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アジア読書日記
中国
中国再考ーその領域・民族・文化
著者:葛 兆光 
 そして再び中国論である。しかし、今回は中国人学者による自国の分析であり、且つ昨今の日中両国の政治的な緊張からは距離を置いた冷静な記載が目立つ作品である。そもそもは、この小著を監修している日本人中国学者が、著者の別の作品に目を留めたが、それが余りに専門的なため日本での翻訳出版の目処が立たなかったことから、同じ著者の短い論文や講演などを収録した本書を翻訳・刊行することになったということである。著者は1950年上海生まれ。東大や京大でも研究活動を行った経歴がある。

 内容的には、「現代中国がいかに古代中国から次第に形成されてきたか」を、「世界観」、「国境」、「歴史」、「周辺」といった概念から説明しようとしている。具体的な論点は、@「古代中国の『天下観』がいかに現代中国の『世界観』に転化したか」、A「伝統的な中国の『領域』がいかに現代中国の『国境』となることができたのか」、B「現在我々が言う『中国文化』とは歴史の中で如何に形成されてきたのか、C「近世以来が、とくに東アジア諸国間の相互信頼関係はいつ消滅し、東アジア諸国はいかに離散していったのか、そして最後に、D「文化衝突と言う角度から見て、中国の伝統的な文化資源は一種の理性的な力となり、国際平和と地域の安定を導くものとなりうるのか」という、それぞれとても興味深い議論である。これらにつき、著者は自国のみならず、欧米や日本の、しかも時間的にも広い範囲に渡る多くの中国論の文献をも参考にしながら議論を進めているが、ここでは上記の各論点につき、簡単に著者の議論と結論を見ていくことにする。

 まず、中国が「文化的に一貫し連続性をもつ中国はかなり早くから確立されていた」として、秦漢から唐に至る時期に、「統一帝国」が形成され、そこで「伝統的天下観念」が形成されたが、それが宋代(10−13世紀)に至り、「多数の国々が存在する国際的環境の中で、今日に至る『中国』という意識が生まれ始め」大きく変化することになる。しかし、そうした環境で、「『至大無外(大きくて外がない)』天下観念と『自己中心』の朝貢体制が継続したこと」が、その後の「『内』と『外』の別を認めるアイデンティティ上のトラブルを今日に至るまで解決できないものとし、またその困難が現代中国の問題ともなっている」としている。

 この「宋代」において「『世界』をようやく完全に認識した」にもかかわらず、中国がその「中華的世界観」を変えることがなかったことにより外部世界と乖離し始めた(「知識と観念の分離」)、という認識は重要である。解説者は、「伝統的な『大至無辺』(広大無辺)な天下観念を抱きながらも、宋代には国境を設け、他国と対等な貿易関係が結ばれるなど、ある意味では時代的には後になって西欧で形成される民族国家的な国家携帯が現れたものの、その後の元朝、清朝の異民族による征服王朝が登場したことによって再び『天下』と『国家』が不分明のまま近代に至った」と説明しているが、それ以外にも著者が日本や韓国の文献を使用し、中華帝国が宋代を持って終焉した、という議論を紹介するなど、この時期を契機とする内外の中国認識の乖離が生まれてきたというのが、著者の基本的視点である。

 次の領域についても、この国家間の変化が影響している分野である。「それぞれの王朝が離合を常としてきた事情から、歴代王朝の中央政府が統治した空間が領域であり、それは常に変化してきた。絶対にどこの地は、『有史以来中国の領土だ』などと簡単に言うべきではない」と、現在の中国政府の立場からは許容されないであろう指摘がいきなり出てくるが、日本や韓国側の主張も含め、歴史的にはこれが客観的な事実であることは間違いないところであろう。しかし近代民族国家が徐々に成立する中で「国境」という概念が成立し、そこでその確定を巡っていろいろな政治的軋轢が発生してきた、というのが「領土問題」の難しいところであり、これについては、著者は「歴史研究と政治的な処理はなんといっても理性的に区別すべき」とコメントすることしかできない。

 歴史的には、著者はやはり宋代から中国と隣国の関係に重大な変化が生じることで、中国の領域についても流動化が進んだと見る。それまでの中国、特に唐代の中国は、「天下」と「その他」という認識で、「その他」は同等の「国家」とは見做していなかった。しかし、宋代に「北方の遼と西北の西夏、後の女真、さらに時代が下るとモンゴル」が、宋や後宋を「『諸国』の中の『一国』」に変えていき、これらの「国」と国境策定の条約が締結されるなど、「多元的国際システム」が形成されたと見なせる事実も確認されている(1005年の宋と遼の国境策定・相互不可侵の盟約)。しかし、こうして「明確な国境とはっきりした自己同一性を持つ単一民族の漢民族国家へ向かっていた大きな方向性」は、その後モンゴル族の元と満州族の清という異民族の支配を受けると共に、それらが更なる領土拡張と多様な民族の支配を目指したことが、中国の「民族国家」への転換を「相当に曲折したもの」にしてしまった、というのが著者の主張である。

 「中国文化」が歴史過程で複数の外部の影響を受けた、という指摘は、それ自体は当然である。その上で、著者は「漢民族文化が中国文化の主流であり核心」であるとしてその特徴を以下のように整理している。それは@漢字文化とそれを用いた思考、A日常生活と政治生活の方法への儒教的伝統の影響、B「三教(儒仏道)合一」の信仰世界、そしてC宇宙理解の「天人合一」思想、陰陽五行説とそれをもとに発展した知識・観念・技術である。但し、漢・唐代以降、周辺部との交易拡大により、中国は多様な異文化を受け入れていく。そしてそれが変質したのが、やはり宋代であり、この時代には「漢民族中国文化の伝統思潮の防衛」が明確に意識されるが、それが再び元・清の異民族支配により挫折することになったとされている。ここで著者が重視しているのは、宗教の役割で、欧州世界ではキリスト教文化が世俗権力の変転を超えた文化的同一性を形成してきたが、中国の場合は宗教が世俗権力を超えることがなかったために、支配者の変更により、基底にある文化も、その都度大きな変貌を余儀なくされたという点である。もちろん欧州のキリスト教文化自体も多様であるのは言うまでもないが、例えば同じ共産主義国家であったソ連と共産中国では、宗教に対する姿勢に大きな差があったのは、こうした中国の文化から理解できる。

 4つ目の論点である、「近世以降の東アジア諸国間の相互信頼関係の消滅」については、特に17世紀の清帝国の最盛期に、既に日本や朝鮮で「中華帝国」に対する意識が変貌していたことを説明している。その時代を契機に、それまであった日本や朝鮮を含む「文化共同体」意識が崩壊したことが現代のこの地域の緊張の源流であるとして、今後この地域の信頼関係を維持・促進させるためには、この17世紀以降の歴史を研究し、「文化的なアイデンティティの基礎」を探求することが必要であると主張している。

 最後の「中国文化は、文化衝突をもたらすか」という論点については、著者は、中国では「伝統中国の『天下』は極めて長きにわたってほぼアジアの中部、東部だけにあった」として、それが拡張主義的な意味で他の文化圏と衝突をもたらすことはない、としている。しかし、その「アジアの中部、東部」に限定した拡張路線が、地域の緊張を高め、その結果世界秩序の不安定化をもたらす可能性があるのが現在の状況である。もちろん、それはハンチンソンの言うところでの「文明の衝突」ではなく、あくまで大きな意味での同一文化圏の中での政治的覇権争いである。その意味で、同じ「好戦的一神教」であるキリスト教徒イスラム教の文化(=宗教)衝突とは、明らかに次元を異にしているというのが私の考えである。

 こうして見てくると、明らかに著者は、元と清という異民族による中国支配を、中国史の転換点と見ており、これが現代中国の歴史的・文化的一貫性を断絶させ、現代中国の諸々の問題を引き起こすことになったという基本的認識を持っていることが分かる。もちろん著者は歴史学者として、その支配が悪かった、といった価値判断を下している訳ではないが、ただそうした認識は、現代中国のナショナリズムの中で「漢民族優越論」として政治的に悪用されるリスクがない、とは言えない。そもそも中国文化というのは、日本文化と同様にそれなりに「柔軟性」を持っていたのではないか、そしてそれはある意味、仏教等のアジア宗教がもたらした肯定的な文化的基礎であったのではないかと私自身は考えている。その意味で、私にとっては元や清という(漢民族ではないという意味での)異民族支配の下で中国が受けた試練は、それなりに中国文化の多様性を深めることになったのではないかと考えている。著者が指摘する中国史の中でのこうした歴史の断絶という、ある意味客観的で冷静な認識が、今後のこの地域の政治・経済・社会にどのような影響を及ぼすか。我々はこうした観点も踏まえて、今後の中国と日本を含む東アジアの将来像を模索していかねばならないだろう。

読了:2014年2月25日