アジア・ドイツ読書日誌と
ロンドン・東京・フランクフルト・シンガポール音楽日誌
アジア読書日記
中国
中華人民共和国史
著者:天児 慧 
 日本に帰国し、いきなりの大雪の洗礼を受けた週末、最初に読み終えたのは、昨年も最新の中国分析を読んだ中国専門家による中国共産党通史である。中華人民共和国建国50年の1999年にこの作品の第一版が出版されているが、昨年(2013年)8月に新版として改訂されたものである。昨年11月の帰国時に、中国の全時代を俯瞰しておこうと思い、既に読了した「物語 中国の歴史」と共に購入したものである。当然のことながら、1949年の共産党独裁政権の確立に伴い、それまでの伝統中国との断絶が起こると共に、それにも関わらず伝統中国も確かに残っている。こうした両面がどのように共産党独裁下の中国現代史に現われてきているが、この作品を読む時の最大の関心であった。著者もこの点を意識し、1949年をもって「古い中国」「暗黒の中国」「皇帝独裁」から「新しい中国」「光明の中国」「人民の中国」への転換が行われたという見方と、中国の伝統、文化の強さを重視した「3千年の体質」で捉える「文明史観」を比較している。そして基本的には現代中国の動きは、双方の偏った見方では捉えられないより複雑で、ダイナミックなものである、という観点から「変わって変わらぬ中国」を理解する叙述を試みるとしている。その際に基本的なファクターとして抽出するのは、@革命、A近代化、Bナショナリズム、C国際的インパクト、そしてD伝統、という5つである。現代中国の大きな変動については、「この5つのファクターの組み合わせから一定の特徴づけが可能である」とする。以下、こうした観点を意識しつつ、主要な事象を見ていこう。

 前史としての抗日戦争に関しては、毛沢東が後に「持久戦論」として公表した、状況に応じて「積極的防衛」「対峙」「積極的反攻」を使い分ける戦略が、「驚くことに毛の読みは(中略)ほとんど的中していた」と指摘し、これが共産党軍の軍事的席巻を可能にした一つの要因と見ている点が興味深い。

 1949年の中華人民共和国の成立については、@この時点で国家体制が確立した、Aこの時点で中国が社会主義国家もしくは共産主義国家になった、という2つの誤解があることを」指摘している。@は、「戦時下」での建国ということで、ある意味当然である。Aについては、建国当初の政権の構成や基本政策を検証しつつ、「中共が中心的なリーダーシップを発揮したのは言うまでもないが」「非中共系指導者の政権への参加は、単に民主的なポーズを取るための体裁程度のものではなかった」と見ており、その後の国家体制の変貌を見る上では重要である。特に建国直後の農村部における土地改革が、中央からは穏健な方針が指示されていたにもかかわらず、末端でははるかにラディカルに進行し、その結果として農民の積極性が高まり1952年末にはこの年の農業生産量を史上最高に押し上げることになったという。他方、この建国間もない国家は、朝鮮戦争という国際環境の激変を受け、多大な人的・財政的・軍事的負担を強いられたのみならず、これを契機に戦後の冷戦構造に完全に組み込まれると共に、「米国の台湾への軍事的経済的援助が強化され、中国の台湾早期統一の展望が大幅に狂い、かつ台湾海峡を挟んでの軍事的緊張が恒常化する」という結果をもたらした。とは言いつつも、この戦争により「なお流動的であった国民の意思は大いに結束され、反帝ナショナリズムの機運と中共の権威が高まった」ことが、国内政治上は安定化要因として作用することになったという分析は、対外緊張を国内結束のために利用する支配者の常套手段が、ここでも機能したことを示している。

 1953年8月以降、指導力を強めた毛は、それまでの斬新的な社会主義化路線を変更し、急速な社会主義化に舵を切るが、この理由について著者は、国内での共産党の権威の強化と国際面での冷戦の深化に加え、スターリンの死とその後のスターリン批判が、「ソ連の神話」から毛を解放し、「大衆運動・動員による目標の実現への信念」、更には「自分自身への過信」も加わり、彼に「独自の社会主義建設」を促すことになった、と分析している。

 その過程で、建国後初めての分派闘争が行われ、親ソ派を粛清したこと、農村での集団化の加速や国際関係での「非同盟諸国」への急速な接近、そして57年初めの「百家斉放・百家争鳴」の奨励と直後の転換・粛清等が紹介される。この転換・粛清については、著者は、スターリン批判を受けた国際情勢の急転換を受け、「最初から『反中共分子をたたく』という(中略)冷徹な策略からなされた可能性が強い」と論じている。

 58年からの「大躍進」とその失敗はよく知られているが、それを良心的に批判した古い同志である彭徳懐らを「右翼日和見主義反党軍事グループ」として粛清した事件は、私は余り認識していなかった。これは個人独裁に向けての毛の非情な権力闘争手法が示されている事件である。そしてそれが最悪の形で示されたのが1965年から77年の毛の死まで続いた文化大革命であるが、これについては、その社会的要因として著者が挙げている「三つの差別構造によるフラストレーションの蓄積」だけ確認しておこう。それは、@良い階級(革命幹部、革命軍人、革命遺族と労働者、農民)と悪い階級(旧地主、旧富農、反動分子、悪質分子、右派分子)、A就業における労働者間の差別、そしてB教育面での差別構造で、文革は、こうした差別構造に大きくメスを入れるかに「見えた」、ということである。

 1971年の林彪事件と周恩来による「党と政府の日常業務」の掌握などを経て「外交路線の転換と近代化建設の提唱」が徐々に進んでいく。キッシンジャーの回想などを参考にしつつ、72年のニクソン訪中、73年のケ小平の復活、そして75年1月の第四期全人代会議での周恩来による「四つの近代化」の提唱などが、その時期の大きな転換点として説明されている。そして体調を崩した周恩来に代わり、ケ小平が改革の前面に立ち、勢力を拡大した「四人組」との熾烈な権力闘争が始まる。76年1月、周恩来が死去すると、ケ小平は一旦失脚し、周の後継として毛の意向を受けた華国鋒が登場する。しかし、周恩来を悼み、ケ小平の指導を期待する民衆の自主的な動き(同年4月の第一次天安門事件―著者はこれを「建国以来初めての、共産党政治に対する民衆の自発的で大規模な『異議申し立て』行為」と評価している)、同年9月の毛の死去を受けた「四人組」の排除、77年7月のケ小平の再度の復活と、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位への就任、と展開していく。こうして1978年12月、「歴史的な転換」と言われる中共十一期三中全会で「脱文革路線」が決定的なものになる。

 しかし、ケ小平が自らの指導力を確立するには、まだ少し時間を要する。このプロセスを、著者は「@路線・政策の転換、A華国鋒を支える指導部の解体、B華国鋒その人を権力の座から降ろす」という順序で、「実に深慮遠謀とも言うべき戦略が練られ着々と布石が打たれ、慎重に彼らを追い詰めていった」と表現しているが、確かにこの転換は私の記憶でも、特段の大事件があった訳ではなく、いつの間にか華国鋒が失脚しケ小平が指導者となった、という印象が残っている。これは「政治的な混乱は文革の後遺症を引きずる人々には耐え難いだけでなく、経済建設、生産活動を再び停滞させることになる」ことを考慮したケ小平の戦略であったという。そしてその過程で胡耀邦、趙紫陽らの若手が抜擢されていく。81年初め、「四人組」への有罪判決、劉少奇の名誉回復など「文革否定」が決定的となり、毛沢東の再評価(「文革で重大な誤りを犯した」が「彼の一生を見れば功績が第一で、誤りが第二である」)が行われると共に、華国鋒の失脚を経て、82年9月の中共第一二回全国大会(党主席、胡耀邦の政治報告)でこの過程が完了する。

 こうしてケ小平の「先富論」に基づく「改革・開放路線」が本格化する。この過程では、これを「強く支持し、経済発展のためのインフラ建設を積極的に支援したのが実は日本であった」として、大平内閣の下で始まり2007年まで続いた対中ODAが、「前半は鉄道、港湾・交通、電力などのインフラに使われ、後半は環境などにウェートが移ったが、中国の経済発展に少なからぬ貢献をした」とされている。昨今の日中関係の悪化を考える際に、こうした支援の過程で作ってきた政治的パイプの再建に期待することができないか、ということはもう一度考えるべきであろう。

 他方、経済改革に伴う、政治・思想レベルでの自由化問題についても、著者は整理しているが、「経済レベルと政治・思想レベルの対立構造は、必ずしも重なっていた訳ではなく」、政治・思想面での自由化をより強力に支援した胡耀邦、趙紫陽とケ小平の間で、その進め方に温度差があったと考える。そしてそれは言うまでもなく1989年5月の「第二次天安門事件」で明確になり、これ以降、経済改革に比較して、政治・思想改革は決定的に後退することになる。そしてこの事件以降、中国は西側諸国からの一斉非難を受け、「国際的孤立化」の中で、台湾を含めたアジア周辺地域との経済関係強化に突き進むことになる。またこれだけでは中国の経済発展を支えるには不十分であったことから「間もなく西側諸国との関係修復も模索されるようになる」が、「ここで架け橋的役割を担ったのが日本であった」という指摘も、日中関係の歴史を見る上で重要である。折しも湾岸戦争で米国の圧倒的なハイテク兵器の威力を見せ付けられたケ小平は、次々に「守り」の外交方針を支持し、経済力の活性化と総合国力が向上するまでは「目立つ行動をせず力を蓄えよ」等の指示をすることになる。

 92年のケ小平(当時87歳)の「南巡講話」による「経済改革・開放路線」の再確認を経て、ポストケ小平体制が構築される。総書記には江沢民が「天安門事件」直後から就任していたが、著者は特に朱鎔基副首相が、経済政策において「激化する投機活動、高マネーサプラーなどによって引き起こされた金融秩序の混乱」を「中央マクロコントロールを強める」ことで収束させながら、他方で「経済成長それ自体を鈍化させることなく、92年から97年まで成長率9−14%を維持し続けた」という「辣腕ぶりを発揮した」と評価している。そしてこうした経済成長を受け、92年以降、軍事費が急増すると共に、従来「守り」に入っていた外交でも徐々に自己主張を行うようになっていく。また対米関係でも、米国経済界へ中国市場をアピールすることで接近を図る戦略を積極化させ、米国財界人をして、「人権問題や天安門事件に固執するあまり米中経済を犠牲にすることに明確に異論を唱えるよう」仕向けたという。他方では、こうした中国の攻勢の前に、米国でも「中国脅威論」も高まっていくことになる。

 1997年1月のケ小平の死去は、大きな混乱をもたらすことなく江沢民体制へのソフトランディングをもたらし、翌年の香港返還も順調に完了する。その江沢民の権力掌握については、経済の改革開放を推進しながらも、政治安定のために毅然として『民主化』を鎮圧できる」実務家としての能力がケ小平の目にかなったことが最大の理由であると説明されている。そして江沢民の時代は、政治改革については「権威主義体制から『独自の特色ある』民主主義」への転換は遅々として進まなかったが、経済面では引続き経済部門の総責任者であった朱鎔基の下で国有企業改革、金融改革、所有制改革、社会保障改革等、社会主義経済の「本丸」「内側」に手をつけることになったとされる。その成果については、著者は特に国有企業の黒字化や失業問題については厳しい評価をしているが、他方で「着実に経済パフォーマンスを増大させ、21世紀中頃あたりには『経済大国』の仲間入りをする可能性」を予想させるものであったとしている。またこれを受け対外関係においても、台湾問題で相互に自己抑制的な対応を取りながら緊張を弱めると共に、積極的な外交攻勢で「国際的なプレゼンスを高めたと同時に、21世紀の国際秩序形成に向けて(特にアジア・太平洋地域で)様々な布石を打つ」ことになる。

 こうして21世紀、高度経済成長を実現した最新の中国の分析に移る。そこには一足早く雁行型の経済成長を遂げた他のアジア諸国と同様、「成長の天井」が見え始めている。90年代の経済成長の基本要因は、@安価な労働力の存在、A欧米日や海外華人からの旺盛な投資に加え、B2001年のWTO加盟による、「外部圧力による社会主義計画経済制度の打破」によるとされるが、それは同時に内陸部の安価な労働力の都市部への移動による賃金格差、教育・社会保障制度の対象外扱い、あるいは「国進民退(国有経済の増強と私有経済の後退)」、環境汚染等の新たな社会問題を生み出している。それに対し、2001年の共産党自身の新定義(「先進的生産力、先進的文化、最も広範な人民の利益代表」)で経済発展の推進力となってきた私営企業家やIT文化の担い手を党に取り込む姿勢を示すと共に、沿海州と内陸部格差問題については「西部大開発」のような内陸部の経済成長計画を打ち出すなどの対応を行ってきた。更に2002年に成立した胡錦濤・温家宝政権の下では「和偕社会」の標語のもとでは「成長と公平な分配、人元と自然の調和」を目指す方針を打ち出してきた。しかし環境汚染や激増する腐敗・汚職、そして格差問題の延長にある辺境少数民族問題等、むしろ問題の根は深くなっている。その要因を著者は、@充満する社会不満に対し、共産党体制の安定を最優先し、批判勢力を徹底的に弾圧してきたこと、A「大国中国」実現の強い要請のため成長主義路線を最優先したこと、Bエリート層を中心に強大な既得権益層が形成されたこと、C江沢民勢力が「普遍的価値」批判を行い、温家宝の主張に反論し、中国特殊論と普遍主義の対立を一段と鮮明にしたこと、そして最後にD胡錦濤・温家宝も、自らの地位保全のためにその既得権益グループに譲歩・妥協をせざるを得なかったことを挙げている。そしてそれは2012年11月に成立した習近平・李克強体制がそのまま引継いでいる構造問題なのである。そうした国内問題から視線をそらす格好の素材は米国と並び立つ強国としての矜持と、その表現としての海洋権益主張といった対外強硬姿勢である。多くの論者が指摘するように、現在の中国の対外強硬姿勢は、国内的矛盾の現れであり、それを認識しない直情的な反応は、間違いなくこの国の新たな強硬姿勢を引き出すことになる。そして同時に中国自身も、そうした国内矛盾を対外戦略により解消しようとすると、それは他国からの抵抗と反撃を受けざるを得ない。中国の発展は他国の支援で実現できたことの冷静な認識と、その「中国の苦悩」を踏まえた日本を含めた主要国の対応が、新たな中国の平和的・安定的な成長をもたらすだろう、という著者の最後の言葉は、中国学者としての心の底からの願いであろう。

 ただ、こうしてその成立から中華人民共和国史を俯瞰して見ると、やはり現実政治は、著者が期待するようには進まないであろうという思いも消し去ることはできない。それはいうまでもなく「リアルポリティックス」の観点からのこの国の戦略と、それに対し日本を含めた主要国がどのように対応すべきか、という問題である。

 清朝末期以来失われた大国としての存在を取り戻すという「夢」は、この国の伝統の中で変わることのない衝動である。中華人民共和国の建国から文化大革命に至る時代は、この国の統一を堅固なものにしていく過程であるが、それはまさに毛沢東の政治力と個性により紆余曲折したものになった。しかしケ小平の指導の下で、こうした混乱が収まり、いわば安定的な成長戦略が取られるようになった。まさにこの本で紹介されているケ小平の戦略は、2回の決定的な失脚から立ち直った彼のしぶとい性格と併せて、中国3000年の歴史を物語るような「中長期的戦略に基づく」老獪な成長・世界戦略であった。そしてそれ以降の指導者たちは、ケ小平ほどの力はないにしても、間違いなくそうした戦略を踏まえていることは間違いない。

 そうした中で現在のこの国を取り巻く実情を考慮すると、経済水準上昇に伴う国力の上昇と他方での社会問題の拡大を踏まえて、国際面での攻勢を一層強めていく動機は間違いなく存在する。尖閣問題やシーレーンを巡る動きはこうした戦略の中に位置付けられると共に、それらを使いながら「超大国アメリカ」を牽制しようとしていることは多くの論者が指摘しているとおりである。

 その中で、日本は首脳会議を拒否されるなど、両国間の関係は冷え切っており、更に安倍首相の靖国参拝は、中国の反日キャンペーンの格好の素材として国際社会で政治的に使われることになってしまった。アメリカが、この安倍の靖国参拝に対して「失望」という外交上は例外的に強い表現で反応したのは、中国の攻勢を受けた米国の対応に、日本が新たな問題を持ち込むという懸念からであったことは間違いない。

 他方で、もしこの本で著者が繰り返し強調しているように、90年代の中国の経済成長を、天安門以降の孤立下での政治的支援を含め支えたのが日本であるとしたら、それを如何に現在も有効に使っていくかを考えるところから我々は始めなければならないのではないだろうか?もちろん中国はその時期日本をうまく利用しただけで、政治的・経済的に地域内で圧倒するに至った現在ではもはや不要になっているという見方も出来る。そうであればそうした冷徹な認識も忘れてはならないことは言うまでもない。いずれにしろ、相手が中長期的な戦略を掲げて向ってくる時には、こちらも同じ姿勢で立ち向かわなければならない。中国3000年の歴史を今こうしておさらいした後に感じるのは、中国という国の歴史の重みであり、現在のこの国との関係もそれを踏まえた形を模索していかなければならないだろうという思いである。近くて遠いこの国との関係は、同様に戦後最悪の状態にある日韓関係と共に、日本が引続き背負っていかなければならない地勢的な運命なのである。

読了:2014年2月16日