実かどうかはあまり問題ではない。むしろこれは鄭和の大航海の裏話として、ある意味壮大なフィクションとして楽しむことが出来れば、それだけで十分なのである。今から600年前の世界がどのようであったかを想像しながら、彼らの大冒険を追いかけることで、少年時代にベルヌやオーウェルの物語で体験し、最近では映画で視覚的に楽しんできた想像世界に、久々にこの本を通じて再会したのであった。しかも、それは、彼らの痕跡を身近に感じることのできるここ東南アジアでの再会なのである。改めて2年前のこの時期に訪れたマラッカ(別掲旅行記を参照)を再度訪問してみたいという気持ちに強く襲われたのであった。 

読了:2012年5月1日