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アジア読書日記
中国
日本と中国経済
著者:梶谷 懐 
 ここ数か月、眼の調子が悪く、本を読む気に中々なれず、その結果こうした新書を読了するにも結構時間がかかってしまっている。しかし、この日は久し振りに目の調子が良く、半分くらい残っていた部分をいっきに読み進めることになった。1970年生まれ、神戸大学経済学部教授による、日本と中国の経済面での関係を、近代約100年のパースペクティブで論じた作品である。特徴的な点は、両国の経済関係につき、日本の繊維産業が中国大陸に初めて進出した1920年代の状況(在華紡に対するストライキやボイコット)、なかんずくこの時代が、ある意味現代この国に進出している日系企業の状況(2012年の反日デモ・暴動)に類似しており、そこに、この国での労使関係が、ナショナリズムの影響を受け易い、と論じていることであろう。当然、ナショナリズムは、政治的な切り札となることから、その時々の両国の政治関係が、経済関係にも大きく影響することになる。そしてこれも当たり前であるが、夫々の国の経済構造も、両国の関係の変動要因となる。著者は、それらを歴史的な文脈で見て行こうと試みている。以下、その大きな論旨を見てみよう。

 「第一次大戦が終結した1920年代には、日本の紡績企業が低廉な労働力を求めて我先に中国大陸に進出する、今でいう直接投資のラッシュが生じた」という。他方、この時期、中国は辛亥革命を経て近代化の途につくが、依然地方には群雄が割拠する分裂状態が続いていたことから、愛国主義的な主張を掲げて政府批判を行う大衆運動が発生することが多くなる。それが爆発したのが、1915年の日本による「対華二十一カ条要求」を受けた「五・四運動」と、それに前後して発生した日本製品のボイコット運動である。これが近代中国での「日貨排斥」運動の始まりであった。

 しかし、こうした在華紡は、単に中国の民族資本を圧迫したというわけではなく、むしろ「在華紡との競合や技術協力が民族紡の生産性の工場をもたらした」という側面があったことを著者は指摘している。更に日本への留学生が持ち帰った経済技術が国内産業に与えた貢献も多く、「少なくとも、綿業を中心とした軽工業の発展という面に関して言えば、在華紡を含む日本の産業界と勃興期にあった中国の産業界とは、明らかに相互に利益をもたらす」関係であった。

 それにも関わらず1925年には上海の在華紡での事件をきっかけに、大規模なゼネストなどの抗議運動(五・三〇事件)が全国で発生する。これは簡単に言えば、在華紡での労使対立が、そこに浸透している共産党や国民党により組織的に動員された、極めて政治的なものであり、国民のナショナリズム感情を刺激する形で拡大したということである。まさに純粋経済的な闘争ではなく、当初から政治的な意図を持って計画された動きと対峙することが、この時代から、中国に進出した日本企業の宿命であったということである。もちろん、それは例えば東南アジアでの日貨排斥などでも見られるが、歴史的、規模的に、日系企業の圧倒的な存在感のある中国でより顕著な形で示されることになる、と言えよう。またこの時期の労使紛争のきっかけとして、日本的な厳しい労務管理が、現地労働者の反発を招いたことも指摘されているが、これも現代まで続く、文化的不均一性がもたらす労使関係として、企業の海外進出における一般的且つ永遠の課題であろう。労使紛争自体は、中国人経営の所謂「民族紡」でも頻繁に起こっていたが、まさに政治面での日本の中国侵略があったことから、進出企業の労使紛争が「政治化」しやすかった、というのは当然である。

 著者は、またそうした中国での企業活動を通じたこの国に愛する日本人の意識について言及している。そこでは、この時代日本人社会の中に、現在のサラリーマン駐在員のような「会社派」と、自力で中小企業経営などを行う「土着派」の間で意識の捩れがあり、前者のより穏健な対中国意識と比べ、後者はより中国人と社会に対して高圧的であり、その後の日本の中国侵略に同調していった、と述べているが、これはやや図式的な分析である。現在でも同じようなことが言われるが、「会社派」の中にも文化の違いを踏まえたより理性的、人間的な対応のできない者は多いので、このあたりは個人的な資質の問題と捉えたほうが良いだろう。

 第二章「統一に向かう中国を日本はどう理解したか」では、1928年の南京国民政府による全国統一を契機に、中国が「国民国家」、「国民経済」の建設に向かう中で、日本が中国をどう理解し、どう対応していったかを分析しているが、このあたりは、日本による中国侵略の本格化といった政治的な動きが中心に説明されていることから、詳細は省略する。ただこの過程で、「軍部と結びついた満鉄系資本の台頭」が、「在華紡のような対中協調的な中国進出の道を閉ざし」、その後の満州事変以降の「中国全土における日貨排斥運動に一層火がつく」事態を惹起したことは確認しておこう。また少数派ではあるが、この時期、「経済問題に明るいジャーナリスト」であった石橋湛山による「満州放棄論」に基ずく「小日本主義」という議論もあったことも重要である。

 こうして日中両国は全面戦争に突入していく訳であるが、この時期の経済面での分析で面白いのは、主として傀儡政権を介した日本の支配地域での経済政策、なかんずく通貨政策がハイパーインフレをもたらす形で破綻し、他方国民政府は、英米の支援も受けながらその支配地域での通貨価値の維持・防衛に努めた、と分析されている点である。これはその他の政治的支配技術と共に、日本が植民地統治に稚拙だったことを物語っている。しかし、この時期には日本の支配地域に比較して安定した経済政策をとった国民政府も、戦後同様に経済再建や通貨管理に失敗し、毛沢東の共産党政権に取って代わられたのは皮肉である。

 以降は、共産中国と日本の経済関係が議論の中心となる。戦後の日本の外交姿勢については、@対米「協調」、A対米「自主」、B対米「独立」という3つの流れがあり、夫々@が保守本流あるいは「脱亜論」的中国批判、Aが保守系リベラルあるいは実利的日中友好論、Bが左翼系リベラルあるいは「新中国」との連帯論という立場に分類される。そして著者は、中国との関係においても、これらの流れが、日中間の民間貿易を中心とした経済関係の進展の中でどのように現れてきたかを説明している。

 朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた1950年台前半以降、日中の民間貿易が拡大していくが、これは特に1954年の鳩山内閣成立により加速していくことになる。この時期は日中が政府ベースでの国交のない中、Aの対米「自主」路線に近い政策がとられたとしている。しかし、1950年代後半、中国内部での大躍進政策等での混乱と中ソ論争激化、あるいは日中関係における台湾問題や岸内閣の対中強行姿勢もあり、1960年代初頭まで民間貿易も低迷することになる(@対米「協調」的な政策時期)。それが少しずつ回復に向かうのは池田内閣が成立してからで、半官半民の新方式であるLT貿易(寥承志―高碕達之助の頭文字)によるプラント輸出やその際の輸銀融資の供与などが始まったという。佐藤内閣での後退、そして中国文化大革命による混乱は発生するが、この路線は細々と維持されることになる。

 1972年の日中国交回復、そして1978年のケ小平による実権掌握により、「日中貿易の蜜月時代」が訪れるが、それもすぐに悪化の一途を辿っていった。その蜜月時代は、中国が、従来の重工業重視から輸出志向の労働集約型産業重視に舵を切ったことや中国側からの日本との関係改善希望などの要因でもたらされたが、ケ小平の「改革開放政策」が「政経分離」に基づいていたことから、蜜月時代を実務的に担った胡耀邦、趙紫陽といった改革派の指導者が、政治的な要因で失脚したことにより水をさされることになったのである。そしてこの蜜月時代を中心に、日本からの対中ODAは増加し、1980年から2000年までに、累積額にして約3兆円、インドネシアなどと並ぶ日本のODAの1.2位を占めることになったが、1989年の天安門事件以降、これもさすがにまずは一時的に凍結される。当時の大平内閣は「中国を孤立させない」姿勢をとり、ODAも事件から2ヵ月後には再開されることになるが、日本の中国に対する国民感情は、この事件を契機に決定的に悪化し、その後も改善しないままになる。著者は、「日中の良好な関係を支えていた政治的理想主義と経済的現実主義という二つの柱のうち、後者の理想主義的な柱が失われていく、その一つの分岐点が天安門事件であった」としている。そしてそれ以降は、「チャイナ・リスク」、あるいは「中国経済の不確実性」が日本での議論の主流となっていくことになる。

 1990年以降、中国国内における財政・金融改革、国有企業改革、そして国際面では2001年のWTO加盟など、更なる市場化が進む中、日本はプラザ合意以降の急速な円高や欧米との貿易摩擦回避の必要から、日本企業による中国投資が急増するが、「それと並行して日本国内における中国に対する感情は年々悪化」していった。そしてこうした日中間の「感情の摩擦」は、2005年に発生した大規模な反日デモで顕在化することになる。いうまでもなく、この過程では、第二次天安門事件等の対応からの中国での愛国教育の強化や尖閣を巡る外交面での緊張、そしてケ小平亡き後の江沢民から胡錦濤政権(そしてそれは現在の習近平も同様であるが)が、政権の安定のために反日カードを利用したことが、政治面での両国関係の悪化に繋がっていくことになる。そして2012年の、日本政府による尖閣国有化をきっかけとした更に大規模な反日デモ・暴動の全国的な拡大で、日本での「チャイナリスク」議論が大きく盛り上がることになる。

 この「チャイナリスク」は、著者の整理では、以下の3つに整理される。@中国企業と日本企業の多くの産業での競合関係が激化するリスク、A先行き不透明でハードランディングもありうる中国の経済に過剰に依存するリスク、そしてB両国の外交関係での政治的対立が経済関係に影響するリスク。これに対し、著者は、純粋経済構造だけを見れば、日本経済と中国経済は相互補完的であることを説明しており、従って問題は、AとBのリスクということになる。

 Aついて著者がまず指摘しているのは、国有企業や外資系企業と一般の私営企業との賃金格差が拡大しており、これが労使間の対立となり、更にナショナリズムと結びつく、という、かつての在華紡の経験の繰り返しが起こる可能性である。また「影の銀行」や激しい市場参入とそこでの価格競争も、一方では中国経済のダイナミズムを示すと共に、経済全体の先行きの不透明感を高めることになる。他方、今や国際経済に大きなインパクトを持つ中国は、そのマクロ経済運営についてもそうした国際的影響を考慮せざるを得ない状況になっている。「新常態」のもと、AIIBによる資本輸出や「一帯一路」計画等が、国際経済秩序とある程度の協調性を維持しながら、中国経済の安定的な成長に繋がるかは、著者も予断を許さないと見ているようである。

 そして、Bについては、最終章で、中国に進出した日本企業の「永遠」の問題として、改めて、最近のホンダ、ユニクロ、シチズンでの労働争議の例を取り上げている。これらは、例えば他の国であれば「単なる労働争議」に留まる事件であるが、中国の場合は容易に「政治化」してしまうリスクがあるのである。それを考えると、中国に進出する日本企業は、そのリスクを十分踏まえた対応を行う必要があり、それが「チャイナ+1」という、東南アジアへの生産拠点シフトにつながっていると考えられる。同時に、前述のとおり、中国経済がダイナミックに動いていることも確かで、これについては著者は最後に、深圳での「メイカー・ムーブメント」という動きを紹介している。これは個人や小規模なグループが機動的にノウハウを持ち合い起業する環境で、小規模なオープン・イノベーションといったものである。こうしたインフラが拡大し、「自生的な市場秩序がもたらすダイナミズム」と結びつく時、そこに新たな日中共同のビジネスが生まれる可能性もあると言う。言わば、中国ビジネスのチャンスも、まだ依然として残されていることを強調しながら、著者は、この新書を締めくくっている。

 韓国や台湾といった近隣諸国、あるいは東南アジアに進出した企業も多かれ少なかれ、現地固有の労使関係と、その時々の両国の外交関係の影響を受けることは当然である。しかし、その中でも中国は、その生産拠点及び巨大な市場の双方で、日系企業にとって圧倒的に重要な先であると共に、その他の近隣諸国に比較しても、圧倒的に両国関係の政治状況が、進出企業の経済活動に影響することは、著者が説明してきた近代100年の歴史が物語っているとおりである。そして、その政治状況が経済活動に大きな影響を与えるというのは、その100年の間、基本的に変わっていないのである。そうであれば、我々ができることは、この100年の経験から学ぶことであろう。それはまずは、両国の経済関係の中で、ウィンーウィンの関係を構築できる分野を見つけ、そこに集中投資を行うこと。それにも拘わらず、一度国内的、国際的な政治的緊張が発生すれば、日本企業はそのターゲットになり易いということを常に忘れず、いろいろな形でリスクヘッジを行っておくことであろう。もちろん、最も重要なのは、そうした政治的緊張を回避することであるが、それは現在の両国其々の相手に対する国民感情が悪化している中では簡単ではない。そうであれば、少なくとも一度事が生じた時に、操業を維持できる非常手段を整備するー「チャイナ+1」はその一つの手段であるーと共に、現地での労務関係には常日頃から十分配慮しておく、ということであろう。この現地労働者、市場全体との融和的関係の構築と言うのが、特に中国に限らず、企業がグローバルに展開する場合の最大の要であることを、この作品はもう一度改めて認識させてくれるのである。

読了:2017年2月18日