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アジア読書日記
中国
赤い高粱
著者:莫言 
 言うまでもなく、昨年(2012年)のノーベル文学賞受賞作家の代表作である。昨年のノーベル文学賞は、今年こそ村上春樹か、と日本中が色めきたっていた時に、この中国の作家が受賞することになり、この作家の名前が大きくメディアで取り上げられることになった。個人的には、この作品の映画(1986年発表)が以前から気になっていたが、今回の受賞で、この映画の原作がこの作家によるということを初めて認識したのであった。そんなこともあり、年初の帰国時に日本でこの原作の翻訳本を入手し、今回読了した。考えてみれば、芥川賞受賞作を除けば、日本語の小説を読むのは、ましてや翻訳小説を読むのは本当に久し振りである。

 物語は、中国東北部の高粱畑が広がる寒村での20世紀初頭の人々の逞しい生活を描いた作品である。主人公は語り部である「私」の祖父と祖母。祖母は貧しい家に生まれながら、その美貌故に酒造の資産家の息子に見初められ嫁入りをする。しかし、その資産家の息子はらい病を患っているという噂がある。そんな祖母は、嫁入り籠を担いできた精悍な祖父に惹かれ、高粱畑で情事を持つ。そして、祖父はある日資産家の家に押し入り、その息子と父親を殺害し、近くの側に投げ捨てる。別の犯人が捕まり、祖父はその後その酒造の雇い人となり、跡を継いだ祖母と、二人の間に生まれた父と生活を共にするようになる。

 しかし、日本軍の侵略と共に、その地も暗澹としてくる。祖父は盗賊部隊の頭領として抗日の戦いに臨むが、ある日、日本軍がその村に近づくという情報がもたらされ、祖父は同士たちと川の袂で待ち伏せする。しかしなかなか日本軍は現れない。業を煮やした祖父は、父に、祖母の下へ走り、食べ物を持ってくるように指示し、祖母ともう一人の女が待ち伏せ部隊の場所に訪れた時に、まさに日本軍が現われる。祖母は最初に銃弾を受け倒れ、それから激戦が始まるが、祖父の盗賊部隊が全滅しそうになった時、別の抗日部隊が現われ、日本軍を殲滅する。しかし祖父の部隊で助かったのは、祖父と父だけであった。祖母も失った祖父は、村の人々をその戦場に集め、味方の死者の丁重な供養を行う。祖父はそのまま老年まで生き永らえることになる。

 と書いてきたが、実際の小説は、この時間的流れは、全く順不同に行ったり来たりする。例えば、物語はまずは1939年旧暦8月、祖父と14歳の父が、日本軍との戦いに向かう場面から始まるが、すぐに現在に戻り、主人公二人の孫である“私”が故郷の伝承を調べて、この話しを語り始めていることが示される。しかし、直ぐに、その戦闘に先立つ日本軍の侵攻とそれに伴う残虐な支配(酒造小屋の番頭の処刑―かつて、村上春樹の「羊をめぐる冒険」に、同じ処刑シーンがあったのを思い出した)やそれに対する祖母の抵抗などが語られる、しばらくは、日本軍待伏せとその前の日本軍支配時という二つの時間が交互に流れていく。

 次に舞台は過去に戻り、祖母の16歳での嫁入りが語られる。嫁入り籠を担いだ祖父との出会いと盗賊に襲われた際の祖父の活躍。しかし、それはまたすぐに日本軍待伏せに戻ることになり、父が村に食料を取りに帰り、それを受けた祖母が待伏せ中の祖父の部隊に届けに来たその時、日本軍が端の袂に姿を現し、戦闘が始まる。祖母は日本軍の銃弾による最初の犠牲者になるが、今度は、その死にいく祖母の回想として、祖父との初めての契りに至る若き日々と、そして日本軍との戦闘が交互に描写されていくのである。祖母の最期は、それから20年後の祖父の最期と重ねて語られる。

 戦闘は別の抗日部隊が現れ、日本軍は殲滅される。別の抗日部隊は、共産党軍のようであり、祖父の盗賊部隊と日本軍の双方が消耗したタイミングを待って参戦してきたように描かれたところで、「赤い高粱」と題された第一章が終わる。

 第二章は「高粱の酒」となっているが、内容がそれほど変わるわけではなく、むしろ第一章の時間との交差は、益々激しくなる。酒造への嫁入り後、初めて里帰りした時の祖母の絶望。しかしすぐに日本軍との戦闘後の、祖父と父の光景が語られたかと思えば、今度は祖父による舅と夫の殺害と、その後祖母が酒造の実権を握る過程、そして戦闘の後の村人との祝勝の祝祭での、日本軍の死体に対する残虐な対応の描写等が続く。また時間は戻り、祖父が酒造に雇われ、実質的な祖母との暮らしが始まるが、その過程で祖父が小便を垂らした酒が、その後この酒造が成長する要因となる特別な香りの酒が出来るきっかけになるのである。そして祖父が酒造に入った後に、県庁の役人が、祖父を盗賊の頭と考え拘束する話と、その盗賊が祖母を誘拐して莫大な身代金をせしめる話、そして最後はその盗賊に祖父が報復し、殺害する話が続く。しかし最後は日本軍が殲滅された後に報復に訪れた日本軍の大群に村が包囲され、祖父と父は、戦い虚しく落ち伸びっていったところで、この文庫本は、やや唐突に終わることになる。ただ巻末の解説によると、この作品は全部で5篇からなる中篇連作で、この文庫版にはその内の2篇のみ収録したとあるので、今回読んだのとは別の「家族の伝説」ー祖父は、死ぬ前に北海道から帰ってきた、と語られているので、そうした経緯も含め、まだいろいろな物語が繰り広げられているのだろう。

 この作品を見る時に、いろいろな切り口から論じることができるだろう。まずはこの著者が昨年ノーベル文学賞を受賞した際の、2010年ノーベル平和賞受賞者で今もなお自宅で軟禁されている劉暁波へのコメントと彼との比較。莫言は、受賞直後のインタビューで、劉暁波が自由になることを希望する、と述べていたが、スウエーデンでの授賞式を含め、その後は全くコメントを控えることになった。それどころか、むしろ今回の受賞が「中国文学にとっての勝利だ」と、国家ナショナリズムを喜ばせるような発言を行っている。

 こうした結果、莫言については「御用作家」というレッテルが張られたのに対して、彼自身は「リスクをとって書いている」と反論している。もちろん、明らかな反体制派で、ノーベル賞授賞式に出席できなかったばかりか、今なお自宅に軟禁されている劉暁波と比較すれば、莫言は、政治とは距離を取ることにより、実は現体制に貢献してきたのは確かである。そして、その観点で今回の作品を読めば、何よりもその抗日の描き方=日本軍鬼子(クイツ)に対する激しい憎しみは、この国の反日教育を大いに鼓舞するようなものであることは明らかである。その意味で、やはりこの作家は、国家に保護されるために、その表現において国家に迎合してきたということは否定できないであろう。しかし、ノーベル文学賞を受賞したことによって、彼が国内で保ってきたこうした国家との距離感が、世界の視線に赤裸々に晒されてしまい、彼は自分の立ち位置につき、厳しい判断を迫られる状態になってしまったのである。もちろん選考委員会が彼を選んだのは、この賞を受賞させることにより、あえて彼に国内人権問題につき、厳しい選択を突きつけることを考えた結果だとも言える。今回の彼の受賞に際して、選考委員会の中に彼と親しい委員がいた、という記事も流れているが、むしろ今回の受賞により、彼は重い責務を負ったと考えるべきなのだろう。そしてそれは、例えば村上春樹が受賞したとしても課せられることになかった、中国という特殊な政治環境下でノーベル文学賞を受賞した彼の責務なのである。そう考えると、これからの彼の動きはたいへん注目される。

 こうしたノーベル賞に関わる政治的な問題は別にすると、文学作品としては、著者自らが語っているように、バルガス・リョサ等の「伝承=神話の文学」から影響を受け、そこで現代の人間関係では失われた奔放な愛や一途な正義、あるいはその対極としての憎悪や裏切りを理性の制約をギリギリまで削りながら描いた作品である、ということも出来よう。“私”が語り部であることから、精悍な青年と絶世の美女が「祖父」と「祖母」として語られている違和感が、またなおさらに二人の特殊な人格を浮かび上がらせることになる。解説等では明示されていないが、恐らく大江健三郎や中上健次等の影響も受けているのであろうこうした想像力は、文学作品としてだけ見ると、たいへん説得力がある。

 そして最後にそれを描いた映画。真っ赤に実る高粱畑という、この小説の色彩的なイメージを表現するのは映画というのは絶好の手段である。一昨年に日本で見た映画「上海」にも出演していた瀋陽出身で、この作品で映画デビューを飾ったコン・リーが、この「祖母」を如何に演じたか、原作の「伝承=神話的世界」が映画で如何に表現されているかというのはたいへん興味がある。日本に帰ったら早速この映像は探してみたいものである。

読了:2013年3月1日