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アジア読書日記
中国
現代中国の政治
著者:唐 亮 
 1963年生まれ、中国江南地域出身の中国人政治学者による現代中国の政治システムの分析である。留学を機会に1987年から日本で研究活動を続けているということであるが、既にまとまった日本語の著作を出版しているだけあり、本書も読み易い日本語によって書かれている。「開発独裁」とそのゆくえ、という副題のとおり、現在の中国を「開発独裁」の一形態として認識し、現在の支配構造とその問題点を指摘すると共に、この権威主義的国家の民主化は将来的に不可避であるが、それがいかなる条件の下で、いかなる過程を経て実現するかについて様々な思考実験をしている。

 「開発独裁」理論、特にアジア諸国に関わるそれについては、以前に岩崎育夫らによる理論的な分析を読んだ(別掲「アジア政治とは何か」参照)が、著者はそれに加え欧米の一般の政治理論書も参考に、現代中国の分析を進めている。読み始めた時は、冒頭の現代中国の政治制度の記載がやや「教科書的だ」という印象があり、やや退屈であったが、読み進めるに従い、一般の日本人学者が外部からこの国を観察したような冷静な視点と、それにも拘わらず、国を離れた人間が祖国を見る時に抱くある種の焦燥に満ちた情熱を感じることになった。こうした中国人学者が育ちつつあるということは、間違いなく著者が主張しているような中国の今後の変化を感じさせる。

 著者は、あらゆる側面で、建国から毛沢東の死去までと、それ以降の開発解放時代の二つの時代を対比しながら議論を進めている。前者は、「イデオロギー型、階級政党としての」共産党独裁が貫徹したが経済的には破綻した時代(「経済運営の失敗と権力闘争の悪循環」)であり、後者は急速な経済成長に伴い政治・経済・社会のあらゆる局面で漸進的な自由化が進められ、共産党も「プラグマティズム型、国民政党への脱皮」してきた「開発独裁」の時代(「発展指向型のメンタリティと結果重視のプラグマティズム」の時代)とする。しかし後者もあくまで一党独裁の下での「開発独裁」で、民主化という側面では、特に欧米先進国との比較においては全く不十分で依然生成過程である。その上で著者は、この国の今後の方向性を、どのように見ているのか?

 中国は「社会主義モデルから開発独裁への転換を行ってから、急速かつ持続的な経済成長を保ってきただけでなく、政治的自由や権利も穏やかではあるが、拡大させてきた。」しかし「最大の問題点はやはり普遍的な理念の欠如であろう。」というのが著者の基本的な見方である。言うまでもなく、現在の中国を含めて「開発独裁」は、「開発=経済成長」が維持・発展されることが政権の最大の正統性となる。それが低迷すると、往々にして「開発=経済成長」を理由に抑圧している政治的民主主義への要求が高まることになる。また経済成長が進めば進むで、「開発独裁路線は変容を遂げ、理念や制度的仕組みが欧米型の政治経済体制へと接近していく可能性が高い。」著者は基本的には中国もその過程を辿るであろうと考えている。但し、中国でそれがいつ、どのような過程を経て進むかは、現在政権が強調している、「愛国主義という対外ナショナリズム」(反日イデオロギーは言うまでもなく、この主要なカードである)や、「調和社会」という理念の下での「社会政策の強化による経済成長と社会発展、効率と平等との両立」という政策が、経済面での問題をいかに補っていけるかによる。

 この議論のため、著者は詳細に共産中国の政治制度と、1980年代以降のその変化を説明しているが、これについては、政府が「徐々にではあるが規制型、統制型、開発型から開放型、参加型、サービス型へと改革を進めている」が、「共産党は開発独裁路線を維持しようとし、欧米型民主主義や三権分立の導入を頑なに拒否している」ことを確認しておけば十分である。そしてその経済成長優先の時代がもたらした「経済格差の拡大」、「都市労働者の地位低下」、「農民に対する不当な差別」、「(土地の強制収容なども含めた)エリートの特権と腐敗」、「環境汚染」といった問題点と、それに対する市民社会側からの批判としての集団抗議活動(「維権(権利保護)」活動、という言葉は注目される)の高まり、そして新興メディアやネット社会の拡大による市民社会内での情報共有といった変化を説明しているが、これらは多くの中国論者が指摘している論点でさほど新鮮味はない。しかし、ここで著者は経済成長がもたらした新たな政治・社会的問題に対して、政府側もそれなりの対応をとってきたとして、それを紹介しているのが、ここでのポイントである。

 例えば頻発する、時として暴力化することもある集団抗議活動に対し、「弾圧コストの増大」という観点から、中央政府から地方政府へ「暴力行使の抑制(慎用警力)」が指示されているという。また政府が、一方で民衆の経済的な要求には譲歩しつつ、政治的要求は頑なに拒否してきたものの、「政府がまとまった村民の力を前に(政治的)要求を認めざるを得なかった」2011年の「烏坎(広東省の村)事件」といった例も出てきているとする。この紛争解決モデルが、「これからの集団抗議活動のすべてに適用される保証はない」と断りながらも、著者がこうしたケースを今後の中国社会の変化への契機として捉えているのは明らかである。

 また「調和社会を目指す社会政策」として、江沢民政権時代には、「経済格差是正のための西部大開発」、「地方政府による勝手な負担金・雑費の徴収制限」、「都市部での最低生活保障制度」等が導入された他、胡錦濤政権以降は、「開発一辺倒路線」の修正=「分配制度の抜本的な見直し」、「社会保障制度の整備」、「弱者支援」等による格差是正の動きが一層活発化しているとする。具体的には「社会主義新農村の建設」という看板での様々な農村支援、年金・医療保険や義務教育補助の拡充や低所得者層への住宅支援強化といったミニマム公共サービスの引上げ、あるいは労使間の団体交渉の導入や個人所得税法改正による高額所得者に対する課税強化や最低賃金の引上げなどである。著者は、こうした具体的改革がいろいろな困難に直面していることを認識しつつも、利益の多様化が進む中で、こうした諸策を通じ、新たな利害調整の枠組みを確立することが、中国の今後によってきわめて重要であるとしている。

 続いて著者は、改めて中国での「民主化」の展望について議論を進める。まず政治改革に関する中国政府の認識とそれに対する外部の認識のギャップの分析であるが、これは単純に、「民主主義」の概念についての共産党の認識と、西欧民主主義の認識のギャップについての解説である。その上で、著者は共産党政権がが、「政治改革の遅れが原因となり、経済や社会の発展は停滞に陥り、政治的閉塞感が生じる時、大胆な政治改革や民主化を求める声が強く出てくる」というリスクを取りながら、「斬新的で保守的な政治改革」を目指していると考える。こうした政治改革の例として、「村民委員会逝去制度改革」、「党内選挙制度改革」、「腐敗防止も念頭に置いた情報公開条例の制定」、「メディアの商業化運営と報道改革」等が挙げられているが、いずれにしろ著者もこの過程は、内外環境の変化を受け、ダイナミックな変化を余儀なくされるとして、その意味で民主化の道は「長い紆余曲折のプロセスとなろう」としている。

 そして最後は、その上からの改革を促す、市民社会側からの動きについての分析である。ここでは、市民社会の拡大による政治的自由を要求する圧力が高まるという現象(「人権弁護士と公益訴訟」、「NGOの活発化」、「知識人の独立性の向上」等)と、経済成長により、その中核である中間層の保守化、あるいは政治アパシーの拡大が進むという一般的現象(シンガポールの例等)が説明されている。これは、前述した岩崎育夫らによる、東南アジアの「開発独裁型権威主義体制」の一般理論の復習である。その上で、現在の中国を「民主化運動の低潮期」と位置付け、前述したような、生活に根ざした「維権運動」の持続的な活動と、リベラル知識人や反体制活動家の主導によるネットを通じた自由な言語空間の拡大が、変化の鍵であるとしているが、これも一般的な認識であろう。いずれにしろ、中国の「開発独裁」は、「経済発展最優先の第一段階を通過し、社会政策の強化の第二段階を迎えている。」こうした政府の「一党独裁の維持を最優先する斬新的改革」と、それを待つことのできない市民社会からの動きのダイナミズムが今後の中国政治の方向性を決めていくことは間違いない。その時、著者によると「民主主義の初期条件」さえもまだ不十分である中国の道は、繰り返し語られているとおり簡単ではない。しかし、著者は、「国家と社会との力のバランスが、市民社会に有利な方向でさらなる変化を遂げていくことであろう」という期待を表明し、この著作を締めくくっている。

 既に30年近く、日本で研究生活を送り、日米欧の政治研究や理論書に接してきた著者の議論は、同じ発想に立つ私には非常に分かりやすいものである。他方で、やはり自分の故国である中国に対しては、一方で毛沢東時代に対する批判的な見解はともかく、「開放・改革=開発独裁」以降の流れと、そこでの政府による改革努力についてはそれなりの評価を行うことになる。外からの研究に接し、中国政治の現状について否定的評価をあえて甘受しながらも、それでも、「開放・改革」以降の中国は、与えられた困難な環境の下で、これだけの努力を行ってきたのだ、それは西欧先進諸国の与えられた「初期条件」が不十分な国家の「安定した」成熟化のためには必要不可欠であったのだ、と懸命に主張しているように思える。恐らくは、中国から海外に出ている知識人は、多くが同じ気持ちを抱いているのではないだろうか?そしてそれはある意味、私のような海外暮らしが長い人間が祖国を眺める時と同じ感覚である。それは日本の内外政治に、多くの不満と焦燥を抱きながらも、外人に対しては、「それでも日本は頑張っている」と言わざるを得ない心情と、具体的な論点は異なるものの、全く同じである。その意味で、そうした「国際感覚」が国内の多数の人々の心情や社会運動と結びついた時に、その政治・社会は新たな変革の「昂揚期」を迎えるのであろう。そして日本がそうであるように、中国も、その改革の過程でこの国固有の幾多の困難を乗り越えていかなければならないのである。

読了:2014年3月23日