物語 中国の歴史
著者:寺田 隆信
1997年出版の、中国の辛亥革命までの通史である。「文字による史料を持つ時代だけでも3500年」というこの国の通史を読むことは、考えてみたらこの歳になるまでなかったのではないか?もちろん受験勉強時代に、世界史の一環として中国史は必死に暗記したものだし、その後もそれぞれの時代の断片には接してきた。しかし、社会人なってからは、そもそも膨大なこの国の歴史をもう一度俯瞰するという気持ちにはならなかった。
しかし、最近のこの国と日本を巡る様々な軋轢を前にすると、このあたりでもう一度この隣国の歴史と文化を包括的におさらいする機会があっても良いと感じるようになった。特に現在の指導者である習近平が、「偉大な中国の復権」を唱える背景には、栄光の時代を含むこうした中国の歴史への誇りがあることは間違いない。更に私が参加している中国語の語学クラスで、この国の歴史的な話題が多く出ることも、この国への新たな関心を強めることになった。そんな矢先に一時帰国時の本屋で目にしたのがこの新書である。出版は前述の通り15年以上前であるが、清朝の崩壊までで終わっていることを考えると、それまでの歴史研究に出版後大きな新発見があったとは思われない。新書であれば、それほどの覚悟を決めて取りかかる必要もない。ということで、2013年の終わりにあたり、中国の通史を概観することになった。その時の視点は、ここで描かれている歴史が、現代中国の諸現象を理解する鍵を与えてくれるかどうか、というものである。そうした観点から、ここでは古代については簡単に済ませ、隋や唐といった中世以降に焦点を当てて総括してみたい。
中国の歴史記述が、司馬遷の「史記」の世界から始まるのは予想されたことであるが、ここでは、この「中国の歴史の父」がこの書物を書いたのは紀元前100年の頃であり、その記述が、紀元前約2700年の「黄帝」即位から始まっていることだけを確認しておこう。これは、中国での歴史紀年が議論される時に、例えば辛亥革命時などに時折復活して採用されることのある見方であるという。ただ、中国最初の王朝と言われる「夏」と同様、歴史的にはこれらは伝説であり、考古学的な観点で「歴史」が始まるのは紀元前1600年頃の「殷」からということになる。
考古学的に検証されてきた「殷」や「周」に関わる研究が紹介されているが、ここでは、「周」の末期の前841年が、司馬遷の史記の中で最初に年代が記載された年であることだけ確認しておこう。この年が「中国元年」で、「以後、中国は完全な歴史時代にはいる」のである。
「周」の末期から前221年の「秦」による統一までの約500年間が「春秋戦国」時代であるが、これは「各地に群立していた都市国家が領土国家へ整理統合されていく過程」と総括される。孔子(BC551年生まれ)が登場したのは、この時代であったが、著者は儒教自体は以前から存在しており、その上に「孝にもとづく家族倫理をつくり、その上に政治理論を組み立てた」のが彼の功績であるとしている。また孔子の没後、孟子による道教の登場も含め「諸氏百家」による「百家争鳴」と呼ばれる思想・学問の自由の時代が訪れたのもこの時代である。この自由な精神が、「秦」による統一と共に抑圧されて消滅した、というのは、場所・時代を問わず、その後の歴史で至る所に現われる現象の原初的な姿としてたいへん興味深い。更にこの時期、鉄器が普及し、それが生産力の向上や戦争被害の拡大をもたらしたという。
「秦」王朝を建てた秦王政は、始皇帝という名に示される通り「皇帝」という称号を始めて使うことになる。また北の匈奴に対抗するため万里の長城を建設したことでも知られるが、これは部分的にそれ以前の王朝が作ったものを利用したものであったようだ。また「秦」は始皇帝の死後、僅か15年で滅亡するが、その名称(Chin)が広く世界に知れ渡り、それが最終的に英語のChinaになったというのは、改めて確認しておこう。
「秦」滅亡後、項羽との戦いに勝利した劉邦が高祖として即位し「漢」が始まる(前202年)。前141年に即位した武帝の時代が「漢」の最盛期で、この時期に儒教が国家教学化される(政治と学問の最初の結合と、中国官僚制の特徴のひとつである文官優位の原則の確認。司馬遷もこの時代の人物。)と共に軍事的には匈奴をゴビ砂漠以北に駆逐し広大な領土を支配する。また匈奴が駆逐され西方の交易路が確保されたことから、張騫が長安から西方に派遣されサマルカンドに到達、後のシルクロードの基礎を築いたというのもロマンに溢れた逸話である。
「漢」は農民反乱などもあり一旦崩壊した後、25年「後漢」として再建される。この時期は政治的には精彩を欠いているが、紙、天球儀、地震計、磁石など多くの発明があった。更にこの時代にインドから仏教が伝来し、その後の宗教、学問、芸術に大きな影響を及ぼすことになった。そして後漢の後期の軍閥混戦の中から、孫権(呉)、曹操(魏)、劉備(蜀)という三国志の主人公たちが登場してくることになる。この中では、「赤壁」の映画の中で、色香に惑わされた敗残軍の将軍としてコミカルに描かれている曹操が、実際は軍人としてのみならず、政治家、文人としても「中国歴史の流れの中に屹立する傑物であった」ということは、私も別のところで書いたが、著者も繰り返しているところを見ると既に一般的な評価になっているのであろう。
三国分立の時代は、280年に「晋」により再統一されるが、その統治も僅か37年で崩壊し、その後は「五胡一六国」「三国県立」「南北朝」と続く、より深刻な権力分立の時代に入る。この政治的混迷時代の特記事項は、清談の登場(竹林の七賢)と賭博の空前の流行であったというが、これも政治混乱期の文化の活性化・多様化の例として特記されよう。
この混乱期は、589年、「隋」による統一で終わりを迎える。「隋」を建てた文帝は、後世からは代表的な暴君で、豪遊したり、無駄な高句麗遠征を行い国費を浪費したとされているが、他方で科挙制を実施したり、大運河を開削整備したりと、その後の中国の発展に重要な意味を持つ政策を実施したことも事実のようである。日本から遣隋使小野妹子が長安を訪れたのは607年である。しかし三代目煬帝の失政により「隋」は38年で滅亡し,「唐」が取って代わる。この時期、まず均田制と呼ばれる徴税制度と、それに基づく府兵制度により財政と国防を安定させた。父親の妾から高宗の妻となり、高宗没後、中国史上初の女帝となった則天武后の逸話も特記に値する。そして言うまでもなく6代目玄宗の時代(713−756年)に唐は最大の繁栄を誇ることになる。貨幣経済の浸透とシルクロードを経由してのペルシア、アラブ商人の来訪と彼らの宗教であるゾロアスター、マニ、イスラム、キリスト教などの伝播等など。但し玄宗は晩年になり楊貴妃の色香に迷い享楽生活に耽溺し、政治の実権は一部の宦官に移り、その後発生した幾つかの大きな反乱などを経て、「唐」は20代290年で滅亡、五代十国時代と呼ばれる新たな分権期に入る。この時期は歴史学的には中国の「中世から近代への過度期」と理解されているという。
中国の近代は「宋」(960年成立)から始まることになるが、その中国近代の特徴としては、@庶民の活躍、A政治的には皇帝独裁、B貨幣経済、C伝統重視の士大夫文化に加えた民衆文化の発展、D民族主義が挙げられるという。「宋」は在位41年に及んだ四代仁宗の時代が繁栄のピークで、その国都である河南省にある開封は政治、経済、文化の中心として賑わったという。しかし、その後西北国境からのチベット系部族の新入などで国力を浪費し、王安石による「ラディカルな富国強兵」策による改革(新法)などもあったが、今度はこの新法派と旧法派の対立も発生し、北方から侵入した「金」により「宋」は九主167年でいったん滅亡。以降は残存勢力が南方に逃れ「南宋」を建てるが、この「南宋」の国都となった臨安の繁栄は開封を凌ぎ、(「元」朝になってからであるが)13世紀末にこの地を訪れたマルコ・ポーロを驚かせる程であったという。朱子学が登場したのもこの時代である。しかし、この「南宋」も政治の混迷や紙幣乱発によるインフレなどで人々の生活が困窮、「金」と共に、北方から勢力を拡大したモンゴル族により滅亡させられるのである(1279年)。
1206年にモンゴルを統一したのはチンギス汗であるが、実際に中国本土に侵入したのは後継者のオゴタイ汗であった。まず開封に依拠していた「金」を攻撃するが、面白いのは積年の恨みから「南宋」は、「金」を攻撃することで、その力を侮ったモンゴル勢力と手を結ぶのである。そして結局「金」の滅亡後、モンゴルと対峙した「南宋」はいとも簡単にモンゴルに席巻される。フビライ汗が「南宋」を滅ぼして、「元」として全中国を支配するのは1279年であるが、これにより異民族による中国全土の支配という未曽有の時代が始まる。その支配の特徴は、財務能力に乏しいモンゴル族にかわって、ウイグル地域からの移民である色目人が財政担当者として実務を取り仕切る間接支配で、人口の90%を占める「南人」は最下層に位置付けられ、激しい搾取を受けることになる。しかし他方で全国支配が確立した結果、市場も全国規模に拡大し、商業は栄え好景気をもたらしたという。「モンゴル大帝国の存在が商旅の便利と安全を保障した」ことで海外貿易も拡大し、杭州や泉州が貿易港として栄え、前述のマルコ・ポーロの「東方見聞録」でも紹介される。しかしながら、この王朝も、まずはモンゴル族支配層内部の抗争により、そして最終的には抑圧されてきた「南人」の反乱で弱体化する。結局モンゴル族の支配が失敗したのは、「中国社会のもつ性質を考慮することなく、遊牧民と狩猟者の論理で農業社会に対したこと」が最大の要因であった、というのが著者の総括である。
貧農の子供として生まれた朱元璋が、「元」を駆逐し帝位に着いたのが1368年。「明」朝の成立で、彼は太祖洪武帝と呼ばれる。この政権はまず疲弊した農村の復活と農業生産力の回復に努めるが、政治体制は、多数の側近や学者・文人を含めた粛清の犠牲者を伴う「皇帝独裁による専制的中央集権制」で、謂わば「宋」代以来の政治の流れへの回帰であった。洪武帝死去後、骨肉の争いに勝利して即位した永楽帝も残虐性では引けを取らなかったものの、北京への遷都と紫禁城の建設や鄭和の大航海など、以前に私が個別に接した大事業で知られることになる。その後五代宣徳帝のもとで「明」は繁栄の頂点を迎えることになるが、その後は無能な皇帝が続き、一時的には例えば「鉄腕宰相」張居正の改革努力なども行われるが、政治の実権は再び宦官に移り、官界の綱紀は乱れ、猟官を巡る賄賂の横行、農民の反乱が各地に広がり、この王朝も終焉を迎えることになる。この時代、「正統の文化領域については不毛」とされるが、陽明学に代表されるような新しい実践倫理を説く思想・学問が登場したという。こうして1644年、女真族の一支族である満州族ドルゴンが「清」の統治を宣言することになる。
人口僅か100万人に満たない満州族が当時2億人の人口になっていた漢族を支配するため、行政組織は「明」の旧制を踏襲すると共に、帰服の官僚を登用、「明」末の大増税は全て廃止する等の懐柔策を採用し、これがこの王朝が300年近く命脈を保つ要因の一つとなった。他方で漢人に絶対の忠誠を求め、その証として満州族の服装や辮髪を強制し、当初大きな抵抗にあったものの、圧倒的な武力で浸透させた。その結果、この風俗はその後あたかも中国固有のものであったと看做されることになったという。また名君と謳われる四代康熙帝を始め、「清の諸帝はみな一廉の文化人であり、暗君は一人も出なかった」のも、この王朝が存続した理由であった。ただ六代乾隆帝の末期から再び綱紀の乱れが瀰漫し始める。それまで対中貿易の主役を演じてきたポルトガルに代わり、新しくイギリスが登場したことが大きな影響をもたらす。それは対中貿易赤字対策としてイギリスが採用したアヘン貿易の開始とそれに伴う中国からの銀の流出である。これは言わば、イギリスによる当時の経済覇権国中国に対する狡猾な経済開放戦略による攻撃であり、これが1839年以降のアヘン戦争、太平天国の乱、アロー戦争と天津・北京条約、日清戦争と西太后による実権掌握、義和団事件を経て辛亥革命に至る「清」朝の末期症状を加速させていくのである。こうして政権を去った満州族は「中華の文明に染まり完全に漢化してしまい」、「元朝のモンゴル族と違って、もはや帰るべき故郷をもたず、漢族の大海に呑み込まれて」いった。以降、中国の歴史は現代の共和制の時代に移行するが、この新書は、「清」という中国最後の王朝体制の終焉で終わることになる。
こうして中国の歴史を概観してみると、幾つか印象深い事実を再確認することになった。それは例えば、伝説の世界とはいえ、黄帝から始まるこの国の歴史が、3000年どころか、それを遥かに上回る長さを持っているということで、それは国内のナショナリズムを刺激する時には、間違いなく使われる可能性があるということ。更に、孔子が生きたのは、ギリシアで哲学者たちが談論風発していたのと同じ頃(例えばプラトンはBC427年生まれ)であることや、司馬遷の歴史記述がやはり紀元前には書かれていたというのも、ツキディディス(BC460年頃生まれ)を連想させる古さである。こうした中国古代文明の偉大さは、確かに我々も敬意を払わざるを得ない。
「唐」以降の王朝になると、今度は中国文明の開化と諸外国との交易の発展が顕著になる。確かに、「清」代に至るまでは、中国の経済力や文化水準が欧州を凌駕していたことは間違いなく、それが「偉大な中国の復権」を目指す、現在の共産党政権の誇りになっていることは容易に想像される。他方で、多くの強力な王朝が、内部の腐敗、抗争や、外部民族の絶えざる侵入で、最後はいとも簡単に崩壊していったという中国の歴史は、権力のはかなさを充分味合わせてくれる。「有能な皇帝が続いた」「清」朝でさえ、末期には国内的な閉塞と、そこに英国による「覇権潰し」が加わり、近代の最後に植民地化されるという汚辱にまみれることになる。まさにそこから日中戦争、戦後の内戦に至る時期が、中国の歴史の中でも、もっとも恥ずべき時代と看做されているのも充分理解できる。そしてその広大な領土をまとめるためには、とんでもない政治的策動が必要である、ということもこの国の歴史を概観しただけでも明らかである。現代中国も、当然この長い歴史を学んだ指導者たちが、歴史の誤りを繰り返さないような政権運営を行おうとしているのであろうが、それはどうしてもこの国の国内的な統一を保つために、時として国外との緊張を高めざるをず、その結果近隣諸国の軋轢を高めることになる。日中関係の現在と今後を見る上でも、この国の広大な領土問題と、長い歴史の双方をもう一度眺めながら考えをまとめる必要があることは言うまでもない。
読了:2013年12月26日