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中国
習近平の闘い                     
著者:富坂総聰 
 先日、日経新聞記者による、権力闘争に焦点を当てた習近平の動きと中国政治の分析を読んだばかりであるが、これも同種の議論である。しかし、決定的に異なるのは、こちらの作品は、習近平の政策を、民衆の支持を背景に、危機にある中国社会を改革しようという強い意志に基づくものと積極的に評価している点である。著者は、彼の権力闘争を、必ずしも個人的な野心に基づくものではなく、むしろ過去20年にわたり溜まってきた政治的、社会的なツケを何とか清算しようという、中国の将来に向けた戦いである、と位置つけている。それを説明するために、北京大学留学時代からの人脈を利用したルポと、ウエッブを含めたローカル・メディアの中国語情報を駆使するという手法を取っている。

 著者によると、習近平が引継いだ中国は、「官僚の腐敗が進み、経済格差が進み、国民の不満が渦巻く」「瀕死(=亡党亡国)の状態」にあった。これは、ケ小平による開放改革路線の宿命であったが、彼を引き継いだ江沢民、胡錦濤が、経済成長の負の側面を放置した結果であった。それはその2人の指導者が、その前任の権力を払拭できなかったことから思い切った改革を進めることができなかったことによる。しかし習近平は、前任者が意図したかどうかは別にして、白紙の状態で権力を継承することができたことから、そのメリットを最大限利用し、今や時間との戦いとなっている過去からの負の遺産の清算にいっきに走り出している、というのが、この本での著者の基本的な観点である。

 ルポは、まず「反腐敗キャンペーンと贅沢禁止令」の最中、それを逃れるために官僚たちが開発した、「人目につかない隠れ家レストラン」のルポから始まる。王岐山率いる党中央規律検査委員会(中規委)による摘発が、本格的に始まったのは、2013年の春節時期であったという。この宴会時期をターゲットとした大規模な摘発で、腐敗官僚たちは、今回の摘発が決して以前のような形だけのものではないことに気がつき、この戦いが新たな局面に入ったと見る。その戦いを報告する際には、「上に政策あれば、下に対策あり」、「習近平vs官僚の攻防の最前線」という、印象的なキャッチフレーズが使われおり、著者の雑誌記者としてのセンスが感じられる。

 習近平は、更にそれまではタブーだった軍部の汚職にも踏み込んでいく。同じ時期、軍が全国各地で関わっていた会員制レストランやナイトクラブが次々に閉鎖されていったという。そしてその結果、高級レストランのみならず、高級酒、高級たばこ、高級ブランド品など、贈賄に使われていた品物の需要も急速に落ち込んでいった。こうした習近平の粛清に対し、当初は官僚のみならず、民衆からも、むしろ景気対策に力を使え、という批判があったものの、その後周永康といった大物が摘発されるに至り、民衆からの支持が広がり、官僚側からの牽制が力を失っていったとされている。官僚側からは、経済政策の司令塔である中国国家発展改革員会を使い、「地域振興券」の配布という経済対策を提言することで、習近平の「やり過ぎ」を柔らかに批判するという反撃もあったが、習近平側からは、「経済を人質に反腐敗キャンペーンを止めさせようとしてもムダだ」という明確なメッセージを返したという。言わば、「経済対策より民衆対策」というのが、習近平の「確信犯」的な政策であった。そしてそれは1992年にケ小平が行った「南巡講話」以降、「後戻り」ができないと考えられてきた経済成長路線の修正である、というのが、著者の見方である。その政策は開始から約3年を経過し、官僚の中だけでなく、例えば国境管理の公務員の怠慢を許さないという感覚として、市民の中にも浸透しているという。

 習近平に対する民衆の支持を決定的にしたのが、周永康を筆頭とする「大トラ三頭」の逮捕であった、としてこの経緯を説明している。このあたりは、直前に読んだ日経記者の説明とも重複するが 今回新たに認識したのは、周永康が、元テレビの美人キャスターである自分の妻の妹を国営石油企業のカナダ拠点の責任者にした(金の受け皿!)ことと、周永康の息子と、その後摘発される薄熙来の間で数千億円の金が流れており、その息子はシンガポールで拘束された後召還され、そこで多くの自供を行ったということ。これらが周永康や薄熙来に対する習近平の勝利を決定付けたとしている。

 この「石油ルート」に加え、周永康の「暴力装置」と目された四川省のブラック企業(摘発の過程で大量の武器庫まで発見された!)を率いる劉漢という男の摘発、処刑(2015年2月)も説明されているが、この辺りは、まさに周永康や薄熙来の摘発を正当化するために当局が誇大に宣伝していると考えられなくはないが、他方で全くのでっち上げでもないとすると、中国の政権内での腐敗の根深さを象徴していると言える。因みに著者は、江沢民派(上海閥)、共産主義者青年団(共青団閥)、政界二世集団(太子党)の三つ巴という形で中国の権力闘争を色分けすることを批判しているが、実際にはそれらが複雑な形で絡み合っているというのは当然のことである。このような便宜的な説明というのは、こうした類の分析ではよくある単純化と考えるべきであろう。

 周永康に続いて習近平が撃ち落とした二人の「老虎」は、令計画と徐才厚であるが、この経緯も日経記者の本で詳述されているので、ここでは省略するが、特に胡錦濤の子飼いであった令計画の息子の事故は民衆のルサンチマンを掻き立て政治利用するのに格好の事件であったことは言うまでもない。また後者の失脚後、軍部人事の大幅な若返りが実施されると共に、軍への会計検査の実施などを通じて党の監視が強化されていることも重要な変化である。これは前述のとおり、胡錦濤からの権力掌握に際して、習近平が軍トップも直ちに継承したことで、一気呵成の改革が進められたことの例とされている。胡錦濤がこうした政権移譲を意図的に行ったとすれば、それにより自分の息のかかった人脈が受ける不利益にも拘わらず国家の救済を優先した英断と見做されるだろう。またこうした「トラ」のみならず、海外に逃亡した「キツネ」と称される官僚や、組織に巣食って予算を私物化する「ドブネズミ」の摘発も続いており、政府公式発表によると、2013年に処分された党員がこうした者たちを含め計18万人に及ぶ(500人/1日)というのも、著者によれば習近平の本気度を示している。更に2015年2月には、こうした摘発の総括として、規律強化や年金引下げ等を中心とする国有企業改革が公に宣言されているという。

 こうした習近平の矢継ぎ早の改革の背景としての「格差社会」と「報復社会」という社会現象につき著者は一章を割いているが、これは中国の経済発展を支えた「安価な労働力」を提供した一般民衆と、それを利用して肥え太った党官僚の格差が今や「亡国亡党」の危機をもたらしているということである。江沢民から胡錦濤に至る20年は、これを認識しながらも抜本的な策を講じることができなかった。更に経済発展で「食の安全」、「水の安全」、「空気の安全」を失い、更には怨嗟による犯罪の増加という形で「街の安全」まで失ってしまった、という。もちろん例えば最後の「街の安全」については、日本でも時折発生する通り魔事件などで、同じ様な「怨嗟」に基づく無差別殺傷といった「報復」が行われるという事件が発生しているが、中国は、航空機爆弾予告や、公共交通の中での犯罪などの頻度が増しており、その結果多くの人々が不安心理に駆られ、デマに動かされやすくなっているという。また環境問題では、河川の汚染に怒った市民の圧力を受け、浙江省の官僚たちが川で泳ぐパフォーマンスを行わざるを得なかったといった話しが紹介されているが、これは2011年の高速鉄道事故以来高まっている、ネットを通じた民意の発動の事例として説明されている。一方で民主化といった言論はネットを含めさらに厳しくなっていることが後に説明されているが、こうした民衆の官僚に対するルサンチマンを掻き立てる言論は、民衆に溜まった不満のガス抜きであると共に、習近平政権の「腐敗官僚摘発」という権力闘争手段として使えることから、政府もある程度認めてるのだろう。著者も、大気汚染問題をはじめとする環境破壊問題が、「経済、安全保障、政治のそれぞれの視点で足かせが嵌められ、なんら有効な手段を打つことができない」ために、官僚の川泳ぎといった「パフォーマンスで誤魔化さざるを得なかった」と、これが問題の抜本的な解決ではないことを認めている。そして「これは、格差という最も重い課題に正面から答えることのできない政権が、反腐敗キャンペーンを展開することで不満を抑えようとする姿に酷似している」としている。その他、ネットを通じた様々な民衆からの告発事件が紹介されているが、このあたりは、タブロイド新聞を読んでいるような感じで面白いが、深みはない。

 こうした不満を最終的に吸収するために習近平が繰り出したのが「左傾化」あるいは「先祖がえり」である。「左の象徴としての毛沢東と改革開放の象徴であるケ小平をうまく使い分けながら、まず先に大衆の支持を取りつける」という点で、彼は「非凡」であった、と見る。またこの政権の対外姿勢が強硬であるのも、「貧困や不満は、常に対外強行と親和性が高く、この点においても習近平の狙いははっきりしている」としている。そして結論的にいうと、著者は習近平を、「瀕死の中国社会を再建する救世主」であり、現在までのところ、それに成功している、と評価するのである。

 先に読んだ「習近平の権力闘争」の評で、私は習近平の政権掌握とその後の権力固めの手法を「スターリン的」と書いた。平凡な政治家が、周囲の安心感から指導者に祭り上げられるが、その権力を手にするや否や豹変し、その無情なまでのリアリズムで政敵を抹殺していく。時代は異なるが、習近平の今までの経歴に見られるのは、基本的にそうした特徴である。もちろん主観的には自らの権力志向の反映なのかもしれないが、一定の時代環境の中では、それがより客観的な国家意思と合致していくこともある。スターリンの権力掌握は、革命直後は西欧列強の干渉、そしてその後はナチスとの対峙という危機の時代のひとつの帰結であった。そして現代の習近平は、13億人の人口を食わせるための「改革開放政策」で決定的となった「格差」を是正することで、彼個人の権力志向が、時代の雰囲気に適合した、ということになる。しかし、それが薄氷の上を進む道であることは間違いない。「打黒」や「左傾化」は、彼が失脚させた薄熙来が繰り出した手法であったが、それを繰り出すには時期早々で、逆に目立ちすぎたことから、時の政権幹部から危険視されることになった。その同じ政策を習近平は、権力を掌握してから開始しているだけなのである。確かに、それは現在のところは何とか成功している。しかし、著者も認めているとおり、中国社会の混迷は危機的であり、習近平がそれを解決できるかどうかはまだ不透明である。そしてその過程で何か事が起これば、習近平への求心力が急変し、政策の揺り戻しが起こる可能性がないとはまったく言い切れない。その意味で現在の習近平路線は、「ハイリスク」の方向に舵をきっていることは間違いない。「亡党亡国」を回避できる能力を彼は持っているのか?その帰趨が日本や東南アジアにも大きな影響を及ぼすことは間違いないことから、彼の動きには引続き注目していく必要があろう。

読了:2015年11月20日