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アジア読書日記
中国
習近平の権力闘争                   
著者:中澤 克二 
 日経新聞元北京駐在員による習近平を中心とした中国政治の解説本であるが、サイードを読んだ後は、何と簡単に読めるのだろうか。やはり、サイードのような文体は、もはや私の頭は受け付けないことを改めて痛感した。

 それはさておき、やはり最近の習近平の国内での動きは、有能ではあるが凡庸な政治家が、自分よりも圧倒的に優秀なライバルたちを一人一人抹殺して個人独裁を完成させたスターリンの姿を想起させる。もちろん時代が違うので、スターリンのように処刑や収容所といった露骨な国家暴力を介在させることはない。しかし、その手法は、いかにも一党独裁国家の密室内で、まずは人畜無害を装い権力を手にした後、直ちに豹変し政敵を追い詰めていくスターリンさながらのやり方である。当然ながら、一党独裁国家とはいえ、報道とコミュニケーション技術が発達した現代においては、その権力闘争は、先端的な各種広報手段も駆使しながら、政権中枢から一般大衆までの幅広い支持を集めなければならない。スターリンの時代のように、政治的ライバルから一般大衆に至るまで片っ端から銃殺したり、収容所送りにするわけにはいかない。しかし、組織の頂点を目指す党内闘争が、個人による露骨な権力闘争となり、それが場合によっては、社会全体としての個人独裁に連なっていく、というのは、スターリンや毛沢東の時代と異なっている訳ではない。江沢民から胡錦濤に至る時代は、それが極端に表れることがなかっただけに、現在の習近平の政治手法が、やや時代錯誤のように思われるのである。他方で、江沢民や胡錦濤が、その前任者の「院政」の軛から逃れられなかったことを熟知している習近平が、あえて中国の経済力が強まったタイミングで、「中華帝国の復活」を表看板に、自分をその「中興の祖」として歴史に残すためにいっきに大きな賭けに出たとすれば、そうしたリスクを取ることも十分考えられる。著者は、そうした習近平の政治手法を紹介しながら、中国の行方を探ろうとしている。

 現在、習近平は、江沢民や胡錦濤の影響力を排除するため、彼らの息がかかった要人を次から次に失脚させ、それを自分の信頼がおける仲間に入れ替えている最中であるという。薄熙来から最近の周永康、令計画の摘発に至る流れは、すべて江沢民や胡錦濤の影響力を削ぐために、彼らの有力な側近を抹殺しているということである。当然、そうした人間と同時に彼らに連なる多くの関係者も摘発、失職、左遷されることになる。それは、現代中国の歴史の中では、毛沢東による文化大革命、ケ小平による四人組逮捕から開放経済に至る流れに匹敵する大変革であるのかもしれない。しかし、当然のことながら、そうした大変革は、直前の政権を担っていた江沢民や胡錦濤グループからの大きな抵抗がある。習近平の現在の動きは、それを如何に抑えながら、自分の権力を確立していくかという薄氷を踏む歩みなのである。著者が、暗殺に対し極度に怯える習近平の姿から、この本を始めているのも頷けるところである。

 「院政」の影響力排除のために習近平が行った施策の数々が紹介されるが、例えば、2014年12月、江沢民の地盤である江蘇州鎮江を訪れ、そこで「4つの全面」なる新たな指導原理を発表すると共に、「鎮江大橋」の建設を発表したのは、周の摘発前に、江沢民の地盤に入り、彼の導入した政治原理である「3つの代表」を反故にすると共に、「江を鎮める」というメッセージを国民に送ったものとされる。他方、こうした習の動きに江も、一族郎党を引き連れ海南島に現れ、この地に伝わる「東山再起」を想起させる「院宣」を公表したが、習側は直ちにこれに関する報道やコメントを規制したという。いずれも、中国人の発想を念頭に置いた「当てつけ」という解釈も可能であり、深読みかもしれないが中々面白い「中国的」権力闘争の分析である。また私の業務に関係する事項としては、江のこの示威行動の直後(2015年1月)に、中国科学院上海分院の院長を務めていた彼の長男が、年齢を理由にその職を解かれているという(ただこの江の息子については、後で、「11年に中国科学院副院長から退いたあと、上海科技大学の校長に就き、上海の科学会を仕切ってきた」とある。そして2014年5月、習の上海での医療機器会社視察で、習にへりくだって案内をしていたようで、これは習が、江一族に国産CTスキャン製造という飴を与え、彼ら一族の利権を確保させた行為と説明されている。しかし、その後彼の政治的な地位は奪った、ということだろうか?)。

 習近平が独裁確立のために使っているのは、「反腐敗闘争」であるが、これは言うまでもなく、一般論として党官僚との格差拡大に怨嗟を抱く大衆の支持を得ると共に、恣意的に政敵を摘発することができる便利な手段である。こうして石油閥を後ろ盾に、公安を一手に握る党政治局常務委員という最高指導者の一人にのしあがった周永康の逮捕と有罪判決、2012年の「ファラーリ政局」から続いた習との抗争の結果としての胡錦濤側近である令計画の失脚、そして「フェラーリ政局」と同時期の薄熙来の逮捕等が詳述される。習と薄の父親の代からの因縁も、既に知られているとおりであるが、この辺りはまさに中国の党官僚の狭い社会の中での人間関係で政治が動いていく中国政治の実態をあからさまに物語っている。
 
 著者は、習への権力集中が進んでいることを、共産党内の「小組」を使った、胡錦濤の直系である李克強の骨抜き、メディアによる習への個人崇拝的動き、清朝の乾隆帝の故事(「都一処」)に習った質素倹約の誇示等々で説明していくが、それが同時に習の焦りのなせる行動であることも指摘している。習の権力闘争は、もはやそれを止めることはできない地点に来ている、ということは、まだそれに対する大きな反動もありえるということである。

 習の反腐敗闘争を陣頭指揮しているのは、党中央規律検査委員会トップの王岐山であるが、彼は習の下放時代の盟友で、それ以外の要職も圧倒的に「幼なじみ」で固めつつあるという。また宮廷内での政敵抹殺と並行し、社会の言論統制も強めている様子が描かれているが、2013年1月の広東の週刊誌「南方週末」の記事差し替え事件や、「7つの禁句(七不講)」―「普遍的な価値観」、「報道の自由」、「公民社会」、「公民権利」、「共産党の歴史的誤り」、「特権資産階級」、「司法の独立」ー、天安門を象徴する「69」のネット等での禁止、人権派弁護士の弾圧、四川省での地震等、災害被害者の実名公表の禁止等々、枚挙にいとまがない。このあたりは、最近の習の英国訪問に象徴的に現れているように、彼が経済的利益をちらつかせることで、国際社会での人権面での圧力を回避できるという自信を強めていることの結果であろう。また習が、ある意味「硬骨漢」であった父を反面教師として、権力獲得までは「自分を押し殺して這い上がる」人生哲学を実践している、というのは、意識的かどうかはともかく、前述のとおり、スターリンなどのやり方を髣髴とさせる。「習は慎重な男」という誤解が、江沢民や、現在次の「大虎」として標的になっているとされる曽慶紅などが、彼を油断して引き上げた大きな理由であったという。

 外交面での「韜光養晦」政策からの転換、「牛の舌」と呼ばれる南シナ海の「内海化」=利権確保のための「砂の万里の長城」の建築、「自ら衝突は引き起こさないが、衝突を恐れない」(=挑発作戦)、東シナ海の防空識別権の設定等々、拡張主義的傾向は明らかであるが、問題は、外交政策を含めた今や中国の政治決定が、集団討論ではなく、「習が一人で決めている」ため、予測が困難になっているという点にある。ただ東側は、再びアジアへのコミットを明確にした米国の圧力がある(これを書いている最中の10月27日、米国は、中国が領有権を主張している人工島の12カイリ以内で駆逐艦を航行させ、この地域が公海であることをアピールした。但し翌日、同様にベトナムや台湾が領有権を出張する岩礁の12カイリ以内も航行し、これが中国だけを対象にしたものではない、ということで、中国にも配慮している。)ことから、まずは新シルクロード構想(一帯一路)とアジアインフラ銀行で西方を固め、それから再び当方に打って出る、という、かつてのナチスの戦争政策を想起させる戦略に傾いているという。香港の学生による抗議も、こうした大戦略の中では、最終的に圧殺されるべき小さな騒乱に過ぎない。

 こうした中での日本との関係。2012年9月、山東省青島でのパナソニック工場襲撃が、日中蜜月時代の終焉を物語るという指摘は、日中関係の大きな転換点として留意しておく必要があろう。江沢民の父親が日本軍部に協力したことから、彼がいっそう反日を掲げざるを得なかったというコメントは、韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の行動を連想させる。「日本と中国は過去2000年の交流史上、対等に付き合った経験を欠く」ことから、現在の対等な「不慣れな関係」に両国が慣れておらず、それが軋轢をもたらしている、という。しかし、それにも関わらず、現在習が、戦後70年安部談話も一定程度評価し、日中関係改善を模索しているという観測(10月28日、11月初めに、ソウルで、日中韓首脳会議が開催されることが発表され、その際、安部首相と李首相の2者会談も行う方向で調整中とのことである。李首相がどれほどの当事者能力を持っているかは、この本の主張を勘案するとやや疑問ではあるが・・。)も紹介されている。それを踏まえた日本の対応は?そして、最後に、習の後継を担う群像と、彼らを自ら選別しようとする習の姿勢を解説して、著者はこの本を締めくくっている。

 中国が、現在のアジアの政治、経済秩序に大きな不確定性を与えていることは言うまでもない。それは、今までの歴史で度々起こってきたように、まずは国内要因から発生した混乱が、国際関係における緊張をもたらすという事例の、新たなひとつとなる可能性がある。習の権力掌握が強力になれば、その意思決定は益々不透明になり、且つより拡張主義的なものとなるであろうことは、容易に予想される。他方、習の権力基盤が弱体化し、新たな権力抗争が発生した場合は、それはそれで対外的にも緊張を高める結果になるのであろう。いずれにしろ、中国がかつてのように、日本の経済力を期待して融和姿勢を示してくる可能性は限りなく小さいと考えるべきであろう。そう考えると、やはり米国の傘の下で安全保障を考えざるを得ず、安部政権の新たな安全保障法制の枠組みも、米国の支援を確保するために必要であるという結論になってしまう。また日本が連携を強めるべき東南アジア諸国も、当然中国からの恩恵を受けており、単純に中国の拡張政策に反対するだけではない。こうした状況で、現実政治のパワーバランスが最終的にどのように動くかは、ひとえに習の権力闘争の今後の帰趨にかかっているといってもやぶさかではない。冷静に中国政治の展開を見つめながら、単純な中国脅威論でもなく、また単純な理想論でもないアジアでの立ち位置を模索するのは簡単ではないことを、改めて痛感させられたのである。

読了:2015年10月24日