香港ー中国と向き合う自由都市
著者:倉田 徹 他
1996年に英国から中国に返還され、「一国二制度」の下で新たな歩みを始めた香港。しかし、英国と中国の間の返還条約(基本法)で認められたこの体制も、この効力が切れる2046年(あと30年!)以降はどうなるか不透明である。そうした中、一昨年(2014年)には、行政長官の「ニセ普通選挙」導入を巡り「雨傘運動」という大規模な大衆・学生運動が勃発したが、それのみならず、大陸では未だにタブーとなっている天安門事件での犠牲者追悼の大規模集会等の「反政府活動」も依然行われている。こうした香港独特の政治・文化はどのように生まれたのか、そして今後中国の影響力が強くなる中、どのように変貌していくのか。この新書は、同じ英国植民地から発展した「自由都市」としてシンガポールと比較されるこの都市の総体としての分析で、日本人研究者と香港人研究者による共著である。
言うまでもなく、香港を理解する鍵は「自由」、または「自由都市」である。対比されるシンガポールは、例えば経済的には一見「自由」であったが、それは植民地時代も独立後も、権力者が強力に管理した上での自由であり、そして政治的には、言論も含め常に厳しい統制が行われてきたのに対し、香港は歴史を通じて「自由」を享受してきたと言える。それは英国植民地時代は、香港の人々にとっての「自由」は、「干渉されない自由」、あるいは「消極的な自由」であった。そもそも香港に移り住んだ人々は、そこが「自分の国」であるという意識が希薄であったことから、政治的な関心はなく、経済的な自由(=「積極的不干渉主義」)さえ認められていれば十分であった。そして植民地総督も、また返還後の北京政府もしばらくの間は、その経済活動における戦略的な役割故に、それを暗黙に認めてきた。しかし、返還後時間が経過するにつれ、この町は、より「中国化」しているように思われる。そうした中、一昨年の「雨傘」運動が示したように、総督に代わる最高権力者である行政長官の選挙制度改定にあたり、中央政府があからさまな干渉を行う場合は、通常時は眠っている政治意識を覚醒させることになる。そしてそれは初めてのことではなかった。しかし他方で、最近の反体制出版社や書店の関係者が本国に拉致され取り調べを受けるなど、本国からの圧力も次第に強まっている。香港人の政治意識、あるいはもっと広義に見ると社会意識は、どのように形成され、そしてどのように変貌してきたのであろうか?そして現在は「中華人民共和国の特別行政区」に過ぎない香港は、これからどのように「中国と向きあう」ことができるのか?
著者は、まずこの「特別行政区」の現在の制度を整理しているのが「香港特別行政区基本法」で、これは1990年4月に中国全国人民代表大会で採択されるという、純粋に共産党政権が制定した法である。しかし、その起草の過程では「香港市民からも委員が招かれていたし、イギリス政府も影で起草に関与していた」。そうして制定されたこの「ミニ憲法」では、通貨とパスポート発行権といった「通常は国家が持つ様々な権限が与えられ」、また政治的にも「高度の自治」権が与えられているが、行政長官や立法会といった行政・議会システムは大陸とは全く別の制度枠国となっている。特にローカル政党が存在し、その中には反抗的な民主派の政党も存在しているのが、大陸との決定的な違いである。更に、産業構造や就学率、家族構成等で、香港は本土と比較し「はるかに先進国型・都市型」であることも、「人々の意識の面においても、香港を中国に国家統合・国民統合する際の妨げになる」ということになる。
しかし、それにも拘わらず、「中国の一地方としての香港」という性格が、近年はより強くなっている。元々外交権や軍事権は中央政府の管轄となっており、香港には独自の活動は認められていない。また行政長官を含む主要な政府の人事権も中央にあり、特に行政長官については「香港で選挙され、中央政府が任命する」ことから、双方の判断に対立が生じた場合は政治危機を招くということは、「香港の民主化問題の本質的な矛盾の源」であるという。更により決定的なのは、「基本法」の解釈権と改正権も中央政府にあり、「民主化を発動する権限」も、最終的には中央の胸先三寸で決まるという点で、これが決定的な局面で香港の「自由」を制約することになる。
現在の香港の「自由」を醸成してきた英国統治下の香港の歴史が語られるが、これは基本的には総督の独裁であり、「行政評議会」と呼ばれた地元有力者が参加する「閣議」的な機関もあったが、これもあくまで「総督の諮問機関」であり、総督はこの意見を無視することは可能であった。そして「民主化」という点でも、戦後何度か契機はあったが、結局英国や中国のみならず、地元有力者の反対もあり、その都度挫折したという。また1967年の香港暴動など、激しい紛争や反植民地主義運動も時折発生したが、総督府は首謀者の「追放」も含めた厳罰主義で乗り切ってきた。その中には、本国の「スパイ」として、周恩来の爆殺を阻止した功績で、1962年の追放後も本土の大学教授を務め、2014年の逝去時には習近平から弔電まで寄せられた曽昭科といった人物もいるという。最終的に、本土への返還が近くなってから英国は香港の「民主化」に着手した―特に最後の総督となったパッテンが精力的に進めたーが、時既に遅く、本土の抵抗もあり、この「脱植民地化」は未完のまま返還を迎えることになる。
政治的自由は制約されているものの、経済活動や社会的な自由は一定程度維持されてきたが、これも総督と地元有力者のバランスの中で生まれた産物であった。移民社会としての香港の性格が、政治的な関心よりも、「生存」権としての経済活動を重視したという側面もあったと著者は指摘している。但し、その経済活動の自由は、シンガポールなどのように、独裁権力が国家政策として整然と遂行したのではなく、夫々が剝き出しの競争の中で勝ち抜かねばならないという過酷なものであった。そのあたりが、例えば私も身近に感じることもある、シンガポール人と香港人の性格的な相違を生み出しているのだろう。
こうした過程を経て迎えた1996年の返還であったが、中央政府と香港政府の関係は「少なくとも表面上は安定」し、危惧された「最悪の事態」は回避されることになる。中央政府は香港への不干渉を維持し、その結果、例えば毎年行われている天安門事件の追悼集会も継続が黙認されるなど、「政治活動に関わる発言や集会の自由は失われなかった。」「報道の自由」や、法輪功のように本土では弾圧されている宗教も含めた「信教の自由」も取りあえず維持された。この本土からの不干渉については、著者は「世界が注目する『一国二制度』を成功させたとして国際社会や台湾にアピール」することを意図したからであると見る。他方で、その影響が本土に及ばないように、引続き国境(疑似国境)管理は継続したという。
しかし、そうした楽観論の背後で、様々な方面で「中国化」の動きが進み始めたが、その基礎を作ったのが、「一国二制度」の制度設計時には想定されていなかった「香港と大陸の経済関係の変化」であった。返還交渉が始まった1980年代は、「香港経済の規模が常に中国経済の10%以上を占め、ピーク時の93年には二割を超えた」が、その後は中国経済が急速に成長したため、2014年には3%をきることになったが、これの変化が「中央政府の香港に対する見方、香港の交渉カードに大きな影響を与えた」という。興味深いのは、アジア経済危機の影響から経済が回復していない2003年、SARSが流行すると共に、香港政府が政治・言論の一部を制限する治安立法を成立させようとしたことで、香港市民の怒りが爆発、「50万人デモ」が勃発した。そしてこれを契機に治安立法の廃案や経済支援などの対策を打ち出したことから、これが「香港の『中国化』が進展する、『真の香港返還』」の契機となったと著者は見ている。そしてこの(大陸から香港への個人旅行の解禁も含めた)「中港融合」政策により香港経済は底を打ってV字型に回復したという。言わば、香港と中央の力関係の転換点となったとの評価である。しかし同時にこうした)「中港融合」政策は、人口増大によるインフラへの圧力や不動産価格急騰、更には大陸人と香港人の感情的対立など、新たな「中港矛盾」の原因にもなったという。
また行政長官の普通選挙を中心とした「民主化」の動きについては、中央政府は基本法の「解釈権」を利用し、引締めを強めることになる。「中港融合」の蜜月時期であった2007年に、いったん2017年の行政長官選挙を公表したが、その後「指名委員会」による選挙という形で、実質的に「民主派」を締め出す法改正を提案する(「8.31決定」)。これが正に2013年の「雨傘運動」(オキュパイ・セントラル)の直接的な原因になり、この運動の結果、この「ニセ普通選挙案」の改正案は否決されるが、同時に「民主的な行政長官選挙」自体もその後宙に浮くことになったのである。こうして著者によると、「イギリスが始めた『デモクラシーの移植』から、『中国的民主』の実践へと換骨奪胎されつつある」ということになる。そしてメディアの自己検閲も含めた中国化も進む一方で、若者を中心に文化的な「中国離れ」も見られることから、一部の民主化勢力の「過激化」も起こるなど、双方の動きがそれぞれ牽制しあう状況になってきているのである。
こうした香港の文化とは何なのか?香港生まれの社会学者である著者の一人が、この問いに対して一章を割いて答えようとしている。ここでも、中国でもあり、中国でもない、香港文化や社会意識の数々が紹介されている。日本人になじみの深い俳優、ジャッキー・チェンは「プライドを捨てて中国共産党に自分を売った」として香港では無視され、ブルース・リーも若者からは忘れられようとしているというのは、面白い話しである。それ以外にも、大陸から逃げてきた「新儒学者」たちの活動とその顛末、あるいは70−80年代の移民たちの実態(「誰も香港を『自分たちの社会』とは認めなかった」)、またそうした中で、戦後生まれのベビーブーマー世代から次第に「香港人としての自己意識」が生まれてきたこと、しかし、その意識は「浅く」、「そのアイデンティティも流動的で曖昧」であること等が語られている。
そして最後にその延長として、2014年の「雨傘運動」が詳細に報告される。ここではその経緯やその社会学的な評価は省略するが、何よりもこの運動が、若い世代を中心とした「香港ナショナリズム」と、勢力を強める「中国ナショナリズム」の対立であったという評価は妥当なものなのだろう。それは、かつては「生き延びれば良い」という移民感情が変化し、それなりに香港を「自分たちの社会」として認識する世代が育ってきたことを物語っている。しかし、この運動も79日間の「市街地占拠」の後、官憲に排除されることで終了した。雨傘の最後のバリケードに書かれた「まだこれからだ」というバナーのとおりに、今後こうした運動が展開するかどうかは、全く予断を許さないというのが実態だろう。更に、既に冒頭で述べたとおり、この新書が出版されて以降、足元では、香港で反体制的な出版物を扱う書店の関係者が次々に失踪し、そのうちの何名からかは、「現在中国本土で捜査に協力している」というメッセージが送られてきている。その中には、この本でも触れられている英国パスポートを保有する香港市民も含まれていることから、英国が重大な返還条約違反であるとして抗議する姿勢を示している。
しかし、何といっても30年後にこの条約の有効期限が切れることを考えると、この「特別行政区」の運命は中央政府に握られていることは間違いのないところである。その時までに、中央政府が、かつて社会主義時代のハンガリーで、民主主義運動の後に進められた「サラミ戦術」を駆使して、少しずつこうした勢力の力を削いでいくであろうと考えるのは自然である。同じ英国の植民地である小さな地域として、シンガポールと同じように成長してきた香港の今後は、そのシンガポールとは大きく異なるのではないかと考えるのは、私だけではないであろう。
読了:2016年2月5日